第六話 〃 6
四時間目の数学。授業担当は担任の眉村だった。
三角定規を持って教室を遊泳する。問題演習の時間らしく、ちょくちょくと生徒のノートを覗き見ていた。
三列前の女子には柔らかに注意を促し、その横の男子には何か冗談らしいことをいう。小さく苦笑がして、誰かが何かをいった。再び教室が湧いた。
その勢威を保ったまま、眉村が俺の横を通り過ぎる。その時だけ教室が静まり返った。眉村が俺の後ろにいる生徒に声をかける。友人らしい誰かが小言を呟いた。失笑が漏れる。俺は教科書を閉じた。授業時間はまだ三十分もあった。
信じられないことだが始業式から皆勤賞だった。十日もの間、遅刻や欠席をしたことはない。やはり佩刀歪のおかげなのだろうか。佩刀がいなければ今頃俺は、いつものように蒲団の中だった。
驚異的とすらいえる結果。一部の先生は俺が更生しようと頑張っているのでは、と解釈しているようだった。確かにこの一巡、俺はそれらしい事件を起こしていない。不良も俺に突っかかってくることは不思議となかった。
佩刀か。
佩刀歪の存在が俺をより近寄りがたくしているのだろう。不良といえど佩刀と顔を合わせるのは面映ゆいのかもしれない。佩刀は綺麗過ぎる。圧迫感といってもいい。美しさで裏づけされた女の色艶。人の一生を狂わせることすら出来そうな容姿。この異性に気にいられたい。対峙した男子はまずそう思うだろう。
とはいったものの。
俺は今朝の出来事を思い出した。
朝。迎えに来た佩刀と登校し、教室に入ると雰囲気が変わった。豹変した、と表現すればいいのだろうか。俺が入室すると同時に、みなの気配ががらりと変容した。俺を軽蔑の眼差しで見るもの、三々五々と固まってひそひそ話をするもの、憎らしげに俺を見るもの。
いつものことだ。気にはならない。
机に鞄を置く。朝のホームルームまで時間は多少ある。それまでぼんやりと過ごすことにする。
「篝火」
どこからともなく声がする。
一瞬、誰の名前だっけ、と思った。それくらい人から名前を呼ばれるのが久しぶりだった。
声のしたほうに目を向けると、見知らぬ男子がいた。きっと同級生なのだろう。線は細いが目に力のある男だった。
無気力にそいつを見る。男はナイフのように尖った視線を俺に向けた。
男は意を決したように、「おまえ、佩刀さんと付き合ってるのか?」といった。
いつの間にか周囲の興味はこちらに集まっていた。みな固唾を飲んで見ている。
きたか、と思った。不可解な接触を続ける篝火白夜と佩刀歪。その関係の異常さを尋問および糾弾しにきたのか。そしてこの男が衆意の代表らしい。取り巻きの男子たちが心配そうに男を見守っている。
気がつけば廊下にも人だかりが出来ていた。そんなに気になるのだろうか。
取り巻きと目が合うと、思いきり睨まれた。バカな真似すんじゃねーぞ。視線でそう訴えかけているようである。まだ観衆の一部にも、物騒なものを用意してる奴がいた。金属バットでないことが幸いか。ただ木製バットでも殴られるとかなり痛いことくらい分かっているはずだが。俺が野球ボールじゃないってことも。
フォームから察するに投げるつもりらしい。勿論身構えてる奴も結構いる。周囲がどちらの味方なのか、想像に難くない。あまりにも分かりやすい勢力図だった。
「なぜそう思う」
「お、おまえがその……、佩刀さんと登校していたからだ!」
毅然とした表情にほんのり赤みが差す。周りの男子も似たような反応をした。
「それがどうかしたのか」
「どど、どうしたもこうしたもないだろ! 僕のいいたいことが分からないのか?」
考える。結論はすぐ出た。
「歪のことが好きなのか?」
「おっ、おまえ、何を!」
そういうと、男は顔を真っ赤にした。目を見開いて首を横に振る。違うといっているようだが、そうは見えない。
単純な奴。
「そうじゃないのか」
「ち、違う! 僕はそんな、軽薄な、人間じゃ、ない!」
「俺みたいに?」
「そ、そうだ。僕はおまえみたいな中途半端な奴が大嫌いなんだ!」
そうだそうだ、と誰かがいった。たちまち熱を持って押し寄せる。そうだの大合唱だった。
侮辱されたのが相当こたえたらしい。目は憤怒の色を帯びている。
