<13>
「兄上」
ひょっこりとロイアが執務室に顔を覗かせた。
「どうした?」
書類を書く手を止め、ロイアを部屋に招く。ぱっと嬉しそうな笑みを浮かべて部屋に入ってくるロイアは、兄であるウィルと同じ母譲りの飴色の髪をしている。
ふわふわと揺れるその髪を見ていると、あの優しげに微笑む母の姿が脳裏によみがえった。
――父と母が死んでから、結局犯人は捕まらなかった。
ただ幼いと理由だけでウィルは疑われなかったが、それでも彼を怪しむものは少なくなかった。しかし常にどこか虚ろげな表情をしているウィルに彼らは口をつぐんだ。
けれど、それでもウィルは自分から言おうかと思っていた。
自分が母を殺し、そして父までも手にかけたと。
ウィルにとっては泣いて懇願する母の願いを叶えただけであり、城の者たちがなぜそんなにも騒ぐのかとどこか不思議に感じていた。
願いを、叶えただけだろう。
好きだった母に剣を渡され、これで自分を殺してくれと頼まれただけだ。
そしてその願いを、叶えただけ。
「兄上、明日はお時間ありますか?」
「明日?」
「はい。兄上に見ていただきたい人がいるんです」
あれから二年が経ちウィルは十二歳、ロイアは八歳となった。わずか八歳のロイアは両親がいなくなったことを告げられ、意味も分からないような顔をし――けれど日が過ぎていくごとにその実感がわいた。
どうして二人はいなくなったのかと、一度ウィルはロイアに問いかけられたことがあった。
死んだんだよ、とどこか冷静に話している自分を遠くから見ているような感覚がしたのを覚えている。
「すごくいい子で、兄上にも見ていただきたくて」
「そうか、わかった」
頷くウィルにロイアは嬉しそうに微笑んだ。
――そして次の日、ロイアは少女の手を引いて嬉しそうに微笑んでいた。
「ね、ねぇ、ロイア。王城なんて私が行って大丈夫なの? それに国王様に会うなんて」
「大丈夫だよ。兄上が了承してくださったんだ」
心配そうに眉を寄せる少女は、アンナという。そばかすの目立つ頬はわずかに日焼けし、健康そうな面持ちを感じさせる。
彼女は、ロイアがこっそり下町に出たときに出会った少女だった。城に帰ったときに怒られたけれど、少女と遊んだ時のことの方が嬉しくてロイアはこりもせず何度も下町へ行った。
ロイアが第二王子だからもう遊べないというアンナに構わないと笑って、強引に手を引いて野原を駆け回った。
城の中ではあまりいい顔をされなかった遊びも、アンナとならできる。好きなだけ走り回り、頭に葉をつけるほどあたりを駆け――自分が王子であるということすら忘れさせてくれるほどの楽しい時間を、彼女はくれたのだ。
そしていつの日か。
「兄上に会ってもらって、それから……」
誰一人として、兄と同じ教育係のスワナでさえ彼女にはもう会うなと言った。理由を訊けば身分が違うのだと言われ、しかしロイアにとってはそれがどう問題になるのかわからなかった。
ただ遊んでいただけなのに。
同じ年頃の子と遊ぶのはいけないことなのか。
でも、兄であるウィルならわかってくれる。
ウィルに彼女を紹介し、そしていつの日か芽生えたこの想いをアンナに伝えるのだ。
彼女も同じ気持ちだったら嬉しい。
アンナも同じように、自分と会う日を心待ちにしてくれていたら嬉しい。
はやる気持ちを抑えながら、初めて入る王城に緊張で固まっている彼女を手を引きロイアは兄のいる部屋まで行った。
王の部屋の前を守る兵士はぎょっとしたように目を見開いたが、何も言わず通してくれた。事前にウィルが言ってくれていたのだろう。
アンナを受け入れてくれる。ロイアは思わず頬が緩むのを感じた。
「兄上」
「あぁ、入れ」
扉を開け、やっぱりと後退するアンナと連れ立って部屋の中に入る。
ウィルは優美な装飾の施された椅子からゆっくりと腰を上げた。わずかになびく高価そうな服は金糸で刺繍の施されている。
「兄上。彼女がアンナです」
「あ……。は、初めまして、アンナと申します」
精一杯の礼儀とアンナは深く頭をさげた。ただの下町の少女に礼儀などわからない。
びくびくしながらウィルの顔を見上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「――ロイア」
ほっとした途端、ウィルがロイアの名を呼ぶ。
刹那。
真っ赤な血が、アンナの視界を染めた。
それが誰の血であるのか、そしてなぜ自分が床に崩れようとしているのかすらわからなかった。
すべては一瞬の出来事。
ロイアは瞬く間に真紅に染まっていく床と、血に濡れた最愛の少女を呆然と見下ろしていた。そして視界の端に、血に濡れた己の剣を振る兄の姿が映る。
「アン……ナ?」
膝を折り、そっと手を伸ばす。ぬるりとした生暖かい血が指に触れ、ロイアは愕然とした。
つい先ほどまで隣に佇んでいた彼女がぐったりと床に倒れている。その理由がわからず、揺れる瞳を彷徨わせながら今度はひときわ赤い花が咲いている部分に手を伸ばす。
肩の辺りから腹部にかけて斜めに深く斬られている。そこから血が出ているのだから抑えなければ――かすむ思考でロイアはぐっしょりと濡れる服の上に手をかざした。
これでどうだとアンナの顔を見るも、彼女は目を閉じたままぴくりとも動かない。
「アンナ……?」
呼びかけにも応じないアンナにロイアは小首をかしげ、さらに強く斬られた部分を押さえつけた。その瞬間悲鳴が喉に詰まり、ロイアは押さえつけていた手を引っ込める。
あまりにも生々しい感触に驚き、ロイアは言葉を発せず血に染まったアンナの頬に触れた。そしてすでに動かなくなった彼女をまた呆然と見つめる。
あまりにも突然すぎたそれはロイアの考えを停止させた。
そんな姿を、ウィルはどこか虚ろ気な眼差しで見つめている。
――頭の中で、声が木霊していた。
殺してくれと泣いて叫ぶ母の声。幾度にも重なって聞こえるその声はウィルの思考までも奪っていった。
ウィルは、何かがずれていたのかもしれない。
殺してくれと叫ぶ母を手にかけたその時に。
だから、その母の姿に似たアンナを見た瞬間に思ったのだ。
――殺さなければ、と。
死んだはずの母が生きている。殺してくれと懇願した母が。
ならばもう一度殺さなければ。
「兄、上……」
血だまりの中で、ロイアがつぶやく。
まだ上手く動かない頭の中に、二年前の記憶がよみがえる。
二年前、ロイアはわずかな隙間から母の部屋をのぞいていた。いつもならいる侍女も、部屋を守る兵士もいないことに首をかしげながらも叫ぶ母の声につられて、こっそりと。
そのとき、見たのだ。
たっぷりと血を吸った剣を持って佇む兄の姿を。
その時は、兄が両親を殺したのだとはわからなかった。
――でも、笑ってたのだ。
血に染まる部屋の中で、ウィルは。
それが見間違いではなかったと今感じた。




