第四話 〃 4
六時間目の古典が終わると、緊張していた雰囲気が切れたようだった。
古典の先生が退出すると同時に、みなの表情に笑顔が浮かぶ。五十分間の拘束から解き放たれた開放感。何をしても大丈夫。そういった雰囲気が辺りに充満した。
俺はその様子を杳として見ていた。ガラス越しの世界を眺めているようで現実味に欠けた。
ホームルームは相も変わらず不変だった。変わり映えのしない光景。変わり映えのしない自分。
放課後。
俺は頬杖をついたままだった。それは誰かを待っているようだった。
誰を待っているのか。
気がつけば習慣になっていたのかもしれない。誰かを待つという行為。では、その誰かとは誰なのだろうか。
机の上で頬杖をし続ける俺。傍から見れば滑稽な絵図だろう。いきがった男がきもしない女を待ち続けている。
佩刀歪は生徒会の招集を受けている。
そうだろう、と思うも、体が動かなかった。倦怠感。疲労感。そういったものが体中を巡った。
ふっと自嘲して、机から立ち上がる。
その時後ろから気配がした。
「ちょっといいかな?」
女の声。振り向くと声質通り女が立っていた。
白亜の肌。髪は肩まであって、目が合うと天衣無縫に微笑んだ。
訝しげに眉をひそめる。その様子に気づいたらしい女は、一歩俺に近づいた。両手を上げる。敵意はありません。そういったジェスチャー。
「ごめんごめん、いきなり話しかけて驚いた?」と舌を出す女。片目をつぶって、妖精のような笑みを浮かべた。
「何か用か」
「まあね。ねえ、あなた」と一旦区切り、「私と友達にならない?」といった。
「断る」
俺はさっさと帰ろうとした。すると女は俺の服の裾を掴んだ。「待ってよ。もう、イジワル」
「……離せよ」
「……話せよ? なるほど、あなたは私と話したいのね。分かったわ、近くにいい喫茶店があるからそこで話しましょう」
「って、おい」
静止の声を振り切って、名の知らぬ女は強引に俺を連れていった。
言葉の解釈を誤った女は上機嫌そうだった。テンポの速い鼻歌を歌い、スキップ寸前といった具合。やけに気分よさげだ。
女に連行される金髪。周囲の学生たちは奇怪な目を向けた。
廊下を猛スピードで駆けていく女。道連れを食らった俺は立ち止まることが出来ないでいた。そのまま下駄箱まで一直線。有無を言わさぬ口調で、靴を履き替えるよう命令。理不尽なものを感じながらも女のいうとおりにする。
「結構飛ばすけど、いい?」
反応する間もなく、俺の悲鳴は尻すぼみになって消えていった。
○○○
強制連行された先にはこぎれいな喫茶店があった。取り囲むようにいくつものプランターが配置されており、チューリップやパンジーなどの花が植えられていた。その隣には自転車がとめてあった。
「行きましょう」
ずいと腕を引っ張られる。思いのほか女の膂力は強く、抗うことは難しかった。あれだけ走ったのに汗一つかいていない。涼しい顔でばてた俺を見る。体力に自信はあるが、この女には敵わない。無尽蔵のエネルギー。この女は超人か。
肩で息を整えながら女に連行される。女がドアを開けた。居然とした鈴の音。どこか気合いの抜ける音だった。
店内は静かだった。それもそのはずで、客が一人もいなかった。ただ店員らしい女が一人いるだけだった。赤いエプロンを着用している。
女は眠たそうに机に突っ伏し、暇を持て余しているようだった。
ほどよい内装。テレビの音だけが静寂を慰める。
俺たちに気づいたらしい店員は、ゆっくりと頭を上げた。まず視軸が俺を連れてきた女を捉えた。次いで俺に標準が定まる。店員は不思議そうに瞳を凝らした。
「……玉梓」
「お店の番ご苦労さま、東子」
横にいる女は店員に向かっていった。どうやら店員の名前は東子というらしい。
東子なる店員はおどけるように肩をすくめた。純白のリボンで結えられた髪が揺れる。頬には妙な痣があった。きっと突っ伏している時についたものだろう。なんか間抜けだ。
「その様子だと走ってきたの」と店員は問うた。呼吸困難になった俺を憐察したのだろう。店員は気遣うようなウインクを投げかけた。
「うん。彼を連れて、無理やり」
はははと笑って、店員は俺と女をテーブルに促した。店員が座っているテーブルへと向かう。これ幸いとソファーに身をゆだねる俺。対して、玉梓と呼ばれた女は俺の横に座った。優雅に足を畳み貴婦人のように腰を下ろす。なんだか腹立たしい。どうして疲れない。
「それで、彼が例の?」
「そういうこと」
女は典雅に笑った。深窓のご令嬢のよう。
