第三十六話 〃 19
「自白、と捉えていいのか、斗米憐乃」とフルネームで呼びかける。「自分がやったと、連中を自殺へと追い込んだのは私だと、そういうことなのか?」
「私じゃないわ。うん、私じゃない」
「……違うのか?」
「あなた――本気で催眠術ごときで人を死に追いやれると思ってるの? それこそ愚かな考えだわ。そんなわけないじゃない。死んだのは正真正銘、天体観測部の部員自身の選択よ」
少女は淫靡に笑って、ふふふと笑む。酷薄に細められた瞳は、黒い塊を映し出している。
「もっとも、そういう風に私が仕込んだんだけど」
「意味が分からないな。掌を返すようだが、人はそう簡単には死ねない」
「死ぬるのよ、これが」と歪と同じようなことをいう。人は意外に、ことのほかあっさりと、死を選ぶと、少女はいう。「彼ら天体観測部の部員にはそういう素質があったのよ。そもそも天体観測部を発足したのは、私なのよ。死を身近で見たいから、自ら死地に赴く姿が見たかったから――自殺願望を持っていた生徒を勧誘して、天体観測部を作り上げた。天体観測部の裏の顔は、自殺志願者の集まりだったのよ。それは周囲はおろか、本人でさえも気付き得ない、心の叫び。死にたい、死にたいという悲鳴を、彼らは上げていたわ。こんなつまらない世界はごめんだと、こんな社会なんて生きるだけ無駄だと、神様なんていないんだと、彼らは深層心理でそう世界を解釈していたわ」
だから。
少女は。
「だから、私が解放してあげたのよ。苦痛。懊悩。煩悶。困難。その全てから、弱い自分から解き放ってあげたのよ。――我流の幼稚な催眠術を使って。こう見えて私、小学校の頃から独学で催眠術を学んでいたのよ。人は人を支配できるのか。人は自らの意志で死ねるのか。それを達成するために有効な手段はなんなのか。幼い私の興味関心はもっぱらそれだったわ。今にしてみれば異質だったでしょうね。みんなが外で遊んでいる頃、私は部屋に閉じこもって怪しげな催眠術書を読んでいたのだから。自分の志を貫き通せない他者に嫌気が差していたのかしら。私の力でそいつらを変容できないかと、変質させることはできないかと、いつもそう思っていた。信念も意志も持たない、流されるだけの人間がどうしようもなく嫌いだったわ。しかもそんな連中が世界の大多数を占めてるなんて、くだらない。それが一般的なことだと罷り通っている。和を持って同じず――なんて、嘘よ、戯言よ、世迷い事よ。そんな人間、一パーセントもいないわ。そもそも確かな自分を持たない奴らに、和なんていう高尚な概念が理解できるはずも、実行できるはずもない」
「それで、あんたは夜になったのか」
「……察しがいいわね。夜という時間はいいわ。だって誰もいないもの。浅い人間も、薄い人間も、軽い人間も、醜い人間も、誰もいない。それは素晴らしいことだわ」
それは単純に夜に外を出歩く人間がいない、というわけでもないのだろう。何か精神的な意味合いがあるのだと思う。
一見壊れてるような奴にも、何かしらのルールが存在する。絶対に曲げられない、不動の制約や桎梏が存在する。そいつが狂って見えるのも、そのルールが一般通念と離反しているだけで、狂っているわけではないし、無軌道というわけでもない。
「そういう意味では、佩刀歪も名伽狭霧も完璧な人間なのかもしれないわ。あの二人には弱さがない。それはそれで異常よ。二者とも何かが欠けている。よく従わせたものね。今や佩刀歪はあなたの下僕よ。そういうあなたも、常人とは違う何かを持っているのかしら」
「そんなわけがない。俺は、ただの人だ」
「何それ。哲学?」
斗米憐乃は楽しそうに笑った。
