第五話 〃 5
瞳が光を捉える。
呻き声を上げながら目を覚ます。朝だった。
生活感のない閑居。男の一人暮らし、というわりに結構整っているほうだと自分では思っている。もっとも、整然としているわけでもなく、つとに殺風景なだけだが。
関勁とした日光。窓からは亭々と大木が連なっているのが見える。無為自然な大路がどこまでも広がっていた。無数に枝分かれする間道が雑然と田畑を区分けしていた。
そこら辺にほっといておいた携帯を掴み、ディスプレイを見る。七時。
あと数分寝れる。いつもなら余裕をこいて二度寝し、その後遅刻、あるいは無断欠席するところだが、今日に限ってそういう気にはなれなかった。
佩刀歪に当てられたのだろうか。あの女はきっちりしている。常に自分を律していた。その清廉な様子に感化されたのか。
ポロシャツの袖に腕を通し、ボタンを留める。かける相手もいない携帯電話をバックに入れる。授業中に機能しない筆記用具。書かれた形跡のないノートも同じく。
普段なら蒲団に包まっている時間帯に学生らしいことをするのは久しぶりだった。悪の道からの再起。不良の汚名返上。バカバカしい。
腹が減ったので冷蔵庫を開ける。何もなかった。諦めることにする。
することがなくなったので窓の縁に腰掛けた。窓ガラスに頬をつけ、ぼんやりと時間を過ごす。暖色な色合いを見せる風景が視神経に伝達された。
こういう時に趣味があればいい。趣味があれば気が紛れる。寸暇を潰せる。けど俺には趣味がない。
本も読まないし、音楽も聴かない。一応テレビはあるものの、これといってテレビ鑑賞に関心はない。本当に何もない。無駄な呼吸ばかりしている。
日輪に染まる部屋。どこかくすんでいて、写真ブレしている感があった。
そうして時間を持て余しているとインターホンが鳴った。
眉をひそめて玄関に向かう。
「いい天気でございますね」
扉を開けると、佩刀歪がいた。純真な笑みは眩しく綺麗だった。
空を見上げると、確かにいい天気だった。「空が青いな」
「そうですね。見ていると清々しい気分になります」
感嘆の息を漏らす。目を細めると人形のように見える。ショーウインドウ越しのマネキンみたいに精緻だった。
「緊急の用事か何かか」
「いえ、そんな大層なことではありません」
「おまえが朝に来るなんて初めてだぞ」
佩刀は微笑した。「そうでございますね。誠に勝手ながら、白夜様のお迎えに上がった次第なのです」
この女ならありえる、と思った。放課後に見送りと称してついてくることはあったが、朝から迎えに来たことはなかった。
この女は送り迎え、その両方をするつもりなのだ。
下手をしたら遠回りになるのではないだろうか、と心配。「まだ七時だ。早すぎやしないか」
「ダ、ダメでしょうか……」
「ダメ、じゃない。立ったままじゃきついだろ。よかったら入れよ」
視線を自分の部屋に向けた。登校時間まで時間はたっぷりある。その時までずっと玄関で立たせておくのは忍びなかった。
佩刀は相好を崩した。体をそわそわさせて、上目遣いに俺を見る。「いいのですか? その、お邪魔になって……」
「不法侵入した奴がそういうか」というと、佩刀は申し訳なさそうに低頭した。
蒸し返すつもりはなかったが、気にしているらしかった。
佩刀は恐れ多いことをしました、と何回も謝り、青菜に塩をかけたように小さくなった。
……オーバーな奴だ。
そのことについて咎めるつもりはない。自宅に盗まれて困るものはない。たとえ部屋を荒らされようが、メチャクチャにされようが、どうでもいい。元に戻せばいいのだから。多分、時間はかからない。何もないから。
「一度でいいから入ってみたかったのです……」
「ん、何かいったか?」
「いっ、いえ、何もいっていません!」
体を前のめりにして必死に訂正する。佩刀はぶんぶんと首を振った。
釈然としなかったが、とりあえず案内することにする。
興味深そうに室内を見渡す佩刀。白っぽい壁。茶色のフローリング。時折それに触れてはにんまりと笑うのだった。
