<5>
居心地が悪い。
仁和はちらりと視線を移す。
視線の先にはにこにこと笑いながら給仕するサリーがいる。
「……夢じゃなかった」
朝、微かな期待を胸に目を開けた。だが、その期待はものの見事にぶち破られた。
豪華な天蓋つきベッドからため息とともに起きたのはつい数分前のことである。
はぁ、とため息をこぼしつつ朝食を口に運ぶ。
「お口にあいますか?」
「……うん、おいしい」
出された食事は申し分なく、驚くほど美味しかった。
香ばしく焼かれたパンを口に頬張り、
「ねぇ、ウィル……陛下ってどこにいる?」
「陛下、ですか? 今の時間帯ですと自室におられるかと」
「自室」
と、サリーの言葉に唸った。
朝から自室に押しかけるのも非常識か。だが、気を使っている場合ではない。
部屋を与えてくれて、さらに食事までつけてくれた。それには感謝しているが、仁和の意志はまるで無視な陛下と呼ばれる男に文句のひとつでも言いたい。
さらに昨日は会議で話さえできなかったのだ。
「全部勝手に決めちゃって……」
強引に連れてきては保護するという名目のもと、部屋に案内された。
この強引さは国王だからなのかと小首を傾げながらも用意された朝食は綺麗に食べきった。
そういえば、家を出たのは昼前だった。家に帰ってから昼食を食べようと思っていたのだ。
「どうりでお腹すいてると思った」
綺麗になった皿を嬉しそうに片付けるサリーに礼を言って、仁和は立ち上がる。
これからどうするか。
まずはあの男にあって話をしなければならない。
「ね、陛下の自室ってどこ?」
そう思ってきょとんとするサリーに聞く。
「自室ですか……? ご案内いたします」
「ううん。道さえ教えてくれればいいから」
「わかりました」
よし、と仁和は頷いて窓に寄る。
清々しいほどの青空にゆるやかな風。小鳥のさえずりが聞こえて仁和はほっと息をつく。こうしていれば、ここがもといた場所ではないと忘れてしまいそうになる。この呆れるほど豪華な部屋をのぞけば。
「仁和様、ケトル様には会いましたか?」
「え? ……あぁ、うん」
ケトル。
その名を聞いて仁和の護衛をするのだと言っていた少年を思い出す。
黒い服に身を纏った少年は、城内を歩き回る甲冑を着た兵士とはずいぶん違う。剣は持っていたが体を守る防具は一切身につけていない。
「護衛も断らないとなぁ」
「だめですよ! 陛下のご命令です」
「でも、護衛なんて……。っていうか、陛下って何考えてんの」
こんな身も知らずの仁和に護衛までつけるなどどう考えてもおかしい。それに城の中にいるのであれば危険な目に遭うことなどないのではないか。
そもそも、服装からして国が違うことはすぐにわかるだろう。怪しいとは思わなかったのか。
「全然わかんない」
何を考えているのか。なぜこんなことをするのか、さっぱりわからない。
「まぁ、全部聞けばわかるんだけどね」
片づけが終わったサリーに行き方を聞いて、仁和は軽い足取りで廊下に出る。
「どちらに?」
「――ケトル!?」
出た瞬間に声をかけられ、飛び上がらんばかりの勢いで仁和はびくりと震えた。
横を見ると、昨日と同じ状態のケトルが立っている。
相変わらず気配が全くしない。
「今度はどちらに行かれるのですか?」
おそらく昨日ことをいっているのだろう。
人目を盗んで外に出ようとしたから、また今日もかと。
「ち、違うから! 今日はその、陛下のところに……」
「陛下? 今は自室にいらっしゃいますが」
「うん。だから、サリーに道を聞いて」
訝しげに眉をひそめるケトルに慌てる。
「昨日は会議だったでしょ? だから話せなくて」
「……そうですか。ご案内いたします」
「え? サリーに道聞いたから、ひとりで大丈夫だよ」
「俺はあなたの護衛です。――行きましょう」
驚くまもなく体を反転させられ、歩くよう促される。
首をひねると頭を下げて見送るサリーが目に入った。とめる意志はないらしい。
落ち着かないながらもケトルのあとを追うようにして歩く。
長い廊下を進みながらあたりを見回して、仁和は感歎にも似たため息をついた。
本当に、無駄に金をかけすぎている。
壁にかけられている絵画や等間隔で置かれている壷。どれも仁和の部屋にあるものよりかは質が落ちているように見受けられるが、それでも十分高価なものだ。
「無駄にお金かけるのが好きなのかな」
一般家庭の仁和には考えられないほどの額だろう。それも、壷ひとつで一ヶ月は余裕に暮らせるほどの。
首をかしげながら呟いていると、
「あれ? 君」
ふいに声をかけられた。
はっとして前を見ると、ゆったりと青年が歩いてくるのが目に入る。
見た目は仁和とそう歳は違わないはずなのに、服装が陛下であるウィルと同じような一目で高級だとわかるほどだった。
隣を歩いていたケトルがそっと頭をたれる。
仁和の目の前まで歩いてきた青年は流れるような動きで跪いて手を取り――そっと唇を寄せた。それを目で追っていた仁和がちいさく悲鳴をあげると、青年は笑ってみせる。
「兄上に保護された子でしょ? よろしく」
「あ、兄上……?」
混乱している仁和から視線をはずし、今度はケトルに笑いかける。
「久しぶり、ケトル」
「ロイア王子」
「兄上の護衛してたのに、変わったんだ?」
「はい。陛下の命で」
交わされる言葉の内容に仁和が目を剥く。
「お、王子……!?」
「うん、そうだよ」
金糸で綺麗に刺繍がほどこされた服をなびかせて、ロイアは微笑む。
「ってことは、ウィルの弟……?」
