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歪みの苑  作者: みづき
四章
62/82

<22>

 思考の波にとらわれていたニナはふと顔を上げる。

 扉の方からなにやら声が聞こえ、ニナはソファの背もたれから体を離した。

 言い合うような声に不審に思い、腰に携えた剣を軽く撫でてから扉へと向かう。次第に声が鮮明に聞こえてくると、それがなにやらもめるようなものだと気づく。

 そっと扉を開けると、ばたばたと走る数人が視界を横切った。

「おい、どこまで出回ってる!?」

「わからん! だが下町までは広がっていない! ――おい、これ以上広げるなよ!!」

「隣国にも悟られるな!!」

 甲冑に身を包んだ兵士たちが声を張り上げ、ニナはなんなんだと眉をひそめる。

 何人もの兵士が鈍く光る甲冑を鳴らしながら、慌しく廊下を駆けていった。

「まったく、陛下もどうしてこんなことを……」

「ただの下町に住む娘だ。それもこの国じゃないという。そのうち飽きて捨てられるさ」

「下町の娘が王の婚約者になるなど、さほど卑しい身分だろうな」

「どんな手段を使ったのかは知らんが、王ももう少し考えてくれればいいものを」

 あざ笑うような声が響く。

 城内にいた人たちの視線の意味は分かっていた。

 好奇、不審、突き刺すような視線――好意的なものばかりではなく、中には品定めでもするかのような視線すらあった。

「……ただ平和ボケしてるだけってわけでもないのね」

 相手に対してそれなりの警戒心はあるらしい。 

 それならなぜウィルが自分を城へ連れ帰った時に咎めてはくれないのだと、ニナはため息をついた。

「にしても、このままじゃ自由に外に出られないし……。部屋の外に出ることすら難しそうなんだけど」

 どうしたものかと、ニナはわずかに開いた扉の隙間から視線を巡らした。

 廊下にはたくさんの侍女や兵士が慌ただしく駆けていく。怒声のような言葉が飛び交う中、男たちほどではないにしろ、焦った表情を浮かべている侍女らが視界をかすめてニナは部屋の扉を閉めた。