不思議に思いながらも先ほどのように窓の縁に尻を乗せる。佩刀は卓袱台の脇に鞄を置き、近くに腰を下ろした。屹然と胸を張って端座をつく。この女はどこにいても見栄えする。汚い部屋の中でもそこだけ違う空間。場所時間問わず優雅でいられる女だった。
「悪いけど、お茶も何も出せない。あいにく切らしてるんだ」
「構いません。私のことなど気にせずご自分の時間をお過ごしください」
そうか、と小さく頷く。足を伸ばして固定された風景を見た。
佩刀は正座のまま動かなかった。仙人のように瞑想する。それでも気配は常時俺に向いているのが分かる。気になるレベルではない。
相互不可侵。
こういっては変だが、気兼ねなく放心していられる。何もしないことが好きな俺にはちょうどよかった。
俺の意志を汲んだのか、これといって口を開けるそぶりを見せなかった。俺が黙っていると佩刀も黙る。俺が喋るとなんらかの言葉が返ってくる。気のない応答や、つまらない返答を俺がしても、それが変わることはない。力のない俺の言葉が何十倍もの質量を持つ言葉に変換されて帰ってくる。
話題の主意を違えることはいわない。かといって出来過ぎたこともいわない。主導権は俺のままで話を進行してくれる。篝火白夜の意志が最優先される会話。佩刀の意向は二の次に回される。本人はそれでいいらしく、むしろそうであることすら望んでいる。
佩刀との距離感は心地よかった。佩刀との会話で思慮の深さに感心することはあっても、基本的に何も起こらない。それはいいことだ。すごく。
「歪」
「なんでございましょうか」
「何か話してくれないか。何でもいい。おまえが面白いって思ったことを」
「承知しました。そうですね……。では、とある説話の話をいたしましょう」
目で俺の気色を窺う。その話でいいですね、という了解を得る合図。軽く頷くと嬉しそうに顔を綻ばせた。
耳に快然たる声韻で語りかける佩刀。佩刀の紡ぐ物語が頭の中に挿入され、場面場面の光景が目に浮かんだ。
佩刀歪は話しも得手だった。馥郁とした声は眠気すら誘う。
苦手なものがないのか。
佩刀の話を聞いてる時に、ふと思った。
○○○
「――そろそろお時間です。ここら辺で打ち切ってもよろしいでしょうか」
佩刀は腕時計から視線を上げた。
どうやら時間らしい。
話に聴き惚れていたせいか、時間のことは気にならなかった。それほど佩刀の口上が巧みだったのだろう。
「いかがいたしますか。ご所望でしたら続けますが」
「学校に遅れるぞ」
「大したことではございません。白夜様がよろしいのでしたらもうしばらく話させていただきますが」
出来るならばそうしたかった。だがそれでは佩刀に迷惑がかかる。それは嫌だった。
ここで断れば佩刀は傷つくだろうな、と思った。佩刀は純粋な好意で申し出てくれる。それをむげにするのは感に堪えないものがあった。
「いや、続きは次の機会ってことにする。よくいうだろ。楽しみは後に取っておけって」
佩刀は目を伏せた。前髪からは紅潮した頬が見えた。
「そうでございますか。そのお言葉、衷心より拝受させていただきます。ぜひ楽しみにいらしてください」
うまく断れただろうか。
コミュニケーション能力の落ちた俺にはこれが精一杯だった。
「それでは白夜様」
「ああ」
その一言で立ち上がった。手元にある鞄を掴み肩にかける。佩刀も華美とした動きで鞄を手に取った。
佩刀がやや先行して、靴を履く。手慣れたしぐさで扉を開けた。ドアノブを掴み、人一人入れるくらいのスペースを確保する。その体勢のまま微動だにしない。
「……出ないのか?」
「まずは白夜様から」
ややあって得心する。つまり俺から先に出ろというわけか。
大時代的な気もするが、これまでの佩刀を鑑みれば十分ありえる行動。
佩刀を横目に扉を抜ける。完全に通過した後、佩刀は後ろ手で扉を閉め、ゆっくりと下がった。俺はポケットから家の鍵を取り出す。施錠の完了。再びポケットに戻す。
涼風が香る。佩刀の艶美とした髪がさらさらと流れていく。佩刀はあおられた髪を片手で押さえた。切れ長の双眸が細い弧を描く。冷たい瞳が虚空を見つめていた。