「ああいった人種には、催眠術みたいな眉唾物は通用しない。催眠術は心の弱さに訴えかけるもの。だから、通じない。だけど、心に弱さを抱えている人間には驚くほどの効果を発揮する。案外簡単だったわ。私の催眠術はやっぱり稚拙だったけど、本人の意識次第で変わるものなのね。あの人たちは一気にのめり込んで来たわ。死への誘惑に、生への絶望に。彼らは枯渇していたのよ。だから、私が潤してあげた。死の水で、空っぽの容器を満杯にしてあげた」
「溢れ出るくらいまで注ぐ必要はなかったんじゃないのか。一度溢れ出れば、二度と元には戻らない。砂時計はひっくり返らないし、現実にリセットボタンなんて存在しないし、後戻りなんかできるわけもない」
「当然でしょう。死んだ人間は二度と元には帰らないもの。溢れたものは不可逆なもの。どうにもならない。どうやったって、もう、遅い。転寝棗は二度とこの世に顕現しない。そうでしょう?」
「…………」
転寝棗。
快活で気性のさっぱりした少女。小動物のように身のこなしが軽く、それでいて優しい子だった。
だった。
「あなたは」と少女は、「あなたは、なぜ私が集団自殺を策謀したと思ったの? 本当にその程度の理由で、私だと気付いたの?」と問いかける。
それではまるで、自分の犯行を認めているようではないか、と思った。しかし、斗米憐乃はそんなことはもはや、どうでもいいような口調でもあった。
何の証拠もない。俺の推理には一切の物的証拠がない。感覚と勘だけで、推理を組み立てた。だからなのか、俺の推理には全くもって現実性を欠乏させていた。
自殺サイトだの、催眠術だの、ものすごく嘘くさい。そんなもの、なんの証明にもならない。
加えて。
今からいうことは、輪にかけて粗雑な憑拠だった。「天岩戸、っていう自殺サイトがあるっていっただろ」
「もう隠さずにいうけど、あれ、作ったの私だから。そんないちいち確認しなくていいわ」と苦笑を浮かべる。
「あれをな、並び替えてみると、斗米憐乃になるんだ。あ・ま・の・い・わ・と。そして、と・ま・い・あ・わ・の。だろ?」
「……まさか、そんな洒落みたいな根拠で、私が犯人だと、思ったの?」
俺はいたって真面目に、「そうだ」と答える。この推理最大の決め手は、実はそれだったりもする。
「それは気付かなかったわ。盲点ね、盲点。当の私も気づかなかった。けどまあ、結果論でいえば見事的中しているわけだけど」と驚き、しなやかに唇を歪ませる。
「僥倖、という奴だ」と最近覚えた言葉を使ってみる。
「そうね。確かにそれは、僥倖ね。……そういう手段で私のもとまでたどり着くなんて。不自然を通り越して運命的ですらあるわ」
童心に返ったように、少女は綺麗な笑みを浮かべた。
線香花火は三本目に突入している。小さな火の粉が舞った。
弱さへの嫌悪。
死への恍惚。
詰屈した厭世思考はそれらに起因しているようだ。天体観測部を立ち上げたのも、禁断にお近づきになりたかったから。あわよくば、死の片鱗に触れたかったから。
「やっぱり、私だって歪んでいたんだわ。人の命を、人の死を、ああもたやすく、受け入れてしまう。いや、むしろ奨励もしているし、私自身もそうするように誘導しているわ。死神ね、私。人の未来を刈り取る、無慈悲な死神。だって、人が死ぬのが楽しいから。見ていて楽しいから。実際、興奮した。まるで壊れたおもちゃみたいに人が落ちていく。落ちたら死ぬって分かってるのに、あっさりと、何の迷いもなく後悔もなく、楽しげな様子で、死ぬ。死ぬことは幸せなことだと、不幸なことじゃないと、そういってるみたいだったわ。そんな嬉しそうに死んじゃったら、わくわくしちゃうじゃない」
斗米憐乃は天体観測部の部員だった。部員はみな自殺に恋い焦がれている。死を崇拝するものたちが作り上げた、虚構。
