第九話 〃 9
頭上からぽつぽつと雨が降り注ぐ。初めは穏やかだった雨足はだんだんと強くなっていった。それは横殴りの雨となって俺を強襲した。腕をかざそうにも意味はなく、いたずらに濡れるだけだった。
ちょうど七時を過ぎた頃だろうか。
夕日が雨雲に隠れて時刻は判然としがたいが、きっとそのくらいだろう。
液体が服に染み込む。そして吸い込まれていった。その感覚は不快で、生理的嫌悪感を感じた。視界が良好でないため歩くのにも苦労する。地面も雨でぬかるんでおり、足がもつれてしまうのだ。何より聴覚が故障気味だったのが最悪だった。視覚と聴覚を奪われては、正常な歩行が出来るはずもない。環境もまた劣悪で、歩くには適していない天気だ。
天候は今や豪雨に近い状態になっている。まさに土砂降り。土塊の混ざった濁流が足元を流れていく。
傘を借りればよかった、といまさらながらに後悔する。しかしそれは無理な相談だった。たとえ雨が降ることが分かっていても、一秒も早く練絹家から出るだろう。ロックンロールで発狂するより、大雨に見舞われるほうがずっとましだ。
浸水した田畑や車両を横目に走る。なるべく足を取られないよう慎重に。
これが夕立だったらいいが、あいにくそうではないらしい。一向にやむ気配がない。本降りになる前に帰ろう。これ以上濡れるのはごめんだ。
俺は多少の被害を度外視して駆けた。制服が汚れようが、汚泥がつこうがどうでもいい。早急に帰宅することだけを考える。
そして。
自宅まであと少しといったところ。
やっと風呂に入れると思った俺は、少し速度を緩めた。二十分間の全力疾走はさすがにきつい。雨に打たれながらも呼吸を緩やかにさせる。火照った体に雨が心地よかった。
「……ん?」
歩幅を短くして進んでいくと、アパートの前に人影があった。
相変わらず雨はひどい。にもかかわらず直立不動で佇んでいる誰か。なんか怪しい。
少し警戒して足を動かす。視界が悪いせいか、その人物が誰なのか視認できない。
距離が縮まる。するとその人影が誰であるのかはっきりした。
「……おまえ」
「白夜様……」
人影の正体は佩刀歪だった。
制服は大量の雨を吸っていて重そうだった。ずっとこの場に立っていたのか、顔色は蒼白。寒そうに肩を震わせ水を滴らせている。それが元から付着した雨露なのか、新たに付着した雨露なのか判別しがたい。
とにかくあらゆる個所が湿っていた。当然長い黒髪や鞄はずぶ濡れになっている。
佩刀は俺を見ると嬉しそうな顔をした。
無邪気で無作為な、綺麗過ぎる笑み。
俺は無言で佩刀の手を掴んだ。そのままアパートの中につれていく。階段をすごい勢いで上がっていった。なぜか疲れは吹き飛んでいた。
「びゃ、白夜様……?」
戸惑ったような声。それを無視し扉を開錠する。この時ほどもどかしく感じたことはない。早く開けよ、クソっ。
佩刀を土足のまま部屋に入れる。そのさい、廊下に土を含んだ足跡が出来る。大粒の水溜りができる。そんなことは瑣末なことだと切り捨てる。重要なのはそんなことじゃない。もっと大切なことがある。
佩刀を風呂場に連れていき、乾いたタオルを渡す。拭けといって、風呂にお湯を入れた。
倹約家の俺はあまり風呂のお湯は出さない。だがどっぱどぱ入れる。蛇口がはちきれそうになるくらいに放水させる。たちまちお湯が溜まっていく。浴槽には蒸気が立っており温かそうだった。
「今すぐ風呂に入れ。いいな」
「し、しかし、白夜様こそ濡れ」
「いいな」
佩刀の言葉を遮る。俺は男でおまえは女。なら優先順位は明白だ。
佩刀を強く睨む。堪忍したのか消え入りそうな声で、「はい」といった。
何度も念を押して風呂場を出る。脱衣所からは水が落ちる音と、布切れの音がした。
憮然とした面持ちで居間に入る。
タンスから服を取り出す。大した種類はない。色も地味だ。体操服や寝間着くらいしか収納されていない。
佩刀の体型を思い浮かべる。痩躯で長身。手足は細く、全体的に華奢だ。