やっぱり人形だ、と持った。
佩刀歪は人形のように無機質だった。人間らしさを失った肢体。美しさと凛々しさが先駆した相貌は浮世離れしていた。
「……白夜様?」
怪訝そうに見つめられる。俺は気圧されそうになった。
こんな眼球、見たことがない。あまりに綺麗すぎる。無垢で純粋な目。何かが過剰に余っていて、何かが過剰に足りていない。過不足がありすぎるのだ。
身長はさほど変わらないので、目の位置はほぼ同じ。スマートな体を屈めて、下から覗き見られる。俺の吃語とした様子を心配しているようだった。
なんでもない、と誤魔化す。実際は何でもあるのだから、きっと表情に表れているだろう。
「分かりました。床の作りが脆いようですから、足元にお気をつけください」
しかし佩刀は特に詮索しなかった。
見逃すことにしたのだ。俺の思考を瞬時に忖度、その意向に従った。そういうことなのだろう。
「決して白夜様のお住まいをけなしているわけではありませんよ。客観的観測です。お気を悪くなさらないでください」
「あのなあ……、それくらいでふてくされるかよ。それに俺もそう思ってるしな」
「補強工事をお勧めします。ただ失礼ながらも申し上げるならば、白夜様の家計は貧困しております。持ち合わせがないなら私が工面いたしますが」
「遠慮する。女を食い物にする男は嫌われるって、誰かがいってた」
「卓見ですね。地球上の男性に聞かせてあげたい名言です」
「それと頭の悪い男も嫌われるらしい」
「頭脳が鋭敏であることに越したことはありません。それに関しては白夜様は完璧ですね。理想の男性像を体現したお方です」
凝然と目を合わす。佩刀の目は揺れておらず、波紋一つ広がらない。これまでの様子から考えてみても、心からそう思っているらしい。
「……なんでそう思う?」
前々から思っていたことを俎上に上げる。なぜそうも高く見積もるのか。過大評価も甚だしい。篝火白夜はそんな高尚な人間ではない。
佩刀歪は相変わらず無表情だった。表情がないのではなく出さないだけ。佩刀はあまり感情というものを表に表さない。
佩刀歪は自分をコントロールできる人間だ。自分という存在を完全に把握している。ただ俺が笑えといえば笑うだろうし、泣けといえば多分泣く。佩刀は確固たる自分を持っていながら、行動の指揮系統を俺に委託しているのだ。
「それはあなた様が篝火白夜様であるからです」
「……は?」
「私が佩刀歪で、あなた様が篝火白夜様。それだけで事足りるではありませんか。これ以上の理由が有史以来存在するとは思えません」
ムチャクチャな理論。正直意味が分からない。
存在自体が何かの理由にはならない。理由には百パーセント根拠がいる。佩刀の場合、その根拠として篝火白夜の存在を定義しているのだ。
「私は白夜様の許嫁です。その体は白夜様に傅くためにあり、その心は白夜様に捧げるためにあり、その全ては白夜様に帰結します」
「そんなことで人生を棒に振るのか」
「そんなことはありません。白夜様は立派で気高いお方なのです。白夜様自身が自覚なさってないだけです」
いつの間にか校門の近くにまで来ていた。目の前には公立雨稜高校と書かれた表札。
俺は口を噤んだ。同様に話すことをやめる佩刀。
佩刀歪は篝火白差の思うとおりに動く。篝火白夜が口を閉ざしたら、佩刀歪も同じ行動をとる。
喋りたくないと思えば、佩刀はそれを推察してくれる。苦慮も憂慮もない、安息。偽りの安息。
「……すみません。出しゃばったまねを」
「謝るな。意味が分からない。おまえが謝る意味が分からない」
「白夜様……」
「立派だとか、気高いだとか。そんなのどうでもいいんだ。自分の価値くらい自分で決める」
ともなればきっと、俺の価値は飴玉一個分にも及ばない。
誇りなんてない。プライドなんて一寸足りともない。
誇りで生きられる人間はほとんどいない。だけど誇りのない人生は人生とはいわない。
だから俺の人生は飴玉一個分の価値すらない。