「おまえみたいな不良が佩刀さんと釣り合うか? 釣り合うわけないだろ、バーカ」
そうだ、そうだ。
「身の程を知れよ。自分の立場分かってるのか? 誰にも見向きされないゲスだ」
そうだ、そうだ。
「どうせ弱みでも握って関係を強制してるんだろ。このクズ。和田先生のいうとおり、おまえは社会のゴミだ」
そうだ、そうだ。
「そういえば、練絹さんとも何かしているそうじゃないか。おまえ、どんな汚い手使ったんだよ」
そうだ、そうだ。
「さっさと佩刀さんたちを解放しろ。おまえにつきまとわれて嫌がってるだろ」
そうだ、そうだ。
「それとこれは僕個人の意見だが、おまえ。退学でもしたらどうだ? どうせこの学校にいても居場所なんかないんだ。そうだろ? さっさとこの学校から消えろ。おまえのような奴は死ねばいい」
死ね。死ね、死ね。死ネ。死ネ。シネ。シネ。
男はせせら笑うようにいった。
「この辺で勘弁してやるよ。佩刀さんを解放しなかったら僕はおまえを許さないぞ。絶対にな」
男は踵を返した。背中には大事をなしとげたという満足感があった。みなに手を振り、満遍の笑顔を振りまく。周囲は男の敢為をたたえ、盛大な拍手をした。黄色い声援が上がり、男の肩を叩くものもいる。色々な人と抱擁を交わし、喜びを分かち合った。
取り巻きの一人が俺を見た。口ぱくで何かをいう。バーカ。そのまま友人たちと帰っていった。
一対一だったらあんなこといわないだろうな、と思った。そんなリスクを冒す奴はいない。ただ、あの男の場合大丈夫だと踏んだのだろう。大衆を味方につけた安心感からか、今までくすぶっていた想いが爆発したらしい。
男が去ると何事もなかったかのように景色が元に戻った。生徒たちは席に着き先生を待つ。あるものは読書をし、あるものはお喋りに興じていた。当たり前の風景。日常の再来。
いつものことだ。
すぐ慣れる。
○○○
「篝火」
四時間目の授業が終了すると、眉村が俺の名を呼んだ。
またか、と思って眉村を見る。汚物を見るような目。眉村は嫌悪感丸出しで俺を見た。
「おい、聞いているのか!」と大声。「今すぐ職員室に来い」
眉村は俺を睨んだ。息苦しい静寂に包まれる教室。誰もが動きをとめ、話の趨勢を窺っている。
先生に呼び出されるのもまた、いつものことだった。
抵抗したところで意味がないことは、これまでの経験で染みついている。反抗しようものなら、和田とかいう先生が躾と称して鉄拳制裁をくだすことは目に見えていた。
のっそりと立ち上がる。体が重い。テレビ越しに自分を見ているようだ。現実感が希薄だった。
眉村の後ろをついていく。振り向くことはない。眉村は振り向かなかった。
職員室に入るのは何度目だろうか。先生に叱責されるのは何度目だろうか。
どうでもいいことだ。
眉村は椅子に座った。俺は立ちっぱなし。そして言う。「おまえ、今回のテスト、よかったぞ」
不意を突かれる。眉村は疲れたように言葉を続ける。「最近のおまえの素行は比較的いい。これといって問題を起こしたわけでもなく、テストの成績もはっきりいって平均以上だ」
予想外。眉村の言葉は本当に予想外だった。
「篝火。俺はそれなりにお前を評価している。いや、そうだな……。高松先生がいうにはお前はやればできる子らしい」
やればできる子。
なるほど。俺はやればできる子なのか。
ということは、やらなければできない子なのか。
眉村は椅子に座りなおした。
「ただ金髪はやめろ。目障りだ。即刻髪を黒に染めろ。見ていてうざいだけだ」と激しい口調でいう。険しい表情がさらに険しくなった。そこには深い嫉妬と憎悪が刻まれていた。「それとおまえ。佩刀とどういう関係だ」
既視感。どこかで聞いたことがあるようなセリフだ。
「友人です」とだけ答える。
「生徒がいうには登下校を共にしているらしいじゃないか。妙な話だ。どう考えてもおまえと佩刀じゃ釣り合わない。いっておくがこれは忠告だ、篝火。今すぐ佩刀と縁を切れ。成績素行ともに優秀な佩刀まで感化されたらたまらんからな」
それが話の主題か。
眉村を見る。頬はだらしなく弛緩し、夢見るような目つき。俺の名前を出すときは険悪な表情をしたが、佩刀の名を出すときだけ幸せそうな表情をした。
