<11>
ウィルに与えられた自室の前まで来ると、その足をわずかに緩めた。
先ほどと変わらないその光景に、仁和は思わず目を瞑る。
苦痛に歪んだ顔はそれでも自分たちを危険から守ろうとしてくれた。あまりにも突然な、敵の襲撃から。
「ここで待ってて」
何も言わず傍らに佇むウィルにそう言い残し、仁和は部屋へと踏み入った。
幸いこの部屋は無人と知ったからなのか荒らされていなく、仁和はクローゼットを開ける。その中から目的の物を見つけ、ほっと息をついた。
それは、この世界に来る時に持っていた鞄。
唯一、もとの世界にいたという証。
それを抱え、部屋の外で待っていたウィルのもとへ駆ける。
「行こう、ウィル」
「それだけでいいのか?」
「うん。これしか持ってなかったから」
鞄の中には着なれた制服や少しの教科書とノートだけである。それをしっかりと抱き、仁和は剣を握った。
けれど、片手で持ち上げたその大剣に思わず眉を寄せる。
鞄を抱えたままでは両手で振れず、そして片手では振る以前に持ち上げることすら大変だった。
「剣、どうしよう」
もともとは大の男――しかも比較的体格のいい男が使っていた大剣である。小柄な少女が持ち、戦うのに適した剣ではないのは明らかだ。
できれば替えたいのだが、しかしそれに変わるものなど持っていない。
「ああ、それなら――」
と、今度はウィルが部屋に入っていった。
それは仁和の部屋のちょうど真ん前。衣裳部屋にしてある部屋だ。
中にあるドレスはどれもが派手で一見して高価だとわかる代物が並んでおり、進んで着るようにはなれない物たちばかりだった。
小首をかしげる仁和のもとに帰ってきたウィルの手には、一本の細身の剣が握られていた。
「これ……?」
差し出され、受け取ってみるとしっくりと手に馴染む。まるで、長年使っていた愛剣のように感じられた。
鞘はところどころ傷が付いていたがそれでも十分綺麗にされている。
決して高いとは言えないものの、どこか澄んだような独特の雰囲気をかもし出すその剣は、鞘から抜いてみるとよく手入れがされていた。
「使っていいの?」
「ああ」
仁和は剣を振り、その感覚にこれならいけると微笑んだ。
「――脱走経路は? ほとんどの門は使えないと思うけど」
「それには当てがある。この外の状態ならなおさら見つからない」
今でも外は雷鳴が響き渡り、前よりも弱くなっているものの雨は相変わらず降っている。些細な音ならなおさら聞こえなくなっている状態では敵が城内に侵入していてもわからず、戦っている音すら聞こえづらい。
けれど、それはこちら側だけの不利ではないのだ。
ウィルは鞘に手をかけ、仁和とともに脳裏に描く場所へと走る。
「ねぇ、ロイアは?」
「広間だ。あそこにはまだヘリックもいる。無事に逃がしてくれるはずだ」
親衛隊副隊長の彼は広間に残り、謁見に訪れた人々を逃がすために戦っている。いくら視界が悪くとも、王子であるロイアに傷を負わせたりはしないだろう。
「――だったら、いいんだけど」
ロイアの安否が心配でも、いまさら広間に戻るわけにはいかないのだ。
できるのは、ただジャンソンたちと早く合流することのみ。
時々雷が一瞬廊下を明るく照らし、轟音をたててどこかに落ちる音がする。
仁和を気遣いながら走るウィルの後を追い、幸い敵兵に見つからず目的の場所へとたどり着けた。
「門は? っていうか、扉すらないんだけど」
行き着いた先はただの壁であった。
何の変哲もない、ただの壁。
首をかしげて仰ぎ見る仁和の隣でウィルは壁に手を当て、何かを探るようにその表面を撫でる。石造りの壁の一部を掴んで少し引く。そして同様に少し押し、その両隣を左右にずらすように押す。
