第八話 〃 8
春塵が濛々と舞い上がる。
草が萌え出る季節。
未墾の地も多々ある日和見村。四方八方を山岳や河川で囲まれた田舎である。
畑の脇道には擱座した車の残骸。その先には大きな空き地があり、大破したタイヤや無数のゴミがうず高く連なっていた。
笠雲のかかる頂。雅趣溢れる山々を背景に俺と練絹は歩く。
「ねえ、白夜君」と迦陵頻伽とした声。「ここが私の家だよ」
練絹が立ち止まる。少し遅れて俺も歩くのをやめる。
眼下には二階建ての一軒家。黒を基調とした家で、閑々とした佳景に溶け込んでいた。表札には「練絹」の文字。
「……おい、電気がついてないぞ」
そういうと、なんてことないような声が返される。「そりゃそうだよ。親いないし」
「……いないのか」
「うん」
「誰も?」
「そうだよ。両親は共働きだし、兄さんは部活があるから七時まで帰ってこないわ」
「……それは」と口をもごもごさせる。「その、マズイんじゃないか」
「何がマズイの?」
なんといえばいいだろうか。
「とにかくマズイだろ」
練絹は不思議そうな顔をした。
前々からおかしな奴だとは思っていたが、ますますそれが深まる。今まで一度した話したことのない男をこうもあっさりと上がらせるのか。
表面上誘ったのは俺なのだが、それを決定したのは練絹本人である。
たんに貞操観念が緩いのか、俺の自意識過剰か。
「大丈夫よ。七時までに帰れば誰にもばれないから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「……もういい」と説得を諦める。なんだかとぼけられているような気もしたが、なんてことない。俺がそういうことをしなければいい。
別に興味はない。
「それじゃあ行こうよ」
練絹に連れられ家にお邪魔する。
扉の先には未知なる空間が広がっていた。嗅いだことのない独特な余薫。生活感のある匂いが鼻腔を通り抜けた。
それは我が家にはないものだった。俺の家には虚無しかない。だから匂いも何もない。無機質なだけの、殺風景な家。
玄関には一足も靴がなかった。どうやら練絹の話は本当らしい。
自分の家とは違う様相。誰かの家に上がるなんて随分久しぶりだった。そのせいか僅少ながら、興奮と不安があった。全く知らない土地を踏む時の感覚とよく似ている。無礼ないいかただが、俺にとって練絹家は未開のジャングルと相違なかった。
玄関を抜けると広々としたリビングがあった。当然人はいないのだが、穏やかな雰囲気が伝わってきた。キッチンにテーブル。そしてピアノ。俺の家にはないソファーが二つある。頭の中に一家団欒する家族の絵が連想された。新聞を開く父。忙しそうに配膳する母。椅子に座って勉強する妹。漫画に夢中になる兄。慌ただしくも平和な練絹家の朝。
羨ましい、とは思わなかったが、懐かしさは感じた。俺にもこんな時があったな。そんな感慨だ。
今となっては叶わぬ夢。兄弟はもともといないし、両親は手の届かぬところにいってしまった。
別に両親を恨んでいるわけではない。両親の異常な殺人癖なんて、いってみれば好き嫌いと同じレベルだ。ピーマンが嫌いな奴もいるし、トマトが嫌いな奴もいる。そこに歴然とした嗜好があるように、両親は轢殺という概念に愉悦を見出したに過ぎない。それは一種の娯楽で、本人たちにしてみれば、日常の延長戦だった。それが続いたのも、その行為の中に興奮や高揚が多大に含まれていたからだろう。
正常と異常がいつも両極に位置するとは限らない。正常と異常はよき隣人であり、よき理解者でもあるのだ。
「……いいリビングだな」と思わず口にする。
「そうかな」
「ああ、優しい感じがする」
我ながらバカっぽい形容だと自嘲。対人能力が衰え、語彙が少ない俺にはこれが精一杯の賛辞だった。
「ありがとう」と練絹はにっこりと笑った。
ありがとう、といわれるのも久しぶりだった。誰にも感謝されたことがなかったからだろうか。