俺は中学校のころのジャージを手に取った。少し大きい気もしたが、小さいよりはいいだろう。
ジャージの上下を脱衣所の籠に入れた。佩刀の制服や下着はなるべく見ないようにその場を去る。
そういえば俺も靴を脱いでいなかった。しかし、いまさら脱ぐ気にもならなかった。
急いで台所の棚を開ける。その中には即席カップ麺が数個貯蔵されていた。適当な奴を二つ掴む。ポットのお湯を確認し、湯を投入した。湯気の湧くカップ麺に蓋を置く。後三分ほどで完成だ。
窓からは雨が地面を穿っているのが見えた。カーテンを閉め、じっとする。
回復した聴覚が雨音を拾っていた。
鬱々とした室内。それはなにも雨だけのせいではないような気がした。
○○○
ガラガラと音がした。どうやら佩刀が風呂から出たらしい。
しばらくしてジャージを着た佩刀が居間に来た。俺の意図を汲み取ってくれたらしい。ジャージはやはり大きめだったらしく、ブカブカだった。それでも着こなす辺り、美人は得だと思う。
髪は艶やかに濡れている。体は上気しており、頬は健康そうな桃色だった。
申し訳なさそうに居間に入る。
「カップラーメンしか急いで作れるものがなかった。これで我慢してほしい」とテーブルの上の即席麺に視線を促す。佩刀が入浴してすぐにお湯を入れたから、多分伸びている。おいしさは損なわれているだろう。なにもあそこまで急ぐ必要はなかった、と思う。
向かい側に座る佩刀。顔を伏せているので表情が読み取れなかった。
無言を肯定と解釈した俺は、カップ麺の一つを佩刀にやった。箸を添えてやる。
「……白夜様」
「どうした」
俺がカップ麺を食べていると、佩刀が顔を上げた。涙を流していた。
瞠目する。頬には透明の液体が伝っていた。
なんで。
なんで泣くんだよ。
悲しんでいるのか。
悔やんでいるのか。
おまえは悪くない。
よく分からないが、多分、おまえは悪くない。
悪いのはきっと俺だ。
だから。
泣くなよ。
佩刀は呻吟するように唇を歪めた。いいたいことはあるけど、それをいえない。そういった表情。「おっ、お風呂には入られないのですか……」
「後から入る」
「それでは風邪を引きます」
「そんなことはいいんだ。おまえも食べろよ。ずっとあそこで立ってたんだろ」
佩刀の腹の音が鳴った。どうやら図星らしい。佩刀は顔を赤くした。
綺麗な手が箸に伸びる。汁の吸った麺を食べる姿はかわいらしかった。
「すみません」
「何もいうな」
無言の時間が続いた。
わずかに咀嚼音が聞こえる程度。箸だけが動いた。
大しておいしくもない即席麺が腹に収まる。科学調味料の味しかしなかった。
食べ終わる。緘口したままじっとする。するとだんだん寒くなってきた。鼻がぐずつき、全身に震えが走る。さすがに入浴しないとマズイ。そんな危機感を持って立ち上がる。
その折に佩刀の視線が刺さったが、無視した。黙って脱衣所に入る。たっぷり水を含んだ服を脱ぎ、浴槽に浸かる。たちまち冷えきった体がぽかぽかと温まる。いつもの倍の水量がある入浴は気持ちよかった。
そのまま十分、浸かり続ける。
入浴をすまし服を着る。柄のない黒い寝間着。俺は無地が好きなので、タンスの中には無地しかない。
居間に入ると佩刀が背を屈めていた。腰まである黒髪をゴミで縛っている。
どうやら雑巾で床を拭いているようだった。泥が混じったバケツは黒っぽい色をしていた。
足音で俺に気づいたのか、振り返る。袖まくりをした腕は、陶磁器のように白かった。
「今すぐ掃除いたします。しばらくお待ちください」
健気に笑って雑巾を絞る。
黙って雑巾をもぎ取る。バケツの中に沈めた。
「な、何をなさいますか」
「風呂に入ったばっかりだろ。掃除なんかしたらまた汚れる」
「し、しかしそれでは……」
「掃除は明日すればいい。おまえは休んどけ」
佩刀の腕を強引に握る。そのまま立たせ、洗面所へ連行。蛇口を捻って、佩刀の手を洗う。汚かった指は綺麗になり、タオルで拭わせた。
