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広く、磨き上げられた廊下を歩きながら仁和は知らずにため息を吐く。
頭の中でロイアの言葉が絶えず反芻していた。
「帰りたくないわけじゃ、ないんだけど……」
帰りたくなければここにいればいいと言ってくれた。
でも――。
仁和は再びため息をついた。
どちらにせよ、帰るには歪みが再び姿を現さなければならないのだ。毎日のように、歪みを研究するという研究員が仁和が最初に現れたあの丘に通っていると聞いた。だがそれでも歪みの気配はなく、行き詰っているという。
「――陛下、どうなされるおつもりなのかしら」
ぶらぶらと何をするでもなく広い廊下を歩いていると、困ったような女の声が鼓膜を揺らした。
見ると、廊下の一角からである。ほとんど人気の通らない、大きな柱に隠れるような場所だ。
「本当……ねぇ」
「今側室はなしでしょ? 正室はともかく側室だけでも」
「あぁ、だめよ。古くからいた兵士に聞いたんだけど、あの……保護された少女がいるって聞いたでしょ? あの子――」
「私が何?」
肩を寄せ合って話しこんでいる二人の侍女に近づくと、二人は奇声を発し、飛び上がる勢いで肩を揺らす。目を見開いて固まる侍女らはその視界に少女をとどめ、
「に、仁和様!?」
と、二人同時に叫んでいた。
そう言われてはっとした仁和は改めて二人を見上げ、その顔に見覚えがあるのを思い出した。
確か二人は、以前ウィルと王城を散策した時に出会った侍女たちだったはずだ。二人とも長い髪をひとまとめにし、そばかすのある彼女たちはおそらく二十代前半だろう。汚れが目立たないためか淡い紺色の服と白いエプロンはサリーと同じだ。
聞かれてまずい話でもしていたのか、居心地の悪そうに目を泳がせ、仁和の顔をちらちらと見ている。
「私がどうかしたの?」
「あっ……いえ、その……」
はっとして、言いにくそうに言葉を濁す。
言おうか言うまいかと悩んでいるその口は、言葉を探すように開閉していた。
「言いにくいなら別に無理して言わなくても……」
まるで問い詰めるような気分になってきた仁和が苦笑してそう言うと、
「いえ! あ、えっと……仁和様に、よく似た方がいらっしゃったと話していて」
隣の侍女が口を開く。
「似てる?」
「はい。話をお聞きしただけなのですが、昔、仁和様に似てるような方がいらしたと」
――聞いてはいけないと、仁和は直感で思う。
けれど気付いた時には床を蹴っていて、背後で名前を呼ぶ困惑した声が聞こえる。それすらも振り切って仁和は頭に浮かぶ影を探した。
そう遠くには行っていないはずだ。そしてその考えはあたっていて、
「グランディ……!!」
前方を歩くグランディを呼び止める。
振り返った年老いた男はぎょっとした。
「仁和様!? ど、どう――」
「グランディ」
仁和は顔を上げる。
聞くのなら、この男が一番だろう。それは確信ではなく予感。
「教えてほしいことがあるの」
「なんでしょう?」
いつもとは違う仁和の様子に、濁った細い瞳が困惑に揺れた。
仁和は唇を噛む。
聞いていいのかわからない。もしかすれば、ウィルにとって聞かれてはならないものかもしれない。けれどそれでも、なぜか知らなければという気持ちがあった。
深く息を吸い込んで、仁和は口を開いた。
「……私に似た、子がいたって本当?」
グランディの細い瞳がわずかに見開かれる。
「なぜそれを」
「侍女に聞いたの」
「……そうですか。――そうです、昔仁和様に似た方がおられました」
「そんなに、似てる?」
「はい。それはもう、本人かと思ったほどで」
そう言ってグランディは視線をそらす。
「とても、大切にしていらして。でも、陛下の目の前で――亡くなられたと聞きました」
仁和は息を呑む。
「その場に私はいなかったのですが、その後陛下にそう伺いまして。……申し訳ありませんが、これ以上は言えません」
口をつぐみ、首を振る。
これ以上は問いただしても教えてはくれないだろう。けれど仁和には、それでも十分だった。
グランディに礼を言い、ふらりとした足取りで部屋に戻る。
その時、主に使う廊下から大きく外れた場所にこの部屋があったのに気付いた。それはウィルの気遣いだったのかはわからないが、今の仁和にとってそんなことはどうでもいい。
扉を閉め、部屋にサリーがいないのを確認すると服が汚れるのも気にせず床にぺたりと座り込み、布越しに伝わるひやりとした冷たさにも構わず背を扉につける。
――今まで、どんな気持ちでいたのだろう。
仁和を見つめていた視線は自然と重なった少女へだったのだ。
あのさりげなく守ってくれた腕も、気にかけ道を作ってくれたことも、すべてが偽物だった。
仁和はウィルに初めてあったときのことを思い出す。
ウィルが困惑した仁和を見つめる瞳は、悲しみと驚愕に歪んでいた。
「……っ」
喉の奥から何かがせりあがってきて、嗚咽を堪えるように両手で口を覆った。
その時、ちいさな金属音がして俯いた視界に蒼い石が映る。優美な模様の刻み込まれた首飾りの中心には、今脳裏に浮かぶあの瞳と同じ色。
頬に涙が伝う。
何を、泣いているのか。
当たり前のように寄り添ってくれたウィルが自分を見つめていないと分かったからなのか、大切な少女を失ったウィルへの同情か、それとも自然と重ねられて見られていたことへの悲しみか――とめどなく涙をこぼす彼女でさえも、わからなかった。




