第三十七話 〃 20
斗米憐乃の死は、転寝棗の死と同様に、あっという間に知れ渡った。
やはり前回と同じように休校の措置が取られ、生徒たちは一週間の自宅謹慎を命じられた。それは生徒は勿論、教員のほうにも出ているらしかった。学園のほうでは警察による調査がとり行われているのだとか。
新聞のほうでも、それはおおいに取り立たされた。天体観測部の集団自殺や、斗米憐乃の投身についての記事が、第一面を飾っている。これといったニュースがないからだろうか。一牛鳴地の田舎である日和見村は、慢性的に話題不足なのだ。だからか、新聞はおろかテレビやラジオにも、こればかりが放送されている。あきるくらい、放送されている。
斗米憐乃の自殺から三日がたった。
現段階において、調査は難航しているらしい。他者の介在したような跡が見れらなかったからだろう。警察は斗米憐乃の墜死を自殺と断定したことが電波の波に乗った。それも当然で、斗米憐乃は間違いなく自らの意志で墜死したのだ。
運よく警察の調査から逃れられたのか、俺の名が捜査線上に上がることはなかった(と思う)。また、刑事が俺の自宅を訪問することもなかった。それが喜ぶべきことなのか、嘆くべきことなのかは分からない。どちらにしろ、斗米憐乃を見殺しにしたことに変わりはない。
直接的に関わっていないとはいえ、嫌疑くらいかけられるかもしれない。ましてや、俺の素性や素行のこともある。一度怪しまれれば、取り返しのつかない場合に発展する危険性もあった。
篝火白夜が斗米憐乃の投身自殺に居合わせたのは、単なる偶然なのか、否か。
未だに考える。
屋上に見える狐火に端を発し、ただならぬ凶事を予感して屋上に向かった。そこには悠々と佇む斗米憐乃がいて。
斗米憐乃が死んだのも、俺のメチャクチャな憶測の的中具合に自暴自棄になったのかもしれない。
あるいは。
元から死ぬ気だったのか。本人もそういっていたような気もするし。俺が屋上に来たのだって、斗米憐乃にとってはどうでもいい些事なのだろう。篝火白夜の存在の有無にかかわらず、斗米憐乃は屋上から飛び降りていたのかもしれない。それ以前に、斗米憐乃が本当に裏で暗躍しているのかすらも分からない。天体観測部の集団自殺も、それを引き起こした原因も、いかんともしがたい。斗米憐乃自身は、それを行ったのは自分だと供述していた。けれど、それが真実であるかどうかも、やっぱり不明のまま。
何も解決していない。
篝火白夜の形容しがたい苦しみも、具体性のない推理も、全て雲散霧消してしまった。斗米憐乃は最後の最後まで真相を墓の中まで持っていったのだった。
気分が悪い。
そう思う。
午後一時に起床した俺の体は不調を訴えていた。
もう少しで五月は終わる。死と狂気に埋もれた一カ月はもうすぐ次の月に移行する。
太陽はすでに昇っていた。窓からは明るい日光が差し込んでくる。
その無駄に晴れやかな日差しに、一層憂鬱になって、ますます力が出なくなる。俺は蒲団に寝転んだ。
腕を首の下に組んで、天井を見つめる。
人は。
理由も分からずに何かを受け取って、理由も分からずにその何かのために死ぬ。人知の及ばぬ、ある何かのために人は死力を尽くして、その結果――。
神のような不可思議なものに運命やら人生やらを預けて、人は、錯覚したまま生きるのだ。
人は誰しも、今を錯覚している。
それによって、たくさんの犠牲者が生まれた。斗米憐乃自身や、天体観測部の部員。そして、転寝棗もまた、その一人だった。
先ほどからメールが数十件、受信されている。きっと歪からだと思う。登録件数ゼロ件の俺にメールをくれる奴は、そうそういない。多分、一向にメールを返信しない俺を心配しているのだ。
一日中寝ていたかった。
寝るという行為は、何も考える必要がないからいい。一己の苦しみや、悩み、それらの煩悶から一時的に離脱できる。考えの放棄できる。それは幸せなことだと、常日頃から思っている。
幸せとは何なのかを知らずに。
○○○
転寝家の邸宅は壮重な武家造りだった。脇には松柏が植樹されている。枝梢のざわめく音が、物寂しい。
気後れしながらも、門を叩く。数秒すると、和服を着た侍女が顔を出した。不審な目つきで、俺を見定めている。開門したら、粛然とした雰囲気にふさわしくない男が立っているのだから、無理もない。
生徒手帳で自分の身分を証明し、転寝鈴蘭に会わせてくれるように請願した。まばゆい金髪と釣り目に気押されたのか、侍女は始終腰が砕けた様子だった。
分かりました、といって、勢いよく閉門。バタンという重厚な音だけが、山間に木霊した。
染め直したのがいけなかったのか、と髪の一房を掴む。一度黒に染めた髪は、再び金髪に戻っていた。
