第七話 〃 7
「……ふむ、なるほど。確かにそれはひどいね」
俺の話を聞いた梅雨利は、憤慨したようだった。
「眉村先生も陰湿なことするよ。そんなことして明日食う飯がうまいかっつーの」
梅雨利は空になった抹茶コーラを茂みに投げた。地面に衝突する甲高い音。空しく響く。
体を近づける梅雨利。腰を突き合わせて俺を見る。研がれた日本刀のような目。紅い唇。
けどね、篝火君。
梅雨利はそう前置きを置いて、「状況から考えても、君の行動は納得できるよ。多分間違っていないと思う。けどね、それは間違ってるんだよね。そんな状況下で暴力を振るうことは間違いじゃないけど、それを先生に振るうことは間違ってる」といった。「本当に不器用だね、篝火君は。客観的に見て一概にはいえないことでも、ろくに精査せずに判断する人もたくさんいるんだから」
俺は今朝のことを思い出した。利己的な物言い。有無をいわせない断罪。その他大勢の正義が押しつけられ、俺の正義が消えていく。くだらないと否定され、それでお終い。
価値観なんて多数決だ。
俺が少数派であの男が多数派。
それだけの話だ。
けど大丈夫。考えるのはやめよう。考えなければいいのだ。そうすれば嫌なことなんてすぐに忘れる。何も思わなければ何も感じなくなる。よくやる。
「ねえ、ちゃんと聞いてる? 全部君のために話してるんだからね。ちゃんと聞かないとお仕置きしちゃうよ。抹茶コーラ飲ませるから。それでね篝火君。はいこれ」
梅雨利はポケットから一紙を取り出し、俺に手渡した。
「……なんだこれ」
「開けてみて」
梅雨利のいうとおりにすると綺麗な筆致で気号が綴られていた。無数の数字の羅列。何かの番号だ。おそらくメールアドレス。
「誰のだ」
「玉梓の」梅雨利はにっこりと笑った。「玉梓のメアドだよ」
「……練絹のか」
おまえのじゃないのか、とはいわなかった。意図があるのだろう。どういう意図から分からないが。
梅雨利は楽しそうに笑っている。何かを企んでいる笑み。
「梅雨利東子が篝火白夜に命令します。今すぐ件の子に電話しなさい」
「なんでだよ?」
「なんでって、なんで?」
「いや、理由がないだろ」
「理由なんて後からくっついてくるから。さっさと電話しなさい」
俺は押しに弱い。
やたらと練絹との通話を強制してくる梅雨利。
しかし俺の手元に携帯電話はなかった。きっと鞄の中だろう。
そのことを説明すると、梅雨利のポケットから白色の携帯が出てきた。「これ、使いなさい」
受け取りを拒否するも、無理やり携帯を掴まされる。金属の冷たい感触が伝わってきた。
「遊びに誘いなさい。家に誘ってもいいし、どこかに遊びに行くのもありよ。とにかく玉梓と遊びなさい」
「いや、理由がな」
「いいから」
画面にはすでに練絹玉梓と表記されていた。逡巡していると、『もしもし』という声が聞こえてきた。雑踏に混じった練絹の声。教室付近にいるのだろうか。周りの話し声がうるさい。
目で通話するよう合図を受ける。仕方なく出ることにする。「もしもし。俺だ」
『…………』
沈黙。
俺だけでは伝わらなかったらしい。当然だ。俺と練絹は覚える限り、一度しか会話をしていない。茶屋の一軒だけだ。
とりあえず名前を出すべきだろう。
「ああ、俺だ。篝火白夜。覚えてるか?」
『……うん』
控え目な声。不審がっているのだろう。梅雨利の携帯から別の人間が電話をかけてきたのだ。
頷ける反応、とは思ったが、少し寂しかった。
『その……なんの用?』
「ああ、その、なんだ。遊ぼう。俺と」
『…………』
俺と遊ぼう。
なんか嫌な響きだ。軽薄な男、といった風。ナンパの常套句だ。
断わってくれ、と願う。面倒事は嫌だった。そもそもなぜ俺が練絹と遊びに行かなければならないのか。
『……いいよ。どこに行きたい?』
だが、練絹の返答はまさかの了承。
「……そうだな」
困った、と思った。まさか受諾されるとは。予想外にもほどがある。
『篝火君の家はどうかしら?』
自室を想起する。何もない空間。「ダメだ。行ってもつまらない」
来る人間が佩刀みたいな規格外な人間ならいいが、と思った。佩刀は一切合財俺に対して文句をいわない。なんでも許容する。全ての奴がそうだとは限らない。練絹だって五分で飽きるだろう。それだけは保証できる。
模様替えでもしてみるか、と画策するも、意味のないことに気づく。
『……そんなことないと思うけどなあ』
「練絹はどこがいいんだ」
『わっ、私? ……私の家、は? 結構広いし。というか一軒家だし』
