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あっという間に、季節は過ぎていった。
アリエラは本当に子どもができたみたいといつも笑っていた。包み込むようなその笑顔は死んだ母を思い出し、辛くなることはあっても涙を流すことはない。
守ってくれた母に胸を張れるように、前に進むと決めたニナは温かな空気の中で暮らしていた。
「その洗濯物はこっちのかごに入れておいて」
「うん」
取り込んだ洗濯物を言われたかごに放り込む。太陽の日差しをめいいっぱいに受けたそれらは温かく、まるで太陽そのもののように感じる。
「いい天気ねぇ。洗濯物もいつもより早く乾いちゃったわ」
晴れ渡る空に鳥が横切る。アリエラと並んで澄んだ青空を見上げていれば、いつの間にか時間は過ぎていく。
それはすでに日常となりつつあった。
このままいけば、ずっとこの家に住み続けるだろうと思うほど。
「お茶淹れるから座って。今日はお菓子も焼いたのよ」
洗濯物が入ったかごを部屋の中に置いて、アリエラはキッチンへ消えた。しばらくしてからアリエラは紅茶の入ったポットとティーカップ、そしてお菓子が盛られた皿を乗せた台を手にいそいそとニナの待つテーブルに向かう。
芳ばしく、さまざまな形に抜き取られた菓子が甘い匂いを漂わせていた。可愛らしく型の抜かれたそれらを見て思わずニナの顔がほころぶ。
けれど、皿いっぱいに盛られた焼き菓子は二人で食べきれるような量ではなかった。
「ちょっと作りすぎちゃって。あとでご近所の人に分けに行ってくれる?」
アリエラは淹れたての、彼女おすすめの紅茶が入ったカップをニナの手元に置きながら苦笑した。はりきりすぎてつい作りすぎてしまったらしい。
「わかった。あとで持っていくね」
「頼むわね。さ、座って」
眼前に置かれたカップを素通りしてニナは焼き菓子に手を伸ばす。一枚とって口に運ぶと思わず頬が緩んだ。
「おいしい」
独特の食感のそれは甘く、いくらでも食べられそうだった。シンプルな味だがそれがまたおいしい。
ニナは咀嚼もそこそこにまた焼き菓子に手を伸ばす。
「あぁ、そうだわ。ニナ、カルティアって知ってる?」
「……カルティア?」
口の中に放り込み、咀嚼して紅茶の入ったコップに口をつける。菓子の甘さと、紅茶の控えめな甘さが丁度いい。
「そう。国なんだけど」
きょとんとアリエラを見返す。
聞いたことのない国だった。もとより国などあまり知らないニナである。
「ここから北に行ったところなんだけど……結構豊かな国らしくて」
小首をかしげるニナに、アリエラは寂しげな表情で言葉を紡ぐ。
「カルティアに、行ってみたらどうかなと思って。もちろんニナがいなくなったら寂しいけど、いずれは出て行くでしょう?」
「……うん」
ずっと、ここにはいられないのだ。もちろんここにいるという選択肢は存在する。
けれどニナにとって、その選択肢はないものに等しい。
「でも、まだここにいるよ」
そう言うと、アリエラは微かに涙の浮かんだ瞳で微笑んだ。
まだここにいたい。
アリエラと一緒に、近所に住む心優しい人たちと一緒に。
「そうね」
小さく頷いた彼女に微笑みかけて、ニナとアリエラは菓子を囲んで会話に花を咲かせた。
「――はい、これ。場所はこの前行ったご近所さんの家だから」
焼き菓子を包んだ布を渡され、ニナは頷いた。
まだほんのり温かいようなそれをしっかり持って、ニナは記憶を辿りつつ家を出る。
アリエラの家があるここは、ニナの住んでいたちいさな村と比べると倍以上はあった。けれどそれも町とは言えるほどのものではなく、しかし温かな村であった。
自然に囲まれたこの村に住む人たちは皆優しく本当の家族のような雰囲気を持つ。それがニナは好きだった。
――しばらく歩いた時、ニナは反射的に腰に携えていた剣を抜いた。
それはアリエラの家で過ごしていた時でも手入れを欠かさなかったもの。少しでも外へ行くようであれば必ず持って行き、人目につくような場所なら見えないように隠し持っていた。
ニナはがさりと一際揺れた木々を睨む。
「……誰? 出てきなさい」
「ずいぶんなお嬢さんなんだな」
