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「仁和様、どうなさったんですか?」
ふと言われた言葉に仁和ははっとする。
思考の波に捕らわれていた仁和が視線を動かすと、こちらを覗き込んでいるサリーを視界にとどめた。
「目が赤くなってます」
「……あ」
おそらく昨日のせいだろう。わずかに赤くなった目を、サリーは見逃さなかった。
大丈夫と首を振っても心配そうに見つめるサリーに微笑んでみせ、
「それより、ウィルの側室っているの?」
と問う。
「陛下の、側室……ですか?」
まだ心配そうな表情をするサリーは首をかしげ目を瞬く。
「うん、今」
「現在ですか。……私はここに来てそう日が長くはないのですが、そのような方はおられないと思います」
「――誰なら知ってる?」
知らずに、口から言葉が出る。
「……そうですね。昔から仕えておられる方なら――仁和様、どうかされたんですか?」
こんなことを聞くなど今までになかった。妙な違和感を感じたのだろう、サリーは主を見つめた。
「ううん、ありがとう。聞いてみるね」
サリーの見つめる視線から逃げるように仁和は扉へと近づく。
模様の刻まれた木製の扉を開けると、確かにするケトルの気配。それでもいいと、仁和は廊下へと踏み出した。
常日頃ケトルは傍にいてくれ、そして気配が分かるほどの位置にいてくれていた。それは仁和を安心させるためでもあり、周りの人たちを近づけさせなくするためだ。
仁和はあたりを見渡しながらいくつにもわかれた廊下を進む。ある程度は覚えたが、それでも城全体とはいえないだろう。
忙しなく動く侍女や兵士を見て、仁和はちいさく唸る。
これだけ大きな城なのだ。働いている人の数が多いのだとはわかっていたが、この光景は想像以上である。
たくさんの布をかかえた侍女や忙しなく動き回る男たち。なかには何やら分厚い本を抱えている者や、仁和よりもあきらかに年の小さな子どもだっているくらいだ。以前ウィルと城内を歩き回った時よりも、はるかに人数が増している気がする。
その光景にしばし呆然とし、はっとしてからきょろきょろと何かを探すように見回してふと目に付いた侍女に近寄った。
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
中年の、少しふくよかな女はこちらを見て首を傾げる。
「なに? ――あんた、侍女? にしても、なんでそんな格好……」
女は訝しげに仁和の服に視線を落とす。紺色が主な侍女の服とは裏腹に、仁和が着ているのは白を基調としたものだ。それも、派手な装飾はついていないものの生地は一級品である。
彼女も侍女なのだろう、見慣れた紺色の服を身に纏っている。
「あんた名前は? 見かけない顔だけど、最近入ってきたのかい? ここ最近人の移動が激しくてね、兵士も何十人と追加されてるし。年の小さな子だって雇ってくるくらいだ、相当人手が足りないんだろうねぇ――まぁ全員の顔なんて覚えちゃいないけどね」
だから以前見たときも人が増えていたのか。
けれど、侍女の言葉に仁和ははっと気付く。
知らないのだ。おそらく、彼女は自分のことを。
「で、名前は――」
「……仁和」
控えめに呟いた瞬間、女の目が見開かれる。
「も、申し訳ありません!!」
「えっ」
勢いよく頭をさげられ仁和はぎょっとする。
「へ、陛下から伺っております!」
「あ、あの、ごめんなさい。そういうつもりじゃなくて、えっと」
さっと顔色を変えて謝罪する侍女に呆然とし、うろたえながらも口を開く。
「とにかく頭上げて! ちょっと聞きたいことがあるだけだから!!」
何事かとあたりにいる人たちがちらりとこちらを見ているのに気付き、仁和は慌てて女の腕を引っ張って通路からそれた場所に移動した。
先ほどの場所よりも人の通りが少なく、そして角があるためここなら平気だろうと仁和は女に向き直る。
「仕事の邪魔してごめんなさい」
「い、いえ!」
首を振る侍女に思わず苦笑する。
自分が思っているよりも、ここでの地位は高いらしい。ただの保護された少女、という肩書きだけではないのか。
その原因はおそらく、ウィルなのだろう。
仁和は視線を上げる。じっと見つめてくる女の瞳はどこかそわそわしている。
「……あの、聞いたことは誰にも言わないでほしいんだけど」
「は、はい」
「ウィルのね……。その、今側室っていないの?」
「側室、でございますか?」
予想外だったのだろう。仁和の言葉に女は目を瞬く。
聞きたいことがあると言っていたから、おそらくこの城や国のことかと思っていたのだろう。いくら侍女だとしても、保護された少女の話――噂程度には聞いているはずだ。
なのになぜその少女が王のことなどを聞きたがるのかと、女はそう言いたそうな顔をしていた。
「前にたまたま通りかかった侍女が話してるのを聞いて。そのときは聞けなかったから」
「……そう、ですか」
侍女は困ったように視線を泳がす。たっぷり一分とってから、女は口を開いた。
「現在、側室も正室もおられません。……以前は、おられたんですが」
「前?」
「はい。一年ほど前でしょうか。確かにおられて――戦いが、始まる前ですが。……それも、その、次々と側室の方を変えられて……」
言いにくいのだろう。語尾がだんだん濁っていく。
「今ではもう、側室を迎えることすらされていません」
「正室は?」
「正室は始めから迎えられるつもりはなかったと聞いております」
仁和は眉を寄せる。
側室を向かえ、正室を迎えない、その意味は――。
「……あの、仁和様」
ぽつりと、女が言いにくそうに呟く。
「なに?」
「……私が口にしていいことではないのでしょうが、……その、陛下が少し変わってしまわれた時のことなのですが」
仁和はその言葉に反応する。
変わってしまった。その言葉の意味を、仁和にはわかる。
どこか虚ろげな瞳に変わる瞬間を、何度も見てきているのだ。
「――いつから?」
「陛下とロイア王子のご両親……前国王陛下と前王妃が亡くなられた時からだったと思います」
城下町で話した店主の言葉がよみがえる。
ウィルとロイアの両親が亡くなったのは二人が幼い時だったと聞く。どういう状況で、どうして、などはわからないが、年の小さな子どもが親を亡くして普通でいられるはずがない。
それはウィルとロイアだって同じはずだ。
ひとまず侍女に礼を言い、再び喧騒の響く廊下へ足を踏み出した。




