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ぽつり、と窓に一滴の雫が落ちた。
それをぼんやりと見つめていた仁和は、今自分の身に起こっている出来事から何とか逃げようとしていた。
「私、高校生なのに……学生なのに……」
「仁和様! 何て顔してるんですか、しゃきっとなさってください!!」
窓に頭を預けたままの仁和にサリーが渇を入れる。
それすらも返事できずに、仁和はぽつりぽつりと落ちてくる雨を見つめていた。
暗雲に覆われた空は仁和の心を表しているように暗く、沈んでいる。
侍女総出で着飾れた彼女は目を疑うほどの宝石をちりばめられたドレスに身を包み、綺麗な装飾品をつけられたまま用意された椅子に力なく座っていた。
「サリー。逃げたいんだけど……どうやった逃げれると思う?」
「だめですよ! すでに皆様集まられてます。献上品を持ってこられたのに、国王だけでは……それに、今日は婚姻のお披露目のようなものもかねていますし――貿易のある国の方や下町の方もいらっしゃるのですよ」
力なく問う仁和にきっぱりとそう話すサリーは逃がしてくれる気はないのだろう。
「下町の?」
だったら、その人たちに紛れ込めば逃げれるのではないかと仁和はぼんやりと思う。
すでに自分がどこにいても目立つほどの格好をしているなどとは忘れていた。
あれからウィルとは全く会えず、朝突然現れた大勢の侍女に今日は王との婚約のお披露目会だと言われたのである。
その日を仁和に告げなかったのは、知られれば逃げると思っていたからなのか――どちらにしろ、ウィルは仁和の意見を聞かず話を推し進めたらしい。
なんとしてもウィルを掴まえ、婚姻の話を断ろうと思っていた仁和の計画は崩れ去ってしまった。
「仁和様、女は度胸です!!」
ぐっと拳を握り締めて力説してくる彼女に、それは少し違うんじゃないかと心中うめいた。
「行きましょう、仁和様」
だらりとしている仁和の手を取り、サリーは部屋の扉を開けた。
「陛下のお心遣いで大半は終っています」
「じゃあ私行かなくても――」
サリーに連れられ謁見の間に足を踏み入れると、椅子にゆったりと座っていたウィルが立ち上がる。久しぶりに見た彼は、普段着たことのない――おそらく一生のうちに着ることは決してないだろうドレスに身を包んでいる婚約者に優しく微笑みかけた。
「似合っている」
ふわり、と赤みがさした仁和の頬。
小さく跳ねる心臓を誤魔化すように仁和は小さく首を振って、ウィルに向かって一歩足を踏み出す。
「仁和はそこにいてくれ」
「え、ちょっ……ウィル!!」
足を踏み出したのがどうとられたのか、ウィルは仁和の腕を引き、椅子に座らされる。
仁和が口を開こうとしたのと同時に、静かに扉が開いた。
反射的にそれに視線を移すと、わずかにざわめきが広間に広がる。
謁見の間に訪れたのは、仁和とそう歳の変わらないような少女だった。指定の場所に近づき、少女は深く一礼する。
ふわりと微笑むその姿は可憐で、どこからか感歎のような声が聞こえた。
「陛下、ティアーナと申します」
鈴を転がすような声はその容姿にぴったりである。
艶のある髪は長く伸ばされ、それを引き立てる白い服に身を包んでいた。
しかし、誰もが見惚れるであろう少女の手は何も持ってはいなかった。けれど変わらず笑みを浮かべている彼女は深く息を吸う。
次いで発せられたものに仁和は目を見開いた。
歌だ。
優しくゆるやかなそれはとても洗練されたものだった。
王の婚姻を祝って訪れる民たちは献上品を持ってくる。それがおそらく普通なのだろうが、その献上品が歌というときもあるのだろう。
まったく動じずその歌声に聞き惚れている兵士や、ちらりと隣を見るとウィルまでもが、可憐な少女を見つめていた。
――けれど。
仁和はわずかに柳眉を寄せる。
少女から発せられるその歌は綺麗なもので、ゆるやかな歌声は人々を魅了する。
だが、仁和はさらに眉をひそめた。
そっと周りのものを伺ってみても、仁和の感じる違和感などわかっていないような顔で少女の歌を聴いている。
聞き惚れるような歌声なのに、それはどこか不快感を表しざわざわと体を走る。仁和は思わずドレスの裾を掴んだ。
その意味もわからないまま、仁和は可憐に微笑みながら歌う少女を見つめていた。
――名もないその歌は、世界を破滅へと導く。