これといった理由はない。転寝棗の葬式の折に、黒に染め直したのだが、今の髪の毛は金色。自分でもなぜ元の木阿弥になったのかは理由不明瞭だ。
多分周りに、改心しただとか、更生しただとか思われたくないからだろう。理屈もへったくれもない情動だが、これはこれで俺らしいと思う。いまさら髪の色を変えたくらいでどうなるとも思わないし。
暫時すると、先ほどの侍女が恐る恐るといった様相で、門から顔を出した。「かかかか、篝火、びゃ、白夜様、です、ね?」
どうして俺の名前を知っているのだろうか、と思いながらも、「ん? ああ、そうだけど」と返答して、先刻のやり取りを思い出す。思い起こしてみれば、この人に生徒手帳を見せたような。
「すす、鈴蘭様のご面会をご希望、でっ、でしたよね?」と泣きそうな顔で問いかけられる。
頷くと、「わ、わたくしがご案内いたしますので、ご同行のほど、よよ、よろしくお願いいたします」とバカ丁寧な言葉が返ってきた。「そそそ、その、門内まで、お入りください」
こうして転寝家の敷地に入る運びとなった。
牡丹の留袖を着た侍女は、ぎこちなく先行した。それでも静々とした足運びは洗練された美を感じる。御三家の一角ということもあり、奉公人もまた一流のようだった。
なんだか罪悪感を感じながらも、数寄屋風の屋敷内を歩く。途中、着物姿の腰元とすれ違う。すれ違った後、女たちが奇異なものを見るような目をしているのが分かった。確認したわけではないが、なんとなく分かる。
「鈴蘭様は今、病に臥しておられます。よほど棗様のご逝去が堪えたのでしょう。最近は病床に就き、絹のようにお疲れです」と侍女は目を伏せる。
「そんなにひどい、ひどいのですか」といい改める。よくよく考えてみれば、この侍女は俺より年上なのだ。
侍女は主人の体調を慮るあまり、俺への恐怖が薄らいでいったらしかった。俺のことなど毛頭気にせず、眉をひそめ、憂いている。
「鈴蘭様の心情はいわずもがな。母上様は家計の切り盛りにお忙しい身ですし、父上様も蒼氓の公僕として面目躍如のご活躍をなさっております。だからでしょうか。父上様はほとんどお屋敷に在宅いたしません。ですから、鈴蘭様はご家族との親交がいささか乏しかったのです。実質、鈴蘭様の親代わりは姉の棗様でした。その棗様がお隠れになった今、鈴蘭様の心身は極めて不安定なのです。一刻も早く回復なさるとよいのですが……」
侍女が心から転寝鈴蘭の身を案じているようだった。いきなり転寝鈴蘭の容態について語りだしたのも、それに起因しているようである。
同時に侍女は、俺のような非行少年に謁見が許されたことに狐疑を抱いているようだった。
「こちらでございます」
廊下をしばらく歩くと、櫛形の窓があつらえられた一室についた。どうやらここがあいつの私室らしい。
「襖の向こうに鈴蘭様がいらっしゃいます。ご用がございましたら、何なりとわたくしどもに声をおかけください」
やはり慇懃な言葉遣いのまま、一礼をし、この場を去った。相手が不良然とした怪漢であっても、客ならばきちんと対応してくれるらしい。
旧弊的な因習が根付いている日和見村では、御三家は敷居が高いとされ、容易に立ち入ることすらできない。それは平成の世であっても連綿と受け継がれている。この村ではいまだにそういった時代錯誤な封建制度が村民に深く浸透しているのだ。
そういう視点から見れば、なおのこと不可解だった。
転寝鈴蘭と会ったのは数回程度で、その割にこの応接はあまりに寛大に思える。
杞憂だと一蹴して、襖に手をかける。「入るぞ」
部屋の中は予想に反して暗かった。辺りには衾障子や明障子の建具が設けられている。割と小さい間取りだった。
「……転寝?」
背後から西日が漏れてくる。時刻は午後六時を回っているところだった。
「……篝火さん?」と声が聞こえる。それは蚊の鳴くようなか細い声だった。
敷き詰められた畳。その中央には蒲団が敷いてある。
そこに。
上体を起こした状態で。
転寝鈴蘭が。
いた。
距離はいくばくもない。光の量が少なかったせいか、視認できなかったらしい。
転寝鈴蘭は目を細めて俺の顔を見た。眼鏡越しにすがめた瞳が見える。
目が会うと、困ったような嬉しいような顔をして、座るよう促した。枕元に座る。雰囲気に合わせて正座を取るべきかと思ったが、楽な姿勢で結構ですといわれたので、胡坐をかいた。
「いきなりどうしたんですか。わざわざ私の家まで来て」と転寝棗は問うた。それはごく当たり前の質問だった。
「心配だったんだ」と視線を下げて、「心配だったんだ」と二度、いう。
「……そうですか。その、ありがとうございます。ご心配なさってくれて」
