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歪みの苑  作者: みづき
四章
56/82

<16>

 明るいうちに宿を確保しようと思ったニナは森を出て人通りの多い場所へ出た。

 まずはと、近くにあった宿に入ってみたものの店主に言われた金額が予想より高くニナは目を剥いた。

「一泊でこれって……高くない?」

 思わず口からでた呟きに宿屋の店主が苦笑する。

「これでも安い方だよ、お嬢さん。この倍はする宿もあるくらいだからな」

「倍!?」

「あぁ。倍とは言わないでも、ほとんどはここより高い宿ばっかりだな。……泊まっていくか?」

「こ、ここより安い宿ってないの?」

 これは本格的に働き出さなければならないのかとニナは顔をしかめた。

 アリエラと一緒に暮らしていたときは、彼女が日雇いの仕事をしていたためそれを紹介してもらい、毎日とは言わずとも働いてお金を貰っていた。

 しかしそのほとんどはアリエラに渡し、残ったものはすべて貯金に回している。それでもこの宿を何回も利用すればすぐにお金は底をつく。

「あるにはあるが……やめたほうがいい」

「いいの。教えて」

 なりふり構っていられないような様子の少女に男店主は深く息を吐き、危なくなったら逃げろと忠告してその場所を教えてくれた。

 ニナは礼を言い、さっそくその場所へ向かうと思わず足が止まる。

 大通りから大きく外れた場所、路地裏である。

 確かに安い宿もあるだろうが――ここは。

「……行くだけいってみよう」

 腰に携えた剣を軽く撫で、かすかに淀んだ空気の中に身を投じたニナは足早に目的地へ向かう。壁の端に溜まった男たちの虚ろな瞳を向けられながら、ニナはそれを振り払って突き進む。

 何度か角を曲がり、着いた先は意外としっかりとした面持ちの宿屋であった。

 木でできた扉を開け、中を覗き込んだ。

「おや、いらっしゃい」

 カウンターの奥に立つ店主であろう女が出迎えた。毒々しいほど真っ赤に染まった唇に、肩が露出している服。開いた胸元からはわずかにふくよかではりのある肌が見えている。

「泊まるかい?」

 真紅の唇を歪ませて女が首を傾げる。

 その口から発せられた言葉がまさしく毒のように思え、ニナは柳眉を寄せた。

 そのとき、テーブルを囲み真昼間から酒をあおっていた男らのうちの一人が首をひねる。とうに酔っ払っている男の瞳は現実との境目を失い、とろりとしていて焦点が合っていない。

「あんた、泊まってくのか?」

「お、客か。おい、ナヴィ。ちゃんと接客しなきゃだめだろ」

「わかってるよ。昼間から飲んだくれてるあんたたちには言われたくないね」

「おー、怖」

 おどけて笑う男たちの奥で、ナヴィと呼ばれた女店主が顎をしゃくった。

「あんたもそんなところで突っ立ってないで入ってくれば? 部屋、ひとつなら空いてるから」

「……」

「もう少し優しく言ってやってもいいのによぉ。なあ、お嬢ちゃん」

「うるさい。どっちでも同じだよ――おい、あたしは相手じゃないって言ってるだろ」

 ゆらりと酒の入った瓶を片手に立ち上がった男がナヴィの肩に腕を回す。それをうっとうしそうに払いのけると、男はだらしなく笑う。

「いいじゃねぇか。ここ、ほとんど客こねぇんだから。ちょっとくらい相手してくれたっていいだろ」

「それならあたしじゃなくてあの子にしてもらいな。ほら」

 入口で立ち止まっているニナに視線をやる。

「悪いね。こいつら悪い奴じゃないんだが――まぁ、あんたもじきに慣れるさ」

 歪んだ口元から出た言葉の意味を察したニナの脳裏に、路地裏に行くなと言った青年がよみがえった。飴色の髪をなびかせて、迷いなく森を突っ切るその後姿を。

 こういうことかと、ニナは納得する。

「悪いけど、やっぱりやめとく」

 男の手がこちらに伸びてくる前にそう呟いて、ニナは宿を後にした。

 ――結局、ニナは森へと戻ってきた。

 もともと森を拠点としてきたニナにとっては躊躇する理由もなく、いつものように愛剣を隣において瞳を閉じた。

 わずかに感じる地面の冷たさも、風が吹くたびに鼻をくすぐる草の匂いもとうに慣れきっている。どこか安心すらするこの空間に、年頃の女の子としてどうなのかと思わず口元に苦笑が浮かぶ。

 あたりに神経を張り巡らせて、ニナは浅い眠りへと落ちていった。

 がさり、と音がする。

 眠りについてしばらく経ち、何もかもを取り込むような闇へと変わったころ。

 ニナは再びした木々のこすれるような音に瞳を開け、すばやく愛剣を掴む。

 もうあたりは目を凝らさなければ何も見えないほどの闇に包まれている。

 こんな時に強盗かと思ったが、そこには何の気配もない。

「……」

 ニナは耳を澄ませ、かすかに届いた音の方向を確かめると音もなく移動する。

 木の影からそっとうかがうと、そこには月光に照らされた人影があった。

 ゆるり、と人影が動く。

 そしてその月明かりに照らされた顔を見て思わず目を見張る。

 月の明かりだけでもわかるほど整った顔立ちに、さぞ値が張るだろう服。ニナが昼に出会った青年だった。

 強張っていた肩の力を抜く。

 まさかまた会うとは。しかもこんなところで、こんな時間に。

「……何してるの?」

 迷った末に声をかけると、青年が振り返る。

「何してるの? こんなところで」

「……それはお前もだろう?」

「わ、私は別に……その、眠れなくて」

 まさかすぐそこで眠っていたなどとは言いにくく、ニナはそう言い淀んだ。

「一人でなにしてるの。夜盗に襲われるわよ。それでなくてもそんな格好してるのに」

 夜目でもわかるほど高価な服を着ている彼はかっこうの獲物になるだろう。武器も何も持っていない青年とでは圧倒的に経験が違う。

 どこか立っているだけでも風格のある青年は、おそらく育ちがいいのだろうとニナは判断する。けれど、そんな青年をひとりでこんな場所へ行かせていること自体に疑問を覚えた。

「誰かと一緒じゃないの?」

「あぁ。ここは俺以外知らない」

「……危ないわよ」

 誰も知らないような場所へひとりで行き、何かあったらどうするつもりだ。

 見た目だけで金を持っていそうな者を判別するのは盗賊の得意とすることである。瞬時にわかられ狙いを定められる。

 金のなりそうなものだけを奪っていくならまだいいが、人質やそのままその人自体が売り飛ばされることだってありうるのだ。

「お前がいるから大丈夫だ」

 かすかに笑いを含ませた声にニナが怪訝な顔で首を傾げる。

「何で?」

「出会った時も、すぐ剣を向けただろう。あれは驚いた」

「あ、あれは……!! いきなり出てきたからびっくりして……条件反射っていうか!!」

 いきなり目の前に現れればつい反射で身構えてしまうのも仕方がないだろう。たとえそれで剣を突きつけたとしても。

「……でも、ごめん」

 けれど、何もしていない人に対していきなり剣を向けたのはやはりよくない。

「いきなり剣を向けたことは謝る。ごめん」

 そう思ってニナが謝罪すると、青年はわずかに目を瞬いて、

「……月、綺麗だろう」

「え、あ……あぁ」

 と、月を見上げてそう呟いた彼にニナはぎこちなく頷いた。

 月の光の下照らされるどこか儚げなその横顔をぼんやり眺めていると、青年は帰るとちいさく呟いて森の奥へ消えていった。

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