俺の視線がピアノに向いていることに気づいたのか、「私、ピアノ習ってたの」と練絹はいった。
「……ピアノ?」
「今はもうやってないけど、幼稚園のころからかな。中学校卒業までずっと」
時間に換算してみれば十年間くらいだろうか。「よく長続きするな」
「そうでもないわ。スランプで何カ月もピアノに触ってない時期もあったし、時々面倒になることも多かった」
「それでも続けれたんだろ。継続は力なりってよくいうじゃないか。続けるってことはそれ自体に忍耐がいる」
忍耐。
篝火白夜がもっとも苦手とすることだ。一度としてそれをしたことがない。続けることはおろか、始めることもしない。忍耐どころか決起すらしない。生産性も建設性もまるで皆無。篝火白夜の自叙伝なんてたったの三ページ弱で完結してしまうだろう。俺の人生には全くもって変化や変容がないのだから。
「……へえ、案外まともなこというんだね」と感心したようにいう。「見直したわ」
「悪かったな」
「ごめんね、そんなにすねないでよ」
「すねてない」
「すねてるよ」
「……そうだな」
「正直でよろしい。それでどうする? 私の部屋……、行く?」
「どっちでもいい」
「なら今すぐ行きましょう。大したものはないけどね」
にこやかに笑って、階段のほうに足を向ける。
○○○
練絹の自室は女の子らしい部屋だった。しわ一つないシーツ。丸型の小型テーブル。整頓された机。背もたれのある椅子。
ピアノをしていたからだろうか。本棚には音楽関係の資料がたくさんあった。鍵盤楽器の書物は勿論、クラシックやジャズ。ロックや演歌まである。あらゆるジャンルを網羅した本棚は、図書室のようだった。
個人の部屋にはその人物の性格や内面が色濃く反映される。練絹の場合、音楽を主軸においた内装だった。練絹玉梓にとって、音楽は趣味であり生きがいなのだろう。机の上には何十枚ものCDが散在しており、音楽機器らしきものが鎮座していた。
「座って」と促され、テーブルの近くに座る。練絹も同様に、俺の向かい側に座った。
練絹の顔が咫尺に見える。鮮やかな紅色の唇。形のよい鼻梁。アーモンド形の瞳は知性の色をたたえていた。
刹那の沈黙。
「白夜君って兄弟、いる?」
「いない」と即答。
「一人っ子なんだ。少し羨ましいわ」
「なんで」
「だって私の兄さん、過保護でむやみやたらに干渉してくるのよ」と憂うようにいう。長い髪を指でいじって、悶々としているのが分かる。
「迷惑なのか」
「そうじゃないけど……。時々行き過ぎてるとは思うわ」とそこで口を噤む。「だから私が男の子を連れこんだら、結構、マズイ」
どれくらいマズイのだろうか。
程度は分からないが、ほらやっぱり、と思った。「さっき大丈夫っていってなかったか」
「そうはいったけど……。そういったらあなた、帰りそうな勢いだったじゃない」
「そりゃそうだろ。それにほら、これ」といって髪の一房を掴む。「家族だったら絶対にいい気はしない」
練絹は苦笑に近いものを浮かべた。「金髪だもんね」
「親にしても、娘が悪い男に騙されてる、って普通は思う」
「そうかもしれないわね」と暢気な声で返答。全然そう思ってないな、と呆れてしまう。
「そういうわけだから、すぐ帰る」
「それはダメ」と峻拒。険しい表情で俺を見た。
その理由を問うと、とにかくダメといった返事が返ってきた。
んな理不尽な。
「そもそも誘ってきたのはあなたのほうだわ。失礼よ、それ」
「それはまあ、そうだよな……」
「そうよ。だからあなたは私を楽しませる義務があるわ」と言い切る。練絹はバカみたいに背中を反らした。
そうはいっても、俺にそういう才能はない。全くない。
困ったことになった。
何か話題になるものを脳内で検索するも、ゼロ。笑えないくらいに何もなかった。というか、帰宅部で家に閉じこもっている俺に語るべき事件なんてない。朝日が綺麗だったとか、珍しく早起きしたとか、それくらいしかない。かといって貧困な想像力では作り話すら創作できない。