ウィルが後ろに下がったのと同時に、大きく壁が揺れた。
「え、何っ……!?」
足に伝わる振動と、低い音に驚いていると、眼前に扉が現れる。
「な、なにこれ……カルティア城ってこんなのあるの!?」
「昔の者が趣味で作っただけだ。ずっと使っていなかったが――まさか今使うことになるとはな」
扉を押し開けウィルが外に出て行くのを慌てて追うと、どんよりとした湿った空気が体を包んだ。扉を閉めると、先ほどと同じくまた壁が動いて扉を飲み込む。
よくできているなと感心していると、
「陛下っ」
と、安堵したような声が聞こえた。
「ご無事で、陛下。仁和様も」
出た先は上に屋根が取り付けてあるため雨に濡れる心配はない。
あたりを見渡すと、眼前には視界いっぱいに森が佇んでいた。湿った空気に揺れる木々は密集していて、一度入り込めばその道を熟知している者でなければ出てくることはできないだろう。
ジャンソンは後ろに佇む親衛隊副隊長のへリックを前へと押した。
きょとんとするウィルに、へリックが頭を垂れる。
「……陛下、申し訳ございません」
「どうした」
「民間人の避難はできたのですが――皆傷を負っています。現在兵士たちによって安全な場所へ移動しています」
「死者は?」
「三人です」
それは、最初に出た被害者含めの人数だった。
あれだけの兵士に攻め込まれ、さらには混乱する民たちが逃げ惑うその状況で――そう考えれば、十分な結果だろう。
ウィルとしては、一人の死傷者も出したくなかったのが本音だが。
「……そうか。――いや、ご苦労だった」
「……陛下、ロイア王子のことなのですが」
言いづらそうに、へリックが言葉をつむぐ。
「民間人を避難させた時にはすでにもう広間におられなくて」
「……どういうことだ?」
「数人の兵士に守らせていたのですが、その者たちも皆気づいた時にはすでにいなかったと……」
静かに首を振るヘリックは唇を噛む。
それは、あってはならない失態だった。
ジャンソンが前に出、口を開く。
「敵に、殺されたというのは考えにくいです。それなら目立つ場所に掲げるでしょう」
「捕まったってこと?」
冷静な言葉に、仁和が問いかける。
「おそらく。そう考えるのが妥当でしょう」
捕まっているのなら、今すぐに殺される可能性は低いとジャンソンは言う。
眉を寄せるウィルに、ひとまず、と前置きして言葉を続けた。
「奥の森に兵士を集めてあります。ひとまず合流しましょう」
先頭を歩くジャンソンについて歩き、森へと足を踏み入れる。ぬかるんだ土に足を取られないように注意して歩く。
目の前に立ちふさがる木々をジャンソンが避け、さらに切りながら進む。
「仁和様……!!」
少し拓けた場所が見えてくると、弾かれたように仁和は顔を上げた。
跳ね返る泥を気にも止めず、こちらに駆け寄ってくるのは逃がしたはずのサリーだった。腕をのばしてサリーが思いきり抱きつき、仁和は慌てて足に力を入れる。
「……仁和様っ!! よかった、もう会えないのかと……!!」
泣きじゃくるサリーの背中に、そっと手を回す。
「うん……。ごめん」
嗚咽を漏らすサリーの背中を撫でながら、どうしてここにいるのと問いかける。
短剣を持たせ、敵に見つからないように逃がしたはずだった彼女。
上手く言葉を発せずにいるサリーの代わりに、今まで黙って佇んでいた少年が口を開く。
「城の外へ脱出した時に、彼女に会ったんです。仁和様から受け取った短剣を握り締めて、いままで隠れていたようで」
線の細い、背丈もそう仁和とは変わらないその少年は、サスティ・アランだった。
甲冑に身を包んだ彼はやはり幼く、腰に携えた剣もどこか本物のように感じられない。
「隠れてたの? いままで?」