 このまま部屋を出てもますます彼らを動揺させるだけだ。

「……だから言ったのに。仮で婚約なんかするからこうなるのよ」

 ウィルだけが咎められるのならそれでいいが、ニナまでもがその対象になられると困る。

 国王とただの下町の娘では根本的なところから違うのだ。真実は違うとも、確実にニナが問い詰められる。

 ――国王に取り入り、王妃の座を狙った卑しい娘。

 どんな手段を使ったのかと、下世話な想像をして嘲笑する声が耳底に残る。

 それが本当ではなくても彼らにはそう思えてしまうのだ。

 ふっと息を吐き出し、ニナは扉から離れようとしたその直後、扉が少し荒々しく叩かれる。

 外の喧騒は収まったようだが、もしかすると兵士か侍女かもしれない。

 ニナが警戒しつつ扉の取っ手に手をかけると、

「ねぇ! 君が〝ニナ〟!?」

 瞬間、ずい、と顔を覗かせた少年にぎょっと身を引く。

「ロイア王子!!」

 そして間髪いれず少年の後ろから駆けてくる背格好の似たもう一人の少年。

 十歳ほどだろう二人は黒髪で、けれど服装は明らかに違う。一人はいかにも高価そうな、白地に金糸の刺繍を施された服を着ており、もう一人は漆黒を纏ったような格好である。

 さらには腰に剣を携えていて、思わずぴくりと体が反応する。相手が子どもであっても、長年ニナを守り続けていた警戒が緩むことはない。

「――誰? なんで私の名前……」

 ニナよりも頭一つ分以上低い二人の少年を訝しげに見つめる。

「初めまして。カルティア国第二王子、ロイアと申します」

「第二王子?」

 首を傾げるニナに、白を基調とした服に身を包んでいる少年――ロイアは恭しく頭を垂れた。

 その身に纏う雰囲気はとても子どものそれではない。

 微笑む顔は無邪気そのものなのに、彼を包む雰囲気だけが異質だった。

 まるで、内面だけが異常に大人びているような。

「王の……ウィルの弟?」

「はい。――昨日兄上が連れてきたって、兵士に聞いたんだけど会わせてくれなくて。だから、自分で会いに来ちゃった」

 可愛らしく小首をかしげるロイアの後ろに控えるもう一人の青年が控えめに囁きかける。

「ロイア王子! やはりやめた方が……ウィル様に叱られますよ」

「どうして? ここに住むんでしょ? だったら挨拶しないと」

 無邪気に微笑む王子に、ケトルと名乗る少年は軽く眉を寄せた。

「ですが、ウィル様に聞いたわけではないのに……」

「だって兄上教えてくださらないし。昨日のことだって、仕方なく兵士に聞いたんだから。ケトルだって気になってたくせに」

「そ、それはウィル様をお守りするために……!!」

 昨日の夜は騒がしかった。

 外から聞こえるかすかな声を不審に思いながらも、すでに眠っていたロイアは半覚醒状態で、現実と夢の間をまどろみ続けていた。

 結局事の事態を聞いたのは翌朝であり、それもどこか様子がおかしい侍女らに問い詰めたのである。

「ひどいよね。せっかく兄上の婚約が決まったっていうのに教えてくれないんだから」

 ロイアは不満げな声を漏らす。

「誰を紹介しても嫌がってた兄上がやっと結婚するって言ったんだよ? ねぇ、兄上とどこで知り合ったの?」

 ずい、と今度は体ごと近づいてくるロイアに思わずニナの頬が引きつった。

 どうしてちゃんと説明しないのだ。噂を流すにしても、なぜきちんとした話を流さなかったのか――ニナは先ほどまで眼前にいた青年に胸中で毒づいた。

「わ、私下町で生まれたから……たまたま会って」

「下町出身なの? でもカルティアじゃないって兵士が」

「た、旅でね! ウィルが下町にいた時に出会ったの!」

 半ばやけくそになってそう叫ぶと、ロイアは思案顔で小首をかしげる。

「ふうん。……そっか、下町で」

「そう!」

 勢いよくニナが頷く。

 しばらく黙り込んでいたロイアが、ふと思い出したように小さな声を漏らす。

「ごめん、もう行かなきゃ。――母上と父上に、会いに行く時間だから」

「……国王と、王妃? あれ、でも今の国王ってウィルじゃなかった?」

「うん。母上と父上は死んだんだよ」

 さらりと言ってのけ、素直に頷くその口元にわずかに笑みが浮かんでいるのを見てニナは目を見開く。

「ん? ――どうしたの?」

「……あ、なんでもない」

 ゆるく首を振り、ニナはちいさく後退した。

 そんなニナに気づかず、ロイアはまたねと笑ってケトルと共に部屋を後にする。その後姿を眺め、ニナは微かに体を走る恐怖のような感覚にとっさに両手で体を抱きしめた。

 何だったのだ。

 ロイアの表情を見て体を走ったのは、明らかな悪寒と恐怖。

 あんな――あんな表情は、たった十歳の子どもがしていいようなものではない。

「な、に? あの子」

 何の感情もこもっていないような無機質笑み。けれどそれは作られたものなどではなく、ごく自然な微笑だった。

 きゅっと目を瞑って息を吐き、ニナはもう一度剣を撫でて扉から離れた。

 愛剣を固定してあるベルトから外し、豪奢なベッドの上に置かれている白いドレスを手に取る。

 幸い腰回りを強制的に引き締める器具は必要ないタイプのようで、ニナは手早くそれを身につける。そういった類のものを着たことがないニナへのウィルの配慮なのかもしれないと、ひらりとなびく裾を見つめながら思った。