……血なまぐさい喧嘩談なら腐るほどあるが、受けは悪いだろう。女子供に話すべきものではない。それくらいは理解している。
進退これに極まるとはまさにこのことか。
散々考えたあげくに出てきたのが、梅雨利って何者、といった言葉だった。
複雑な表情を作る練絹。恨めしそうに俺を睨む。安全策と踏んだが、まさかの地雷か。
「……東子はね、変人。以上」
「……それだけか?」
「それだけ」
会話は打ち切られる。
息苦しい静けさ。
なんなんだ、これは。
初めて感じる静寂。それは嘲弄のこもった静寂でもなく、会話のネタが尽きた時の静寂でもなかった。それらとは明らかに次元が異なる。冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような苦しみ。自分の体が少しずつ闇に飲みこまれていくようだった。
沈黙を破ったのは練絹の陰の混じった声だった。
「白夜君。なんで、女の子の部屋で違う女の話をするの?」
練絹の表情は能面のようだった。感情の一切が抜け落ち、色らしい色が消滅している。それは女神の彫像のようにも見えて、反道徳的な美を持っていた。
危険だ。
この女は危険だ。
本能の最下層、篝火白夜の根源をなすものがそう囁く。警笛を鳴らす。
「ご、ごめん」
怖くなって謝る。
「いいよ。分かってくれればそれで」
と。
一転、元通りの快活な笑み。ほっと安堵する。
「そういえば、なんで東子の携帯で電話したの?」といって、俺の目を見すえた。猜疑心。やはり少なからず変に思っているらしい。
梅雨利に無理やり、というべきか。
逡巡。いつくかの選択肢を考慮、様々な考えを一つに帰趨させる。
「持ってないんだ」とだけいった。「携帯電話、持ってないんだ」
練絹はその一言で感得したらしい。「それで東子のを使ったの?」
「そうだ」
実際そうではないのだが、そうだといった。
俺の携帯電話に練絹のメールアドレスは登録されていない。そのことは練絹も十分分かっているだろう。
「そっか。白夜君、携帯持ってないんだ……」
なら、直接言ってくれればよかったのに、といわれるかと危惧したが、そうとはいわなかった。練絹はぶつぶつと呟くだけだった。
おもむろに練絹が立ち上がる。「そういえば白夜君。何か音楽聴く? なんでもあるよ」
俺は音楽を聴かない。なので流行の音楽がなんなのか、どういう歌手がいるのか、全く知らない。
「なんでもいい」
「じゃあ、ロック」
声を出す暇もなく旋律が流れる。
たちまち退廃的な歌詞が頭に飛び込んできた。
○○○
やあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
日を差して、火を指して、非を刺して、碑を挿して、陽を射して、緋を注して、俺を、私を、僕を、我を、冒しつくす――
「やっぱり、『己ヲ虚シウス』は初心者にはきつめだったかしら。セックス・ピストルズの影響受け過ぎだわ、これ。特にこの新アルバム『我ヲ折ル』はすごくハードでごちゃごちゃしてるわ。それ以前に騒音ね。このアルバムを全部聞いたら発狂するってネットに書いてあったし。なるほど、理解したわ。もっと別のにするんだった。じゃあ、次はこれ。音楽史を変革せしめんとする異彩のハードコアバンド、『ニヒリスティック・ニヒル』。既存のJ-ロックに囚われない自由な旋律。全てを拒絶するような音とリズムは我々にどんな世界を見せてくれるのか……」
練絹はCDに内包された紹介文のようなものを読んでいた。
対する俺は聴覚不全の瀕死状態だった。耳が正常に機能しない。絶対にぶっ壊れてる。鼓膜が破れたらどうするんだ。
「さて、新曲、『二ーチュの恍惚』。冒頭からぶっ飛んでるから、気をつけてね」
さらりとスイッチを押す。嫌なうねりを上げて、CDが再生される。嵐の前の静けさ。イントロがあと少しで始まる。あと少しで――