生い茂る木々の陰から出てきたのは、全部で五人の男。そのうちの一人に見覚えがあるのを思い出してニナは目を見張った。
「あなた……!!」
「覚えてたか? あの時はどうも」
下品な笑みを浮かべる男はアリエラと出会ったまさにその時、ニナが斬った男であった。致命傷ではない、けれど動けなくする場所を的確に斬った男は仲間を引き連れてこちらを見ている。
仕返しか。
すでに抜き身の剣を持っている男らを見て眉を寄せる。
「前はちょうどこっちに来てた時だったんでね。あんな歓迎を受けるとは思わなかった」
「……あなたが先に悪いことしたんでしょう」
「おかげですぐには動けなかったよ」
人を襲っておいてその言い草か。
こっちがどれだけ嫌な思いを――気持ちが悪くなる思いをしたと思っているのか。
剣を向けてくる相手に容赦しなくなったのはつい数年前からである。極力殺さないよう、けれど動けなくなるようにしてきたが、この時だけは殺しておけばよかったという思いが脳裏を過ぎった。
「今度こそ逃がさねぇ」
「ずいぶん根に持つタイプなのね? 女に逃げられるわよ」
かっと男の顔が赤くなる。
どうやら図星だったらしい。
「やれ!! お前ら!!」
「命令してほしくねぇんだけど」
「うるせぇ! 金払ったんだからとっとと仕事しろ!!」
仲間のうちの一人がめんどくさそうに口を開くが、それを男が怒鳴りつけた。
男は錆び付いたような抜き身の剣を振り回す。
「はいはい」
だるそうに返事をし、前に出た男にニナは身構えた。どことなく、他四人のまとう空気と違う。
それに気がついたとわかったのか、男の口元が笑みの形に作られる。その隙間からは特徴的な八重歯が見えた。
ニナは片手にアリエラから受け取った焼き菓子を抱いて、右手で剣を握る。どこか安全な場所におく時間などない。姿勢をわずかに低くしたニナはまず一人の男の懐へともぐりこんだ。
ごめんとちいさく呟いて、とっさに反応の鈍った男の腹へ思い切り剣の柄を打つ込む。崩れ落ちた男に目もくれず、次の標的へ。
「暴れ馬か」
どこか笑いを含む声色が背後で聞こえ、ニナは向けられる剣を受け止めた。
重い衝撃に思わず顔をしかめると、その剣を持つ相手は八重歯の男だった。
高い金属音が鳴り、その顔が面白そうに歪められるのと同時に二人は後退する。四人に囲まれたニナはさっと視線をめぐらした。
どこが一番突破しやすいか。狙いを定めてニナは右の男のわき腹を斬る。間髪いれずに次の男へと斬りかかった。
迷っている場合ではないのだ。障害物のない場所で固められれば身動きが取れなくなる。
床に伏していく男たちから視線を外し、先ほどから動かないひとりの男を見据えた。
「……ふうん。面白そうだな、あんた」
特徴的である八重歯を覗かして男が笑う。思わず眉を寄せたニナに、ひらひらと手を振ってみせる。
「金払った奴はやられたし。――俺は帰るかな。それとも、一戦交えとく?」
じっと、男から視線を外さないニナにふっと口元を歪め、剣を鞘に直して踵を返した。言葉どおり本当に帰るようで、ニナは固くなっていた体から力を抜く。
そして低くうめき声をあげる男らを見下ろす。
やはり、これ以上ここにはいられないらしい。
ニナ自身も、もって一年だろうと考えていた。そして、ちょうど今がその頃であった。
アリエラと一緒にいれば、やがて彼女にも危害が加わる。一緒にいたいと思っていても、よくしてくれているアリエラが傷つくかもしれないと思うと自分の身勝手な思いではここに留まれなかった。
それに自分ひとりで守れるかと考えると、自分が彼女から離れていった方がよほど安全であった。
ここではない、どこかに。
「……カルティア」
ここから北へ行ったところに、カルティアという国があると、アリエラが言っていたのを思い出す。
長い間平和を保ってきたという国。
行くなら、そこに行きたいと思った。
ニナはアリエラの家に続く道を振り返り、ぎゅっと目を瞑る。
本来なら、きちんと礼を述べて別れを告げるべきだろう。
けれど――
「ごめん。アリエラさん……ありがとう」
そのままの足で、アリエラに頼まれた菓子を近所の家に送り届け、ニナは北へと進んでいった。




