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少女を家に招いた女はアリエラというらしい。
微かに目が赤くなっているが、落ち着いた少女の目の前にアリエラは湯気の立つコップを置いた。
「ねぇ、あなたしばらくここにいない?」
「え……?」
「最近は物騒だし、ここなら安全だと思うの」
それに、とアリエラは続ける。
「一人で住むのには広すぎるから」
どこか寂しげに微笑んだアリエラは、自分の横にある空席の椅子に視線を移す。
「あの人が逝ってしまう前にまで、って思ってたんだけど。結局子どももできなくてね」
「……亡くなったんですか?」
「ええ、数年前ね。最後まで、あの人らしかったわ」
アリエラは懐かしむように瞳を細めた。
「だから、とは言わないけど。よかったらここで暮らさない? なにもずっとなんて言わないわ。――出てきたくなったら、いつでも出て行って構わないから」
「……でも」
迷惑ではないのだろうか。
見ぬ知らずの少女を家に招き、食事を出してくれた。これだけでも十分ありがたいのに、さらにはここに住んでもいいという。
悪い人ではないのだろう。
にこにこと笑うその姿は太陽そのもので、故人となった彼女の夫も、さぞ幸せだっただろうと感じるほど。
「迷惑じゃ、ないですか?」
「迷惑じゃないわ」
少女は視線を彷徨わせ、わずかに逡巡した後頭をさげた。
「……じゃあ、お願い……します」
途端、ぱっとアリエラが微笑む。
よかった、と笑っていそいそと立ち上がる。
「そうと決まれば寝る場所を用意しなくちゃね! あと他にも――」
「寝るのはどこでもいいです。床でも」
実際外で寝るほうが多かった。寝る時でも常に警戒していたためか睡眠は浅く、眠りなどあってないようなものだったが、そのおかげかどんな状況下でも寝られるようにはなっていた。
淡い花が咲く季節なのだ。気温も比較的温かく、少しひんやりとする床でも毛布を敷けば十分寝られる。
「だめよ、女の子なんだから! ベッドはお客用だけどそれを使って……用意しておくから先にお風呂にはいってらっしゃい」
アリエラの言葉にありがたく思いつつ微笑して、示された部屋のドアを開けようと手をかける。
「あ、待って。まだ名前聞いてないわ。――なんて名前?」
自分だけが名乗っているのに気がついたアリエラが慌てて声をかける。自分の唇がちいさく震えるのがわかった少女は、きゅっと軽く口を結んだ。
長い間呼ばれなかった自分の名前。ましてや自分から名乗ることなどなかった。
脳裏に過ぎる自分の名を呼ぶ母の温かな声。
まだ鮮明に思い出せるその声に重ねて、微かに震える唇で少女は名を紡ぐ。
「――ニナ」
と。