俺の存在を無視して開始される会話。それもその渦中には俺がいるらしい。俺はむっとした。「おまえらの目的はなんだ」
「そういえば自己紹介がまだだったわね」と思いだしたようにいう。「私は練絹玉梓。あなたと同じ二組の人間。目の前にいる子は梅雨利東子。所属は2-1組よ」
そんなことはどうでもよかった。それは話題のすり替えだ。それでは女の素性は知れても、俺を連れてきた理由には繋がらない。
例えば殺人事件があったと仮定する。その原因がナイフだと知ってもどうにもならない。ナイフという固有名詞を知ったところで根本的な問題解決には至らない。重要なのは、なぜ凶器にナイフが使用されたのか。どうしてその人が殺されたのか、だ。
「練絹」
「どうしたの?」
「俺は帰る」
「無理」
その二文字で叩き潰される。武芸者なのかあっさりと手を捻られ、抵抗する意志を奪われる。柔道の技のようなものを受けた俺は、ソファーの上に転がった。
「あなたがいないと意味がないのよ」
女はしとやかに笑った。しかし女の力量を知った今、それは違う意味合いを帯びる。逃げてはいけません。逃げたら武力に訴えます、と言外で伝えているようだった。
「なんなんだよ、おまえ……」
「あなたに害を与えるつもりはないわ。あなたと友達になりたいだけなのよ」
練絹の真意は分からない。もしかしてこの手の詐欺が流行っているのか。あなた様の許嫁です。あなたと友達になりたいの。
俺は無気力に練絹を睨んだ。動じることなく微笑を返される。なんだか調子が狂う。
「玉梓は君に執心でさ、まあ簡単にいえば君に興味があるんだって」
「東子のいうとおり。あなたを一目見たときから、その何かしら。来るものがあったのよ」
胸を撃ち抜かれたしぐさをする。演技じみていたが目は鋭かった。
性質の悪い冗談だ。
「なっ、あなた、鼻で笑ったわね! 私のことバカにしてるでしょ」
「バカにしてない」と弁解した。「ただアホだとは思った」
「何それ。意味変わらないじゃない!」
「それはバカでアホってことか」
「違うわよ、失礼ね。だから友達が出来ないのよ」
だろうな、と鼻で笑うと、鼻で笑うな、といわれて殴られた。頬骨を的確に掴んだ拳。そこら辺の不良のパンチよりも強力だった。
その様子をずっと見ていた店員はくすくすと忍び笑いを漏らした。白のリボンが蝶のようにパタパタと動いていた。富士額とした面立ち。瞳は深淵のように深い。
俺は女がまったく臆しないことが驚きだった。それは梅雨利という女も同様で、俺を軽くあしらう。
俺と顔を合わせた人間が取る選択肢は多くない。一目散に逃げるか喧嘩を売るか。その二つしかなかった。この二人のように俺と恐れずに接してきたのは佩刀歪ぐらい。それは新鮮な体験だった。
戸惑っていたのかもしれない。夢だったのかもしれない。こうやって構えずに話し合える人が欲しかったのだろうか。よく分からない。最近こんなことばかりだ。
「ねえ、篝火君。私、何者だと思う?」
特に考えることなく答えた。「高校生」
すると店員は、「なぜそう思う」といった。
「まず店員にしては若すぎる。次いで厨房裏に黒塗りの鞄が少しだけ見えた。雨稜高校の鞄だ」といって、店員のエプロンを指差す。「何より制服の上にエプロンを着ているのが決定的だ」
「ご名答。見かけによらず頭は切れるみたいだね」
「これくらい誰にでも分かる」
店員は間を開けた。どうやらこれからが本題らしい。
「なら質問。なんで同じ学校にいる私が、走ってきた君たちよりも早くこれたのはなぜだと思う?」
「簡単な話だ。おまえは自転車を使って先回りしたんだ。店先に止めてあった自転車、おまえのだろ。この様子だと一人も客はいないようだし、自転車には雨稜高校のシールが貼ってあった」
俺は店先に駐輪してある自転車を示した。メタリックな銀色。市井によく出回るモデルだった。
「さすが私の見込んだ人だわ。洞察力は合格ね」と練絹は満足そうに言った。
「うーん、私もまあ及第点かな。こんなことも分からなかったら無言で逆十字固めをかますとこだけど」
「お、恐ろしいこというな……」
「私、頭の悪い人嫌いなんだよね。それと女を食べ物にする男。その点君は安心かな。女に関心なさそうだし」といった後、考え直すそぶりを見せる。店員は須臾の間黙考した。「いや、そうでもないか。話変わるけど、君って佩刀さんと付き合ってるの?」
「……あー、それ私も気になるわ。あの難攻不落の要塞をどうやって切り崩したのかしら」