禁断の愛なんて流行らないぞ。
そういってやりたいが、いわないことにする。これ以上話をこじらせたくない。
きっと前半の話は本題のためのクッションなのだろう。セールスマンの常套手段だ。相手を喜ばせておいて、頼みごとを突きつける。断りづらいところを一気に畳み掛ける。掌を返すような美辞麗句。しょせんは偽装か。眉村は俺のことを露ほども評価していない。むしろ悪意すら抱いている。
これで分かりました、というのはつまらない。他人の思惑に踊らされるのはごめんだった。
しかし。
眉村のいうことは一理ある。否。全てその通りだった。
佩刀歪はあらゆる面で常人を上回っている。そんな有能な人間ならば、やがて俺という幻想から覚めるだろう。それでいい。俺は佩刀と同じ土俵に上がってはいけない人間だ。
「そもそも佩刀のような人間がおまえみたいな奴と付き合っているのはなぜだ。暴力で脅したのか。それとも弱みでも握ったのか」
俺は吐き気がした。こいつも同じことをいう。
「もしそうだとしたら篝火。それは犯罪行為だぞ。早急に取りやめろ。佩刀に関わるな。おまえのせいで佩刀が穢れたらどうするんだ」
俺は無言で眉村を殴った。
二メートル近く吹っ飛ぶ。
騒然とする職員室。アホみたいな面で俺を見る眉村。
俺は先生たちに取り押さえられた。
○○○
十分後。
俺は職員室から追い出された。
体の節々が痛む。いきなり体を動かしたからだろうか。理由はそれだけではない気がした。
愚かな俺。弱い俺。ダメな俺。しょうもない俺。涙なんて出ない。なぜか出ない。
眉村は俺に対する負い目があったのか、これといったお咎めを与えなかった。ただここは寛容に許してあげましょう、と振る舞う辺り如才ない。
いかにも懐の深い立ち振る舞いを見せた眉村。おかげで大事にこそならなかったが、俺への警戒度はさらに上昇するだろう。職員室には何人か生徒がいたから、即座に広まるに違いない。
「何落ち込んでんの?」
誰もいない体育館の裏。一人でレンガの上に座っていると後ろから声が聞こえた。
興味なかった。無視する。
「うわぁ、無反応はやめてよ。結構傷つくんだよ、無視って」
純白のリボン。端麗な顔。
俺のすぐ横に店員が腰かけた。手には妙な缶を二つ持っている。
店員は憔悴気味の俺に微笑みかけ、「こってり絞られたね。お疲れさま」と缶を差し出した。受け取る。抹茶コーラ。何これ。
「……もしかして抹茶コーラ知らないの? あーあ、人生の三割損してる。メチャクチャおいしいから飲んでみて」
「えっと……」
「梅雨利。梅雨利東子」
「梅雨利。これ、返す」といって抹茶コーラを返却。少し飲んでみたが圧倒的に舌に合わなかった。抹茶とコーラ。相入れるはずがない。
「えー、もったいないなぁ。分かった。いいよ、もう」と梅雨利はふてくされたように唇を尖らせた。「こうなったら私が飲むから。やけ酒だよ、やけ酒」
梅雨利は豪快にラッパ飲みした。すでに一本目の抹茶コーラは飲み終わっているらしい。信じられなかった。
空は曇っていた。それはまるで荒んだ俺の心を代弁しているようだった。
「なんで殴ったの?」
その問いは哲学的な疑問すら含んでいるようで、妙に神秘的だった。
なぜ人を殴るのか。
「なんでだろうな……。俺にもよく分からない」
「悪口をいわれたとか、暴力を振るわれたとか、そんなことなかったの?」
話すかどうか迷う。悩みに悩みぬいた末、話すことにした。眉村との会話。成績。佩刀。暴力。犯罪。訥々と話す。
俺は弱くなっているのかもしれない。
話してる最中、そんなことを思った。佩刀や練絹玉梓、梅雨利東子。彼女らは穏やかで優しい。とても同じ人類とは思えないくらい人間が出来ていた。俺のことを第一印象や固定概念で判断しなかった。純粋に一人の人間として扱ってくれたことが嬉しかった。常に遠慮のない白眼に蹂躙されてきた俺は、彼女たちといる時、どうしていいのか分からないくらいの幸福を感じた。存在が認められるということは嬉しいことだ。
でなければ、こんなこと話さない。自分の心情を吐露しない。
篝火白夜はここまで弱くなっていたのか。