「分かった。放課後にな」
携帯を切ろうとしたが、『ちょっと待って』と練絹の制止。
何かいいたそうな気配。躊躇っているようだった。呼吸が荒れているのが分かる。
『……楽しみにしててね』
「ああ、楽しみにする」
回線を寸断すると、梅雨利は笑っていた。口に手を当てもせず哄笑する。妙に様になる辺り、性格が歪んでるんだろうな、と推測。いいすぎかもしれないが、この女は普通の女とは決定的に違うような気がした。
「初々しい会話だったね。中学生みたい」
「余計なお世話だ」
「そうやって反論するところもかわいいね。電話中、顔が赤くなってたよ」
俺は梅雨利に向かって携帯を投げつけた。
○○○
六時間目の授業は残り五分程度で終わる。
中年の先生が黒板に何かを書く。行き来する視線。ペンの滑る音。黙々と板書に没頭する生徒たち。
遠目に眺める。チョークが粉になって黒板の溝に落ちる。書き足されていく文字、記号。動く指。刻まれるノート。厳粛な雰囲気に包まれた教室。
つまんねえ光景、と思った。つまらない。面白くもなんともない。
窓の下方からは体育館が見えた。体育が終わったらしい生徒が各々群れを作っている。渡り廊下には無数の人影があった。
跫音や話し声。
感情のこもらない目で俯瞰する。
と。
一際目立つ黒髪。五、六人の女子に囲まれ、穏やかに笑っている。
集団の真ん中、そこには佩刀歪がいた。
友人だろうか。そのうちの一人が佩刀に喋りかける。相変わらずの無表情だったが、ゆっくりと感情の波が広がっていく。相槌をして返答。どうやら会話は弾んでいるらしく、笑い声が絶えない。
見てはいけないものを見てしまった。
知ってはいけないものを知ってしまった。
分かってはいけないものを分かってしまった。
静かながらも毅然と存在感をあらわにする佩刀。周囲の目には尊敬と畏怖の色。佩刀を中心に輪が形成され、会話は継続される。
一瞬で景色がモノクロになった気がした。脳細胞が一つずつ凍りつく。それは不快だった。同時に諦念が飛来してくる。索然とする頭。現実を認識する脳。影が際涯のはてまで塗り潰していく。
歓談。俺にしか向けないと思っていた笑みが佩刀の顔に浮かんでいた。楽しそうな表情。友人との会話を愉快に思っている笑顔。
一気に冷めていく熱。ああ、そうか。そういうことなのか。
急激に佩刀が遠い存在のように思えてきた。手を伸ばしても届かない距離。置いてけぼりを食らった感じ。
身勝手な喪失感であると自覚する。
いい気になるなよ、篝火白夜。
しょせん一人のままなのだ。札付きの不良と人気者の優等生。噛み合うはずがない。そんな狂った歯車、誰も認めない。
裏切られた、なんて思ってるのか。
間違いなのだと気づく。わがままだと、そう理解する。
そう、これでいい。これが本来の形だ。散逸したものが修正され、矯正された。ただそれだけだ。これこそが正しい。現状理解は大切だ。そうだろ、俺。
自分と、佩刀。その位置関係。そこには絶対に埋まらない格と位がある。階級が下のものが上のものに近づいてはいけない。そんな簡単なことも忘れたのか。それとも舞い上がっていたのか。
錯覚だ。
視線を外す。
見たくない、知りたくない、分かりたくない。
幸せなんて刹那的だ。幸福なんてありえない。篝火白夜は幸福になんぞなれないし、なる資格もない。面倒なことや困難なことから逃げてきた奴がいっていいことじゃない。
勉強せずに学年一位になりたい。朝練せずに試合に勝ちたい。楽をしていい思いをしたい。そしてそれなりの成績を収めれば、より怠惰になっていく。突き放されるまで天狗になる。
愚かな考えだ。結局のところ、何も変化しない。何もしなければ、未来には何も残らない。無為に現在を生きて、過去の栄光に縋る。そして、現状に満足できず不平不満を述べる。自分はこんなにも結果を出しているのに、とお門違いなことをいう。
今の俺はまさにそれだ。
失ったというわけではない。もとからそれがあるものだと取り違えただけだ。初めから何もない。貸し与えられただけだ。いざ取り上げられても、文句をいえる対場ではないのだ。
手に入らないものを見るべきではない。
そうだ、考えるのをやめよう。そうすれば楽だ。不快な思いをしなくてすむ。気が紛れる。
チャイムが鳴る。
委員長が号令をかけ、授業は終了。筆記用具が片づき、教科書が机に収容される。開放感に溢れた生徒たち。椅子から移動して友人と話しこむ奴。授業の復習をする奴。帰る用意をする奴。
