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「……ん?」
ふと、仁和は顔をあげた。
相変わらず雨は窓を叩き、雷も徐々に音が大きくなってきている。このままではあと三十分もすれば雷が落ち始めるだろう。
「サリー、今何か聞こえなかった?」
派手なドレスに身を包んだまま、仁和はサリーに問いかける。
「いえ、私は特に何も……」
きょとんと首を傾げるサリーに今度は仁和が首をかしげ、部屋の扉に視線を移した。
何か、低いうなり声のようなものが聞こえた気がする。
それも場所はかなり近く、けれど雷の音が聞こえたのと同時に声が聞こえ、雷が遠ざかったと思えばその声は消えていたのだ。
「空耳?」
雷の音がそう聞こえていただけなのか。
仁和は立ち上がってそっと扉に歩み寄る。
扉を開けようと取っ手を掴んで引こうとし、仁和は小首をかしげる。いつもはすんなりと開く扉は少し重く、何かが扉に寄りかかっているような手ごたえだった。
いぶかしみながらも扉を開け――
「……っ!?」
ずるり、と横にずれる何かに思わずあげそうになった悲鳴が喉に絡みつく。
薄暗い廊下に倒れこんだ何かはごとりと音をたてて地面に横たわった。
「な……に……?」
部屋の中の灯りを頼りに目を凝らし、それの正体を知った仁和は目を見開く。
「どうかなされたんですか?」
扉を開けたまま固まっている主を不審に思いこちらにこようとするサリーを慌てて制す。
「仁和様?」
愕然と目を見開いたまま、悲鳴をあげることすらままならない仁和の後ろからサリーが怪訝そうに覗き込んだ。
「なんですか? これ――」
横たわったままのそれに首を傾げた刹那、サリーは喉の奥にか細い悲鳴をあげた。悲鳴をあげて後ずさったサリーの顔面は蒼白になり、目は見開いたまま固まっている。
「に、仁和様っ……!!」
仁和は震える足に叱咤し、なんとかしゃがみこむと震える手を伸ばした。伸ばした手はそれ――甲冑に身を包んだ兵士の口元にかざされる。
「どう、なってるの……? だって、ここは城内で……門番だって」
男に息がないことを知り呆然と呟く。
部屋からの灯りに照らされた甲冑は不気味に輝き、そしていたるところにべったりと血がついていた。そしてよく見ると、男の腹には深々と突き刺さったままの槍があった。
それは確か、カルティア城を守る門番が持っていた槍だったはずだ。
「なんで? なんでこの槍がここに……」
仲間同士が喧嘩したのだろうか。
しかし、この男はすでに死んでいるのだ。これでは喧嘩ではなく殺し合い――そこまで考えてふっと顔を上げると、廊下の奥から物音が聞こえた。
反射的に振り向き、細かな模様が刻まれた机に走り寄り、引き出しから短剣を取り出した。それはウィルから以前貰ったものである。
一度も使ったことのないそれをぎゅっと握り締め、仁和はサリーに視線を向ける。
「ど、どうなってるんですか!? な、なんで……」
混乱したままの彼女は首を振り、けれどその視線は床に倒れている男へとそそがれていた。
「サリー、行こう」
「行く……? 行くってどこへですか……!?」
「わ、わかんないけど、とにかくウィルのところに」
震える侍女の腕を取って仁和は部屋を出る。
どうしてか、ここにいてはいけないような気がする。
おぼつかない足取りで、今にも叫びだしそうな侍女の手をしっかりと握る。
カルティア国の王である彼になら、この異常事態を知っているはずだ。
部屋を出る時、ちらりと背後に目をやり、息絶えている兵士を見た。
――扉に背を預けたまま息を引き取ったあの兵士は、おそらくこの部屋を守ろうとしてくれたのだろう。
そっと目を瞑って感謝の意を述べると、仁和は暗闇の中を進んでいった。
廊下にはわずかな灯りしかなく、仁和は目を凝らして廊下の先を見据える。