「そうみたいです」
仁和は呆然と、自分に縋りつくように抱きつくサリーを見やる。
逃げたと思っていた彼女は、ずっと城の外で自分の帰りを待っていたらしい。いつ敵に見つかるかわからないような状況で、ただ一人待っていた彼女の神経は相当すりきれただろう。
「す、すみません……っ。逃げろとおっしゃったのに……でも、私っ」
「ううん、ありがとう」
自分が無事に帰ってくると信じて待ち続けてくれた。
危険を犯してでも、信じて待っていてくれていた。
その思いに心が温かくなる。
「……仁和」
「うん。サリー、歩ける?」
隣に佇むウィルに促され、サリーに問うとこくりと頷く。
「この先に、兵を集めてあります。これからのことは、それから――」
ジャンソンの言葉が、ふいに途切れた。
がさりと音がした瞬間、仁和は目を見開いた。
己に向かって振り下ろされていく男の剣を見、仁和は反射で剣を抜こうとし――ずるりと足を滑らせて仁和の顔が驚愕に歪む。
雨のせいでぬかるんだ地面は滑りやすく、すぐに体勢を立て直すことができなかった。
誰もが目を見開いたまま固まっている中、仁和は次に訪れるであろう斬撃に目を瞑る。
しかし、耳に届いたのは何かが崩れる音。そしてその音に混じって、ちいさな悲鳴が聞こえた。
なんとか体勢を立て直して目を開き、眼前の光景に言葉を失う。
「――サリー!?」
地面に倒れていたのは、血に染まったサリーだった。
みるみるうちに服が赤に染まっていく。
「よか……た。ご無事……です、ね?」
浅い息の中、サリーがつぶやく。
どうして。
「ど、して」
再び自分に向かってくる剣を視界にとどめながら、仁和はサリーを抱えたまま微動だにできなかった。
頭上で、剣の交じり合う音がする。
ジャンソンか、それともウィルか。
仁和は揺れる瞳で、苦悶の表情を浮かべるサリーを見下ろした。
「どう、して。なんで……」
「仁和様は……私の、大切な――主ですから」
真紅に染まったまま、サリーが淡い笑顔を浮かべる。
どうしてと仁和は問う。
次第に呼吸が浅くなり、顔が青白くなっていくサリーに、どうすることもできなかった。
逃げてと言ったのに。
逃げて、生きて――と。
それは、こんなところで庇って貰もらうためではなかったのに。
あそこで逃がすのが駄目だったのか。
最後まで、自分で守ればよかったのか。
それとも、異変に気付いた時に真っ先に安全な場所まで逃がせばよかったのか。
「仁和様……」
大丈夫です、とかすれる声で言うサリーに、唇が震えた。
わずかに降り注ぐ雨の冷たささえも気にはならなかった。
「あ、わ、私……」
「仁和」
刹那、熱い手が肩を掴む。
肩をゆすられ、困惑する瞳をウィルに向けた。
「しっかりしろ。まだ大丈夫だ、早く連れて行くぞ」
「どこ、に」
こんな血に濡れた彼女を、一体どこへ連れて行くというのか。
真っ赤な華を咲かせた少女を。
それは今でも花は咲き続けていた。
「グランディのところだ。――あいつは、宮廷医師だ」
泣くな、と目じりに浮かんだ涙をそっと拭いとられる。
それが涙だったのか、それとも雨だったのかすらわからなかった。
「仁和」
もう一度強く名を呼ばれ、仁和は再びウィルに視線を合わせる。
「しっかりしろ」
いつの間にかジャンソンに抱えられていたサリーに視線を移し、そして地面に突っ伏している敵兵を見て頷いた。
水分を含んで重くなったドレスとともにウィルに手を取られ立ち上がる。
蒼白の顔になり、ジャンソンに抱えられて揺れるサリーを見て、唇を噛む。
しっかりしろと言ったウィルの声が頭の中で木霊する。
しっかりしなくては。
繋がれた温かい手に、そっと力を込めた。