つまらねえ光景、と思った。
○○○
「か、篝火君……」
消え入りそうな声で練絹はいった。
俺のクラスは他クラスよりもホームルームが終わるのが五分くらい早い。学級で一番早いのでは、と思う。
鞄をからって教室を出る有象無象。滞在する部活動生。
様々な音が他の音を打ち消し合い、雑然と賑わう教室。
「なんだ」
自分でもびっくりするくらい冷然とした声。鋭利な刃物のような言葉が練絹に突き刺さる。
前に見た練絹の活発さはなりを潜めていた。それどころか俯き加減で今にも消え入りそうだった。
「え、忘れたの……? 今日来てくれるんでしょ。私の家に」
辺りの人間は軽蔑した目で俺を見た。またたぶらかしたのか。目がそういっている。
ああ、そういえばそんなことがあったな。
過去に遡及してみると、該当する事実があった。昼休みに練絹とそういった約束を交わしたような。
どうでもよくなる。
今すぐ蒲団に入ってじっとしたい。何も思わず、何も感じず、蝉の幼虫のようにしていたい。
「練絹。悪いけどそれ、なしってことにしないか」
「ダメ。そんなのダメ」
体の奥底から湧き上がる声。ハッと口元を隠す練絹。妙な緊張が漂う。
「その……それは、ダメ、かな。だって約束してきたのあなたじゃない。そんなのルール違反だよ。遊ぼうっていったのに。楽しみにしてるっていったのに」
それは悲痛な叫びにも聞こえた。切々とした表情だった。「私を裏切るの。私の想いを、楽しみを……裏切るの? 許されないよ、そんなこと。そういうことは、許されないよ。私が許さないよ……」
「わ、分かった。その……、泣くな」
「泣いてない!」とヒステリックに叫ぶ練絹。
たじろいでしまう。女に泣かれたらどうしようもない。
「ね、練絹。い、行こう。今すぐおまえの家に行こう。テレビ見たり勉強したりしよう」と練絹の手を握って下駄箱に直行。前とは立場が逆になる。
「うん」
練絹は嬉しそうに握り返した。華奢な指が深く絡みついた。
あと少ししたら佩刀が来るはずだ。来るかどうか分からないが来るはずだ。
その時教室に俺がいなかったらどう思うだろうか。悲しむだろうか、怒るだろうか。あるいはどうも思わないだろうか。
多分後者のほうだろう、と見当をつける。あれだけみなに慕われているのに俺と関わる意味がない。佩刀にとって、俺との関係は遊びなのだろう。適当に遊んで、飽きたら捨てる。その時期が早まっただけだ。肩を落とす必要もない。
もし前者だとしたら、俺は佩刀を裏切ったことになる。それはそれでいいような気がした。いまさら佩刀と馴致したところで、このモヤモヤは晴れない。こんな曖昧なものを抱えたまま佩刀の前に出るのは、佩刀に失礼な気がした。
そんなことをしたら嘘をつかなくてはいけなくなる。虚飾しなければならなくなる。それは一度リハーサルの済んだ劇を演じるような恐怖があった。台本通りの台詞、行動、感情。不用意にバカなことをいって、佩刀を傷つけたくなかった。
なんてこった。なんという卑小な思考回路。これほど心が狭量な人間がこの地球上にいるのか。
下駄箱で靴を履きかえる。前方にいた練絹が振り返った。「篝火君」
「なんだよ……」
「白夜君って、名前で……、呼んでいいかな?」
なんだそりゃ、とは思ったが――首肯。名前なんて個々を識別する記号だ。名前で呼ぼうが名字で呼ぼうが関係ない。そいつの本質が変わるわけでもない。
「あー、うん。それとね、白夜君。わ、私のことも、玉梓って、呼んで、いいからね」
「お安い御用だ、練絹」
「びゃっ、白夜君! 全然分かってないよぉ」
練絹は不満そうに唇を尖らせた。
「それで何するんだ」
「うー、音楽! 私の趣味、音楽なの」
若々しさに満ち溢れた笑顔。純然たる美の結晶。女の色香がこぼれ落ちそうなほど発散されている。
対する俺の顔にはどこか引き攣った笑みが張りついていた。長年笑ってなかったせいだろうか。表情が白々しく見えまいか、と心配。
杞憂だったのか、特に気にする様子はなかった。爛々とした足取りで正門に向かっていく練絹。自由奔放で穢れを知らない後ろ姿。
もてるんだろうな、と思う。練絹の容姿は異性を引きつけるには十分すぎるほどだ。
「早く行きましょう、白夜君」
にっこりと満開の笑み。大輪の花が咲き乱れたようで、美しかった。
急いで靴を履いて、その後を追う。顔には自然と笑みがこぼれていた。
「……本当、女って不思議な生き物だ」
と。
そう思わずにはいられなかった。