<12>
がらりとした兵士の憩いの場である食堂は、料理の匂いが漂っていた。
ここを一人で切り盛りするマザーは料理の仕込みをしている。食堂に兵士が来るのは任務や警護が終った交代の時間帯である夜が特に多いのだ。
だからそれまでの間にすべての皿やグラスを洗い、料理の仕込みをするのがマザーの一日である。
そのマザーの眼前にある古び、年期を感じさせるも温かな木製のカウンターには、彼女に侍女と偽っている仁和が座っていた。
情報収集という名の彼女の聞き込みはいまだ続いている。
「どんな人だったんですか?」
仁和は口を開く。
どうやら、マザーはあの少女のことを知っているらしいのだ。
「破天荒な娘だったって話さ。ちょうど、あんたみたいなね」
その言葉に、仁和はわずかに肩を揺らした。
「実際に会ったことはないんだけどね。――あんたみたいなんだろうなって思っただけだよ」
マザーはにこやかに笑い、言葉を続ける。
「なんでも一人で旅をしてたって話だ」
「一人で?」
その言葉に、仁和は目を見開く。
たった一人での旅は想像以上に過酷である。ましてや、それが少女ならもっと。
身を守る術をあまり持たないだろう少女は、たった一人でここまで旅をしてきたというのか。
「剣の技術が凄くて、たまたまこの国に来たって――本当かどうかも、詳しくは知らないんだけどねぇ」
「……」
「で、なんでそんなこと――」
仁和はそう言うマザーにはっとし、慌てて礼を言い食堂から出て行った。木製の、同じく古びた扉が音をたてて閉められ、廊下を走る足音がわずかに聞こえる。
なんなんだと丸くするマザーが仕込みを再開しようとしたとき、視界にここの常連であるジャンソンが扉の前に立っているのが映った。
親衛隊の隊長であるジャンソンの後ろには、珍しく親衛隊の男たちの姿がない。
「ここに仁和という少女はいなかったか?」
近づき、マザーを見つめる瞳とその口調に、店主である彼女は彼がお客ではないことを知る。
真剣でありながらもどこか焦りの感情が見え隠れするその瞳に、マザーはわずかに眉を寄せた。
「どうしたんだい。親衛隊の隊長ともあろう人が」
「……マザー」
マザーはため息をつき、
「あの侍女の子がどうかしたのかい?」
と、仕込みを再開しながら問う。
大きな鍋は普通の家庭では見ないほどの大きさである。マザーはそれを取り出して台の上に置いた。
「侍女?」
「あぁ」
彼女の言葉に眉をひそめたジャンソンはゆるく首を振る。
「侍女ではない。あれは陛下が保護した娘だ」
きっぱりと否定するジャンソンに、マザーは目を見開いた。
食堂から慌てて出て行った仁和は廊下を歩きながら、護衛の青年の名を呼んだ。
瞬間、どこからともなく影が現れる。
髪も服も、すべてが黒い彼は闇の中では目を凝らさなければその存在を見つけることが出来ないほど闇と一体化する。
「なぜ知りたがるのですか」
開口一番、ケトルがそう仁和に問う。
ここまで口を挟まず、何も言わなかった彼に仁和は苦笑した。
「知らないといけない気がするの。――どうしてかは、わからないけど」
「なら俺に聞けばいい」
「教えてくれないでしょ? ケトルは」
「教えますよ。――それで、あの方が元に戻るなら」
振り返った仁和の言葉に、ケトルは彼女に聞こえない声でちいさく呟いた。
「……あ」
それに気付かず前に向き直った仁和は見知った後姿を見つけ、ちいさく声を漏らす。
声をかけていいのか躊躇われていると、
「何してるの? 廊下のど真ん中で突っ立って」
二人に気付いたロイアが近づき小首をかしげると、ケトルと同じくらい闇に染まった黒髪が揺れた。
ケトルが静かに頭をたれる。
「ロイア王子、公務の方は」
「終ったよ。とりあえず、だけど。本当、困るよね……陛下がだめだからって俺まで駆り出さなくても」
ため息をつきながら文句を言うロイアは仁和に視線を向け、微笑んで見せた。
「本当に聞き回ってるんだね」
「え?」
目を瞬く仁和から視線を逸らすと、
「ねぇ、何が知りたいの?」
人懐こい笑顔はそのままに、ロイアは言葉を紡ぐ。
「俺は君が知りたいものを全部知ってる。――でも、兄上――ウィル・ブレン・カルディーンの過去。そして君に似ているとされる少女――君が知りたいのは、それじゃないよね?」
「どういう、意味……?」
「本当に知りたいのはそれじゃない。君が望むものは、君の知らないうちに溜まっていった疑問。――そうだよね、仁和?」
首を傾げられて仁和は首を振った。
「でもそれは完全じゃない。どうしてだろうね? ――どうして、こうなっちゃったのかな」
「ロイア、何を言ってるの?」
ロイアはその口元に笑みを刻む。その表情を、仁和は混乱しながら凝視した。
意味のなさない言葉の羅列。
知らずに、仁和は彼の名を呼ぶ。
わからなかった。
何を言っているのか、どうして、そんな顔をしているのかさえも。
困惑に揺れる瞳で見つめてくる彼女に、ロイアはゆるく微笑んだ。
「今更何を知ったところで変わらない。でも、それでも知りたいなら探してごらん」
「え?」
「仁和。これだけは覚えておいて。――俺は、君を恨んでるわけじゃない」
次いで、ロイアの唇がゆるりと動く。
それは注視しなければわからないほどの動き。
仁和はそれを凝視して、目を見開いた。
彼女が口を開く前に、ロイアは絶えずこちらを見つめていた青年にわずかに微笑んでみせ、ひらりと踵を返した。