 そしてベッドのそばにある、白く小ぶりで可愛らしい棚――その上に置かれているちいさなベルのようなものを掴んで軽く振る。

「出てきて。いるんでしょ」

 ちりん、と軽やかな音が部屋に響く。すると部屋の扉が静かに開かれ、侍女であるマリヤが現れた。

 白く可愛らしいドレスに身を包んでいるニナに一瞬息を呑む。

「何か――」

「ウィルのところに案内して」

 艶やかな黒髪と、滑らかな布地のドレスをなびかせながらマリヤの横を通る。

 そんなニナに、マリヤは心得たとばかりにちいさく頷いた。

「かしこまりました」

 ――部屋を一歩出ると、わずかに注がれる視線。

 その中に微かな動揺と息を呑むような気配がして、ニナはまずかったかなと小さく柳眉を寄せた。

「大丈夫です。そのまま堂々となさっていてください。あなたはもうこの国の国王――ウィル様の婚約者です」

 隣で囁くマリヤの声にちらりと目を向け、彼女にしかわからないように頷く。

 けれど、次に発せられた言葉に目を見開いた。

「たとえ仮であっても、周りの者には知り得ません」

「――な、何で知って……!」

「お静かに。周りにわかられては困るのでしょう?」

「……っ」

 行きましょう、と促されて微かに顔をしかめながらニナは廊下を突き進んだ。

 そして何度か角を曲がり、たどり着いたのは簡素な扉の前。

「ここ?」

「はい。執務室です。現在陛下は業務をしておられます」

「……入っても大丈夫?」

 勢いのようなものだけでここまで来てしまったが、仕事中なら迷惑だろうか。

 仮にも一国を統べる王である。仕事は国を動かすことに他ならず、それを邪魔するのはいかがなものか。

 扉の前でひとり悶々と考え込んでいるニナの背後で、マリヤが微かに笑う気配がした。

「そんなことをお気になされるんですね」

「だって……」

「――大丈夫ですよ。ウィル様のご婚約者であるあなたが部屋に押しかけたとしても、誰も文句は言いません」

「仮って知ってるくせに……!!」

 口元に小さな笑みを浮かべたマリヤは、いまだ渋っているニナの横を素通りして扉を軽く叩いた。

 どうぞ、と扉越しに今朝聞いたばかりの声がして、マリヤに促されるままニナは部屋の扉を開けた。

「ウィル」

 部屋の中に足を踏み入れ、あたりを見渡すと机に向かっているウィルを発見する。

 木製の机の上には紙の束が置かれ、傍にはぎっしりと本が並べられている棚があった。

「――どうした?」

 書類を書く手を止め、不思議そうに部屋の中を見渡すニナに小首をかしげる。その姿の周りに、かすかにほこりが舞っている気がしてニナは目を細めた。

「ここ、ほこりっぽくない……?」

「そうか? まぁ書類や資料やらがたくさんあるからな」

「侍女たちに掃除させないの?」

 ウィルなら簡単に一言命じそうな気がして首を傾げると、彼は怪訝な顔をして首を振った。

「いや、どうせすぐほこりが溜まる。いちいち掃除してたらきりがない」

「……へぇ」

 ほこりが目につけばすぐに侍女を呼び、片付けさせるのだろうとばかり思っていたニナは意外な言葉に目を瞬いた。

 手荒に人を扱うのだとばかり思っていたが――想像していた人物と、少し違うのかもしれない。

 ただし、まったく掃除しないのはさすがに汚いので、換気だけはさせているという。

 本や書類に囲まれた、どこか殺風景な部屋の中をぐるりと見渡して、ニナは口を開いた。

「ねぇ、ウィル。どうなっても、私は知らないからね」

 たとえ自分を婚約者として招き入れた結果が、カルティアを滅ぼす原因となったとしても。

「私は好きに暮らさせてもらうから」

「――ああ、それで構わない」

 真っ直ぐに視線を向ける彼女にふっと微笑むウィルにニナも微笑み返し、踵を返した時、

「婚約者という立場は忘れるなよ」

「――わかってる」

 その言葉に頷いて、ニナは再び部屋をあとにした。

 ――長らく平和を保ち続け、大国と言われるほどに繁栄したカルティア国。下町でさえも皆の表情は活気に満ち溢れ、どれも楽しそうに――日々の生活を送っていた。

 そんな彼らに、朗報がひとつ届いた。

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