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歪みの苑  作者: みづき
四章
42/82

<2>

 父が荒れ狂うのは、酒を飲んでいる時だけだった。

 家では極力出さず、けれど代わりにどこかで飲んできているようだった。

 そのたびに母は体に痣を作り、目に涙を浮かべる娘に大丈夫よと微笑む。

 それが、日課だった。

 何も変わらない、変われない日々。

「そうそう。上手よ」

 言われたとおりに剣を振るう少女の額には汗が浮かんでいる。その手には、少女には不釣合いな大きさの剣。柄には細かな傷があり、それでも丁寧に手入れしていると一目でわかる品だった。

 それは、母の愛剣である。

 昔はかなり腕の立つ剣士だったようで、その道の人たちには有名だった母は娘にもその剣術を教えていた。ちいさな手には有り余るほどの剣は次第に馴染みだし、体も思うように動くようになっている。

 母はそんな少女を微笑んで見つめ、けれど同時にどこか悲しげでもあった。

「お母さん?」

 一通り剣を振るい、荒い息の中少女は母を見上げた。

「なんでもないわ。だいぶ上手くなってきたわね」

「お母さんが教えてくれたから」

「……そうね。――そろそろ日が暮れるわ、家に帰りましょう」

「うん!」

 剣を母に返し、少女は差し出された手を掴んだ。

 ちいさな自分の手を包む温かな母の手に自然と顔がほころぶ。

 手を繋いだまま二人は家へと向かう。木でできた温かみのある家は、大切な居場所であった。

 ――母の作る料理の中で一番好きな、野菜たっぷりのスープ。それを口にふくんだとき、荒々しく扉が叩かれた。

 首をすくめた少女に母は優しく微笑む。

 父ではない。

 この時間には帰ってこないし、扉を叩く前に家に入ってくる。

「食べてて」

 席を立った母が扉を開けようとした瞬間、勢いよく扉が開いた。

「あぁ? なんだ、女子供だけか」

 ぶらりとだらしなく腰に下げられた剣を手に持った二人の男。薄汚れた服に伸ばされたままの髪。

 目を見開いたまま固まった少女をとっさに母は庇うように抱きしめる。

「お、お母さ……」

 男たちの正体がなんなのか、それは少女でさえも瞬時にわかった。

 近頃村を狙って現れる、強盗である。金に換わるものがなければ人を売り、金を稼ぐ。そういう類のことを平気でやってのける男たちだった。

 被害にあったところはいくつもあり、中には親しくしていた人の家も狙われていた。

 気をつけろといわれていたにもかかわらず、こうして目の間にすると体がすくんで何も考えられなくなってしまう。

「おい、女。殺されたくなかったら大人しくしてな」

「……」

 母は微動だにせず、目の前の男を睨んでいる。

 二人は荒い手つきであちこちを引っ掻き回す。乱暴に掴みあげては舌打ちして床に放り投げる。金目のものが見つからなければ八つ当たりするように物を壊す。

 瞬く間に家の中は荒れ、少女はそんな男たちの動きから目を離せなかった。

「逃げて」

「お母さん……っ?」

 震える少女の耳元で母が囁く。

「あなたは逃げるの。いい?」

「お、お母さんはっ……」

 一緒に逃げよう、とすがるように母の腕を掴んでも、母は首を振る。

「私が時間を稼ぐ。――あなたはこれを持って逃げなさい」

 どこからか取り出したのは、ぼろぼろになった袋だった。かなりの厚みがあり、それを手に握らされた少女は目に涙を浮かべながら必死に首を振る。

 嫌だった。

 一人で逃げるなど。

「お母さん!!」

 泣き叫ぶ娘から抱きしめていた腕を離し、母は愛剣を手に男たちへと近づいていく。

 ようやく異変に気付いた男が振り返り、目を見張る。けれど経験の差なのか男たちが瞬時に剣を引き抜くと高い金属音が響き渡る。

「やめてっ……」

 目の前に赤い雫が飛び散り、少女はぼろぼろと涙をこぼす。

 二人かがりで攻められ次第に増えていく母の傷に、やめてと必死に懇願した。

 けれど長い間剣を振るっていなかった母は、それでも実戦経験の多い男たちに傷を負わせていく。

 空気を裂く剣を軽くいなし、すぐさま攻撃へ転じる。軽い足取りで懐へともぐりこみ深手を負わす。

 それだけを見れば、母の方が優位だっただろう。

 けれど。

 ――鈍い音がした。

 床にいくつもの赤い花が咲き、血に染まった母がそこに倒れこむ。そして同じくその傍に、血まみれになった二人の男が床に伏した。

 相打ちだった。

「あ……ぁ……」

 母が持つ剣も同様に血に染まり、あたりは血臭で埋め尽くされる。あの温かい空気も、大好きだったスープの匂いも跡形なく消え、肌寒い空気が部屋の中を満たす。

 少女はぴくりとも動かない母に近づき、

「お、かあ……さん」

 と、嗚咽を漏らしながらつぶやいた。

 優しげな声が頭の中でよみがえり、さらに涙が溢れた。

「お母さん」

 動かない母の体をゆする。こうすれば、またいつものように大丈夫だと微笑んでくれるような気がした。何度も何度も揺すり、けれど一向に動く気配のない母を見て涙が溢れる。

 どれだけ名を呼んでも、母はもう起きてはくれないのだとわかっていた。いつも少女を導いて、優しく守ってくれる手は冷たい。

 でも、少女は母にすがりつく。

「お母さんっ……!!」

 ――刹那、聞きなれた声が耳朶を打った。

 それは、今聞きたくはなかったもの。少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「お、とう……さん」

 ゆらりと揺れるその体にびくりと少女の肩が震えた。

「なんだ、金ねぇのかよ」

 家の中の惨状に目もくれず、父はあたりを見渡して苛立ち気に吐き捨てる。

 そして、父の視線がある場所へと止まる。

 少女は手に持っていた袋を胸元に引き寄せた。

「おい、それよこせ」

 ぎゅっと袋を抱きしめ、少女は後退する。そして無意識に視界に映ったそれを、小さな手で掴む。ぬるりとした血で滑るが少女は構わず必死に握り締めた。

 驚愕に目を見開く父を前に、少女は必死で血に濡れた剣を構えた。

 このお金は、決して渡したくはなかった。

 強盗に襲われ、それでも命を懸けて戦った母に目もくれず、酒を選び荒れ狂う父になど。

 どうでもよかったのだ。

 父にとっての母の存在など、自分の存在など――まったく気にも留めないほど。

 いまだ涙が零れ落ちる中で少女は剣を振るう。

 温かな色の灯りの中で、剣が閃いた。

 優しくて、誰よりも強かった母。

 脳裏に浮かぶ母の姿に、少女の涙が溢れた。

 ――血に染まった部屋の中で、佇むのは少女一人。

 剣を握り締めたまま、彼女はちいさく震えていた。

 手に残る感触に寒気がする。尋常ではない血臭と腐臭が少女を取り巻いた。

 大切な母を失い、父をこの手で殺した――そしてたったひとりとなった少女は、わずか十一歳であった。

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