「に、仁和様、こんなことおかしいですっ……!! だって、どうしてこんな――」
歯の根が合わず、震えるサリーの声を聞いて、今更ながらに仁和はぞっとした。
目の前で人が死んでいたのだ。
普通なら取り乱し、悲鳴をあげて逃げ出す――しかし、取り乱さず逃げ惑わなかったその冷静さに。
仁和はようやくやってきた小さな震えを深く息を吸って押さえ込む。
――何かが起こっている。
城の中で兵士が殺されるなどありえない。
薄暗い廊下を突き進んでいくと、眼前に人影があるのに気付く。
鈍重な甲冑に身を包んだ兵士と思しき男を視界にとどめ、仁和は反射的に足を止めた。けれどそれは仁和だけだったようで、安心したサリーはその影へと近づこうと足を踏み出す。
「よかった……あの、どうなってるんですか? これは一体――」
薄明かりに照らされた兵士に近づくサリーをとっさに引き戻そうと足を踏み出した瞬間、男は腰に携えていた剣を引き抜く。
廊下の灯りに照らされた大剣が輝いた。
状況を飲み込めていないサリーはそれをただ見つめていることしかできず、けれどその間にも剣は彼女へと振り下ろされていた。
「――サリー!!」
力いっぱいにサリーを横へ突き飛ばす。
振り下ろされた剣は床を叩き、嫌な金属音が廊下に響く。
「あ、あ……っ」
状況を理解し、がくがくと震えるサリーを一瞥して仁和は短剣の刀身を引き抜いた。
「騒ぐなよ? なるべく静かにってご命令なんでな」
甲冑に身を包んだ男はいかにも重そうな剣を再び握る。
「命令?」
眉を寄せた仁和の問いには答えず、もう一度剣を振りかざす。先ほどよりも早い速度でおろされた剣を仁和は反射的に短剣で受け止める。けれどそのまま相手の剣に勢いに任せるようにかわし、剣を滑らせ相手の腕に深く斬りつける。
そしてその流れで男の甲冑の楔目に剣を深々と突き刺した。
「……っ」
その感触に仁和は眉をひそめ、腹部を深く抉った短剣を引き抜いて男が体勢を崩した瞬間足を払う。
「お前……まさか……」
どさりと音をたてて床に伏した男は低く唸る。
「……あの野郎、そんなこと一言も……」
眉をひそめ、忌々しげに舌打ちした兵士に仁和が近づき、
「どうなってるの? あなたは誰? カルティア城の兵士じゃないでしょ?」
「……」
「王は――ウィルはどこ」
血に濡れた優美な短剣の柄を握り締め、問う。
浅く呼吸をした男に負わせたのは致命傷ではない。話せる程度にと、そう思ってとった一連の動作はすべて意識してやったものではなく、自然と体が動いていた。
それに関して今は深く考えることを止め、目の前の男を見つめる。
「これは――襲撃?」
兵士の甲冑に刻まれた紋章はカルティア国のものではない。
「部屋の前にいた兵士を殺したのは、あなた?」
答えが得られないとわかっていながらも、仁和は問いただす。
敵であるなら己側の情報はまず言わないだろう。
仁和は短剣の血を拭い、鞘に収め、廊下の端にうずくまっているサリーに視線を移した。
「サリー」
「……ど、どうなってるんですか……!? 普通じゃないです、こんなの。だって、今日は婚約の……っ」
婚約――もし、その騒ぎに紛れ込んでカルティア城を襲撃していたのだとしたら。
一般人も多く、そしてそのほとんどが闘う術を持たないだろう。混乱し、広場にいた者たちが騒ぎ出せば、敵から民を守ることすら難しい。
「それが狙い……?」
混乱に乗じて紛れ込み、国を闇へ落とす。
しかし、争いを好まず平和だと謳われ、一年間ほどの戦争がやっと終ったというのに――なぜ。
「サリー。広間には……ウィルもいるの?」
「あ……は、はい、確かいらっしゃるはず……」
国を落とすのに、何が一番確実か。
「ウィル……?」
国王が失われれば国の基盤は崩れ、瞬く間に崩壊していく。
彼らが狙うのは、王の首。