ロイアが王子なら、兄は陛下だ。
「でも、髪が」
兄であるウィルの髪は飴色である。しかしその弟であるロイアの髪は黒い。両親がそういう髪色だったのなら納得いくが、兄弟で髪色が違うことがあるのだろうか。
「あぁ。これね」
さらりと揺れる黒髪に触れる。
「あの色、嫌いだから」
ロイアが薄く笑う。
その細められた瞳を見て、ぞっと悪寒が走る。
仁和は知らずに身を引いた。笑っているのは口元だけで、瞳はどこか憎悪さえ滲ませるような色合いだ。
けれどそれは一瞬で消え去り、また友好的な笑みを浮かべた。
「もうちょっと話したかったけど、用事があるから。――またね、仁和」
目を見開く仁和に微笑みかけて、ロイアは来た道を戻った。
「……仁和様」
「え、あ……行こっか」
しばらくその後姿を呆然と見詰めていた仁和にケトルがそっと声をかける。
なんでもないと首を振って、また先を歩くケトルについて行く。
どこまでも続く廊下を見つめて、早く道を覚えなければ迷子になってしまいそうだとひとり苦笑した。
長い廊下を進んだその先。一際大きい扉の前に槍を持った二人の兵士が立っているのを見て、ケトルが足を止める。
「ここが陛下の自室です。ここから先はお一人で」
「え!?」
てっきりこのままついてきてくれるのだと思っていた。
だが、違っていたらしい。すでに距離をとるケトルに困惑の視線を向けるながらも、頭を下げる兵士にさらに困惑して扉を押し開けた。
「広っ……」
思わず出た言葉にはっとする。
仁和に用意された部屋の倍近くはある広さだ。扉からしてずいぶん大きかったが、ここをひとりで使うのかと半ば呆れてながらも恐る恐る足を進め、
「ウィル」
椅子に腰掛けたウィルを見つけた。
その雰囲気は昨日とはまるで違い、仁和に気付いて向けられる瞳が驚くほど優しい。
「と、突然すみません」
昨日とはまるで違うウィルの様子にうろたえて、言いたかったことなどすっかり忘れて仁和は身を縮めた。
「いや、いい」
「あの、ウィル――じゃなくて、陛下」
「ウィルでいい」
「え、でも」
一国の王を呼び捨てなどと。もうすでに何度か呼んでいたが、さすがに本人の前では躊躇われる。
じっと見つめてくる瞳は有無を言わさない雰囲気を醸し出していて、けれどどこか優しさのような色も混じっていた。
「……じゃあ、ウィル」
「あぁ」
「ひとつ訊きたいことがあります」
「敬語もいい」
「……」
さらりと言われてまた言葉に詰まる。
いちいちそんなことを言われていれば、一向に話が進まない。だが、そのほうが楽だ。言いやすいというのもあるが、気を使わなくてすむような気がする。
「訊きたいこととは?」
「――どうして、私を部屋に?」
単刀直入に問う。
「言っただろう。保護だと」
さして気にした様子もなく、ウィルはさらりと言う。
「確かにそうだけど、見ぬ知らずの人にそんなことしないでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「だったらなんで――」
「なら逆に問おう」
静かな声に仁和が止まる。
ゆっくりと向けられた蒼い瞳。深い海を連想させるような瞳が今は暗い闇を感じさせ、まっすぐ仁和だけに向けられている。
少女を見ているはずが、まるで何も映していないような瞳。
「何が気に入らない?」
仁和の瞳が揺れる。
何かが、ずれていく。
奇妙な感覚を感じて仁和は知らずに凝視していた。
「この現状に文句を言うのはおかしいのではないか? 行くあてもない、ここがどこなのかもわからない――別の世界から来たのに」
びくり、と肩が揺れる。
大きく見開かれた仁和の瞳は驚きで揺れていた。
「な、んで……知ってるの?」
ここではない、別の世界から来たのだと。
仁和はここを異国の土地だと、そう思い込もうとしていた。信じたくなくて、そう思いたくなくて。
でも、心のどこかでわかっていた。
ここは違う。別の世界――異世界と呼ばれるものだと。
「そのことについては、私からご説明しましょう」
音もなく近づいてきたグランディは二人にちいさく頭を下げた。
「仁和様、とおっしゃいましたな。あなたは意識を失う前、何をご覧になられた?」
「え……なにって……」
「歪みを、見られたのでしょう」
歪み。
ぐにゃりとゆがんだ空間。突如教室の片隅に現れたもの。
その光景を思い出して仁和はわずかに眉を寄せた。思い出すだけでも不快感に襲われる。
「おそらくそのせいです。まだ研究段階ですが……あなたがこちらへ来て、少しわかることもありました」
「なにかわかったのか、グランディ」
「ええ。おそらくあの歪みとされるものは、仁和様がもといた場所に繋がっているのでしょう。そして触れてしまったが故に、こちらに来てしまった」
別の、異世界と呼ばれる場所に。
「偶然にしては、でき過ぎていますが――まだ研究段階でして、ただそこに繋がっているのだということ以外はなにも」
ゆるく首を振るグランディに、仁和は唇を噛んだ。
おそらく、帰れないということなのだろう。
あの不可解な歪みに触れてしまったなら、もう一度触れる必要がある。けれどその歪みは姿を消し、触れることはおろか見ることもできないらしい。
「仁和。しばらくここにいるといい。あの部屋も好きに使ってかまわない」
ウィルの言葉に、仁和はちいさく頷いた。
他に行くあてはない。何も知らない土地を彷徨うよりかははるかにいい。
二人に頭を下げて、仁和は部屋をあとにした。