「大丈夫なのか。疲れてるみたいだが」
「精神的なものですから、大丈夫なんじゃないかと楽観視しています。肉体的な疲労はさほどないですし」
「そうか。にしても、おまえ。すごいところに住んでるんだな。江戸時代にタイムスリップか」
「御三家の家は一様にこんな感じですよ。表御三家の佩刀家も、名伽家もそうですし、裏御三家も大体一緒です」
転寝鈴蘭は静かに一息吐いた。長い睫毛が双眸を彩る。
「奇妙な体制を取る村だよな、ここは」
それに色々と頭がぶっ飛んだ輩も、ザックザック発掘されるしな。
そういう俺も、その中の一人なのかもしれないけど。
「そういえば篝火さん。外の出身でしたっけ」と確認を取る。「どういう風に見えますか? 外から見た私たちと、この村は?」
「……ここに越して来たのは中一の頃だからな。あんまり記憶にないし、そもそも荒れてたからどうにも、って感じだよ」
「あっ、その……ごめんなさい」と縮こまるので、どうしていいのか分からなくなり、とりあえず曖昧な表情を浮かべる。
静寂というより、無音といった風で、時がうつろう。
「安静にしてろよ。心配してたぞ、ここの人たち」といって、立ち上がる。ちょっと転寝鈴蘭の不調が気がかりだったのだが、本人の顔を見て、少しだけ安心した。意外に元気そうだ。
「篝火さん!」
転寝鈴蘭が急に声を大きくしたので、少し驚いた。「ん? 何?」
「ありがとうございます。嬉しかったです。こうやって、身内じゃない人に心配されて、お家に来てもらって……。私、友達いないから。何も取り柄がないから。他人に心配されると、すごく嬉しくなります。こんな自分でも必要とされてるんだって、大切なんだと思われてるんだって、そう思うんです。それで、そ、そのっ!」
触れたら砕けそうな表情。顔を下げて、蒲団の端を掴んでいる。なまじ整った顔立ちだから、巧緻なガラス細工に見えた。
転寝鈴蘭はプルプルと肩を震わせて、ぎゅっと拳を作った。
そして。
「わっ、私と……付き合ってくれませんか……」
言葉は尻すぼみで、表情は弱々しい。
「それはどういう風に解釈したらいいの」
「……うっ、ううぅぅぅ」と一旦頭を上げた転寝鈴蘭は、俺の顔を見たとたんにすごい勢いで頭を下げた。「こ、言葉通りの意味、です。どういう風にとっても構いません」
「転寝鈴蘭として、篝火白夜に交際を申し込みたいと、そういうことか」
「……はっ、はいぃ」
「そうか」
俺は後ろを向いて、襖のほうへと向かった。「それは多分、無理だ」
場の空気が何度が下がったような気がする。
「……ですよね。私なんかじゃ、篝火さんと釣り合わないですよね。それに、外見も中身も佩刀さんに全然及ばないし……。私なんかじゃ、ダメですよね。私みたいな女じゃ、ダメですよね」
「そういう意味じゃなくてだな」といい淀む。
「えっ? それじゃぁ、もしかして……!」
「付き合うも何も、おまえ。転寝鈴蘭じゃないだろ」
床に臥した薄幸の少女は、「その、篝火さん?」と戸惑ったように質問した。
体を少女のほうに向ける。俺は立ったまま、口を開いた。「おまえは転寝鈴蘭として付き合うんだろ。そんなこと、無理に決まってるじゃないか。おまえ、転寝鈴蘭じゃないし」
少女はパチパチと目をまたたかせた。さながら二足歩行で歩く犬を目撃したような顔だった。
「なっ、何をいってるんですか! 私は正真正銘、転寝鈴蘭ですよ! 言いがかりも止してください! 私は真剣で――」
片手で制して、ゆっくりと布団のほうまで近づいた。少女のすぐ横に片膝をつく。そうして少女の腕を軽く掴んだ。
少女は特に抵抗も拒絶もしない。されるがまま。意志は見受けられない。
上腕の裾をまくる。健康的な肌が露出。張りのない瑞々しい皮膚。
「妙だとは思わないか? 本の虫の転寝鈴蘭の肌が、なぜこうも焼けてるんだ? 休日は家にこもるか、図書館に向かうとかいってなかったか? そんな日光を浴びない状況で、こんなに焼けるか?」
少女は瞳孔を拡大させて、頬を病的に蠢かせた。
「おまえは嘘をついている。その身なりも、その体調も、そしてその言葉や俺への想いも、全部、嘘だ。本当のおまえは、俺のことを好きとも何とも思っていない」
「……そんなこと、ない、です。私は本気でっ!」
「嘘っぱちなんだよ、おまえのその感情は! おまえはその想いを篝火白夜という人間に吐露するのを代行しているだけなんだ。そしてあわよくば、俺と付き合おうとしている。自分を偽って、転寝鈴蘭の代わりをしているだけなんだ」
「……代わり?」
「そうだ。おまえは転寝鈴蘭の代わりを演じているだけなんだ」
そうなんだろ。
「転寝棗」