再び居間へ。佩刀を無理やり座らせた。
「なんであそこにいた」
顔を突き合わせる。佩刀は顔を俯かせた。
……やがて、朴訥と喋り始めた。
私のクラスのホームルームが終わり、白夜様がいらっしゃる二組へと向かいました。されど白夜様のお姿はそこにはありませんでした。気になって知人に尋ねたところ、どうやらご友人と清遊に行かれたのだと聞きました。白夜様のお出迎えは私の責務です。なので白夜様の尊宅で白夜様のお帰りを待っていた次第なのです。
「……学校が終わってからずっとか?」
信じられなかったのでそう質問する。佩刀は二時間近く立ち続けていたのか。
佩刀は首肯した。「そうでございます」
「雨が降ってたのにか」
「別に気にはなりません」
「……そういうことじゃない」
雨にずっと打たれていれば、具合は悪くなるし、風邪だって引く。そんなの当たり前のことだ。
そういうと、佩刀は腰を折って頭を上げた。「申し訳ございません。いらぬ心配をおかけしました」
女に額ずかせるというのは嫌な構図だ。第三者から見ればあらぬ誤解を招く。
佩刀に頭を上げさせる。それでも気丈に拒む佩刀。佩刀は己の不甲斐なさと罪悪感を恥じているようだった。
「いいから上げろって。俺が困るんだ」
「……分かりました」
不承不承で低頭をやめる。目の位置がほぼ一緒になった。
「白夜様……」
上目遣いに見られる。佩刀の表情は官能的で情緒的だった。
「本当になんと申し上げたらよいのか……。私のために甲斐甲斐しくお手当てしてくださって、それにお風呂まで……」
「別にいい。それくらい当たり前だろ」
「今後とも粉骨砕身、白夜様をお世話させていただきます」
「勝手にしろ」
俺は横になった。
篝火白夜と佩刀歪。
この二つを繋ぐものは何なのか。どういった関係性なのか。
知人でも友人でも恋人でもない。しいていうなら主従関係。主人と従者のような繋がりだ。
篝火白夜が主人。
佩刀歪が従者。
なんだかチグハグだ。信じられないくらい違和感がある。
篝火白夜は主人といえるほど度量が広いわけでもない。
佩刀歪は従者といえるほど程度が低いわけでもない。
瞼がゆっくりと落ちる。欠伸が出た。
「白夜様。お蒲団をお出ししましょうか」
側臥したまま頷くと、「承知いたしました」と応じる声。
テーブルを部屋の隅にどける。押し入れから蒲団を取り出し、居間に敷いた。
少し早い気もしたが、眠気がひどい。雨の中を走り続けたからだろうか。疲労が体に蓄積している。鉛を埋め込まれたみたいに重かった。
さて寝るか、と意気込むも、不意にあることに気づく。
「……歪」
「どうかなさいましたか」
「おまえ、これからどうするんだ」
起き上がって窓のほうを見る。カーテンを開けると滝のような暴雨。先がまったく見えず、太鼓を叩くように雨が降り注いでいる。
とても外出できる天候ではない。こんな中飛び出すなんて自殺行為に等しい。
ではどうするか。
「……白夜様」とおずおずとした声。「その、誠に恐れ多いことですが、と、泊らせていただいてよろしいでしょうか……」
「……仕方ないよな」
花が咲いたような笑顔。
佩刀歪は万遍の笑みで俺の横に滑り込んだ。
蒲団は一人暮らし故に一組しかない。同様に枕も一つだけだ。
必然的に二人で一つの寝具を使うことになる。
佩刀は枕に頭を置いた。髪の毛同士が接触する。すごく近い。
「……もう少し離れろ」
「そんな寂しいことを仰らないでください」佩刀は恥じらうようにいった。「それで白夜様……、や、優しくしてくださいね。私、こういうことは初めてで……」
「……おまえ、勘違いしてるだろ」
溜息をつくと隣から寝息が聞こえてきた。
ふっと頬を緩めて立ち上がる。電気を消して消灯。
蒲団に戻ると、知らぬ間に枕が独占されていた。幸せそうな表情で寝入っている。
抜け目のない奴だ、と思って、枕を諦める。
極限まで佩刀から離れ、就寝することにする。