こっちが聞きたい。
「知るか、そんなこと」
「なるほど。篝火君は秘密主義ってことなんだ」と店員がニヤニヤ笑う。
何かを勘違いしている目だった。
訂正するのも面倒なので黙っておく。
「白夜様だもんねー、どうやってあの堅物を手懐けたのか……。イケナイ薬でも使ったの?」
「使ってない」
「まあ関係ないか。なんだか君。面白そうだし」と梅雨利東子は猫のように笑った。
点けっ放しのテレビからは、例の新種に関する報道がなされていた。
ついに連続切断魔――『鬼』による四件目の鬼隠しが行われました。
ニュースキャスターの男がすごい形相で唾を飛ばした。『鬼』というのは、神隠しの新種に名づけられた異名だ。
犯人は神ではなく――鬼。そう結論づけたわけだ。
「最近『鬼』の活動が活発化してきたね」とテレビのほうに目を向けた梅雨利がいった。「ていうか、『鬼』なんてつまらないネーミングだね。神隠しならぬ、“鬼隠し”ってわけ? 安易というか単純というか……。篝火君だってそう思うでしょ」
そう促される。別に名前なんてどうだっていい、と思ったが、とりあえず頷いておいた。
「けどまあ、いたいけな赤ん坊を襲うんだから、『鬼』っていわれても無理ないかも」
鬼というのは古今東西、畏怖と恐怖の対象である。メディア媒体からこれらの凶行を鬼の所業と解釈されても首肯に至るものはある。
テレビでは『鬼』について、ためつすがめつとした論争が起こっていた。犯人は自己顕示欲の強い若者であるとか、原因はサブカルチャーなどの虚構に影響され過ぎたからであるとか、そういった憶測が飛び交っていた。中には警察機関の腐敗を嘆く意見まで登場している。
「……鬼かあ」と練絹は憂いのこもったため息をついた。
「もしかして次は自分かも、なんて心配してる?」と梅雨利が質問を投げかけた。「大丈夫だって。標的は相も変わらず赤ちゃんばっかりだから。そういう意味では高校生は安心だね」
「それ、不謹慎だぞ」
そう注意すると、「上等よ。他人の不幸は蜜の味、ってよくいうじゃない」と遺族を逆なでするような発言が返ってきた。「禍福はあざなえる縄のごとし、ってことわざ知ってる? 単に幸福が来る前に巨大な不幸が襲って来たってことよ。運が悪かった、としかいいようのない」
めちゃくちゃな理論、だとは思うが、そうなのかもしれない。幸福と不幸は波のように周期していて、偶々『鬼』との遭遇という波が襲ってきただけ。それは確率論に近い考えだ。
なら、俺にも幸福はやってくるのだろうか。
愚問だとすぐに気づく。篝火白夜の禍福はあざなえない。別に我が身が不幸だと嘆くつもりはない。そうやって己に憐憫や同情を寄せることはしない。
幸福と不幸は波の関係。ただ俺の場合、一直線なだけだ。上がりもせず、下がりもせず、常に平坦。幸福も不幸もない。今を停滞している。
ある意味、一番幸せな生き方なのかもしれない。これといって悲しみや憂いに直面せず、平和に生きていく。人はそれを退屈というが、別に悪いところなんてない。まあ、良いところもないが。
自分の生き方に後悔はしていない。自分の生き方だけは否定しない。
それだけは、しない。
「いっとくけどあなたにその、特別な気はないわ! た、ただ面白そうな人だと思って、声をかけただけよ! かか、勘違いしないでよねっ!」
練絹はいいわけするように言った。顔は赤い。
「ああ」と気のない返事をする。
梅雨利はそれを楽しそうに眺めているだけだった。「そうだ、オレンジジュースいる?」
「いるっ!」と練絹。
「いらない」と俺。
分かったといって厨房に消えていく。その顔には策士のような笑みが張りついていた。
梅雨利がいなくなった途端、練絹は顔を俯かせた。
「本当に……、佩刀さんと付き合ってないんだよね?」
練絹は物憂いとした声で尋ねた。前髪で顔が隠れて表情は分からない。
「そんなわけない。俺とあいつじゃ釣り合わない」
「……そう、なんだ!」
練絹は妙に嬉しそうだった。なんか失礼だぞ、それ。
ヒーリングファンがぐるぐる回る。テレビは誰となく情報を垂れ流す。
深々とした雰囲気。蒙昧な頭脳で練絹の言動の意味を探ろうとしたが、やめた。いちいち言葉や態度に意味を求めるなんてバカみたいだ。
どうせ飽きる。俺を深く知れば失望する。この程度の人間だったのか、と認識を改めさせられる。俺の元から去っていく。
必然だ。覆しがたい。
結局何も得られない。変わらない。
飽きられるなら早いほうがいい、と俺は思った。