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
大音響。練絹は楽しそうに耳をすませていた。
耳を手で塞ぐ。脳波が乱れる。堪らなくなって床にうずくまった。
スピーカーから莫大な質量を持った音が流れる。それは轟々と音を立てる奔流となって俺を襲った。塞いだところで防ぎようがない。脳内をミキサーで撹拌されたようだった。
「まあまあだわ。『ニヒリスティック・ニヒル』らしいといえばそうだけど、個性があり過ぎるっていうのも逆に問題ね。独創性もつきつめればただの変態性欲だわ。さて、次行きましょう。なになに、突如彗星のごとく登場した実力未知数の新人バンド、『狂う年』。獰悪で刹那的な歌詞は聴くものを戦慄させ、深層心理の扉を開かせるという。その破壊的パンクを標榜する『狂う年』は今日の台風の目となるのか。私も初めて聞くけど、どういったものかしら」
やっと終わったと思ったら、次のCDへと移行する。そのCDにはコウモリをむしゃむしゃ食べている黒服の男が映っていた。背後には十字架。泥沼のような地面からは無数の亡者が手を伸ばしていた。目が落ち窪みぼろきれのような服を着ている。肉のそげ落ちた亡者は、メンバーらしい黒服の男たちの足を掴もうともがいていた。全世界のキリスト教信者に申し訳ないパッケージだ。
「……ね、練絹……」
「ん? どうしたの?」
「と、とめろ……。しっ、死ぬぅ――!」
曲が流れ始める。
「なんか聞こえたけどまあいいわ。『狂う年』のファーストアルバム、『暗黒関数』。うわぁ、パンク!」
初っ端からすっげー破壊力。
低迷していく思考回路。なんかもうどうでもよくなる。母親の胎内にいるような気分だ。羊水に満たされ、自分の体を抱く赤子。母親とへその緒で繋がり、深い眠りにつく。そこには深い安らぎしかなくて、平和なところ。
ぶおおおぉぉぉぉぉん!
「ななな、なんだこれはぁぁ!」
意識が途切れそうになる。否。途切れる。間違いなく。
「きゃああぁぁぁぁ! これいい。これメチャクチャいい! 白夜君はどう思ううぅぅ?」
「聞こえないに決まってるだろうがああぁ! とと、とりあえず、一旦とめろぉぉぉ!」
ガチャ。
何も聞こえなくなる。
どうやら悲痛な叫びが練絹に届いたらしい。スピーカーからは何も聞こえてこない。ただ、あまりにも莫大な音量で聞いていた反動で、何も聞こえないという可能性もあったが。
思い切りカーペットに突っ伏し、肩で息を整える。運動をしているわけでもないのにものすごく疲れた。全身が疲弊しきっている。異常事態だ、これは。どうなってるんだよ。
一方の練絹はけろりとした表情だった。間延びした声で、「どうしたのー?」と訊いてくる。
……それはこっちの台詞だ。
人間、極限まで追いつめられると笑ってしまう、というのは嘘ではないらしい。
俺は笑い転げそうになった。おかしい。この女の聴覚はどうなってるんだ。
死にそうになっている俺を見て、練絹は小首を傾げた。今の俺の状態を不思議に思っているらしい。しかしそんなことどうでもよくなったのか、新たなCDを再生しようとしている。そのパッケージにはギターを叩き割る男の姿。目にアイシャドウを施した男が甲高い断末魔を上げている。混沌を体現化したようなイラストだった。
口を動かそうにも、縫いつけられたように動かない。とめろといいたいのに、唇が上下に開かない。マズイ。これはマズイ。生死に関わる。
しかし声にもならない絶叫が届くはずもなく、無情で無常なイントロが聞こえてくる。無上の喜びを噛みしめる練絹。
断言しよう。
この世に地獄は存在する。
結局。
あのまま何十曲ものハードロックを聴かされた俺は、満身創痍で練絹家を後にすることにした。
練絹に何度も引きとめられたが、振り切る。本当に申し訳ないが、あれ以上はダメだ。体の構造が変わる。