「私も天体観測部の部員だけど、私だけじゃないかな。自殺願望を持ち合わせてなかったのは。私が持っている願望は、そういったものとは違う。そう、自殺観察願望。そういうことかしら。私は自殺する人々を見て法悦を感じるような、破綻した存在なのかしらね。肉が朽ち、骨が砕け、血が垂れる人の体に、耐えようのない愉悦を覚えるのかしら。だったら、あれね。私っていかれてる」
乾いた笑声。どうやら斗米憐乃は笑っているようだ。
髑髏が歯の根をカタカタ鳴らして笑っているような、不吉な絵が浮かぶ。
斗米憐乃は美しく笑う。
ただ。
表情には、人間的なものがない。だからか、非人間的な印象を受ける。その笑顔には何かを取り繕った跡があった。
「篝火君、私ね」と呼びかける。斗米憐乃は鉄柵に手をかけていた。「分かっちゃった」
「何が分かったんだよ」と問いかけながら、壁から離れ、ゆっくりと足を忍ばせる。
「私の本質、によ。私の原初たるものは、畢竟、死だったわ。人が死ぬ姿に興奮を覚える私は、狂っているのよ。我ながらくだらない性癖だわ。どうしてこんな屈折した願望を持って、今まで生きていたのかしら。分からない。ぜんぜん分からないわ。世の中なんてそんなものばかり。私が分かったつもりになってるだけで、その実何も分かっていない。誤った解釈や理解をして、損しかしない。まあ、年がら年中、死について熟考してる女子高生なんて私くらいだと思うけど。そうした面でも、私が欠陥人間だった。何も変わらないわ。みんな死んじゃったけど、何も変化しない。あなたが気にかけていた子も死んじゃったし、天体観測部も空中分解ね。仕方ない結果だとは思うけど、儚いわ。なんでかしらね」
じりじりと足を滑らせる。音をたてないように、不自然に思われないように、静かな足運びを心掛ける。斗米憐乃に気づかれないように、そっと、そっと。
「無駄よ」と俺の心を読んだような、冷え冷えとした声が発せられる。動揺してしまう。衝撃で足が止まっている。「既に手遅れなのよ。死へと至る衝動から私は逃れられない。だから。だから――ほっといて頂戴」
「嫌だ、といったら」
「死ぬわ」と当たり前のようにいう。「あなたが私を止めようとしたら死ぬし、止めなくても、多分、死ぬでしょうね」
「それ、結末はどう違うんだ?」と情けない表情になる。
「だから、いったでしょう。変わらないって」といって、柵に近づいていく。
目的は明白。
さあ、どうする。
どれを選択する?
「早まるな、って言葉、一度いってみたかったんだ。くしくもこれをいう機会に恵まれてしまったよ」
足をコンクリートにすりよせて、接近を試みる。
「人っていう生きものは、得体の知れないものを無理やり押し付けられて生きてる。んで、それに準じて生きて、それに準じて死んでいく。人は自らの出産に立ち会えないし、自らの死亡時間さえ知らずに死ぬ。そうして、世界の歯車よろしく、それっぽく生きて、それっぽく死ぬんだ」
「ご高説は死んでから聞くことにするわ」
「あの世で講演会を開けるほど、閻魔様の度量が深かったなんて知らなかったよ」とかいって、走り出す。
闇をかき分けていくと、一条の光芒が煌めいた。火だろうか。ゆらゆらと蠢いている。それは妖刀の穂先のように鋭利で、禍々しい。
「私、もうダメかも。今すぐ死にたい。こんなふざけた俗世から脱出したい。なんのいいこともない。人はなぜ生きるのか、人はなぜ老いるのか、人はなぜ死ぬのか、まあ、全部無意味なんでしょうね。ならなんのために人は生きたり、老いたり、死んだりするのかしら。茶番よ。シナリオの決まった劇だわ。そんなの演じても、何がどうなるというのかしら。初めから無駄だと分かっているのなら、私は、この舞台から退場させてもらうから。後はあなたたちがどうにかして頂戴。私は草場のかげで応援でもするわ」
「バカいうな。頭のネジが落っこちた奴は、歪と練絹でもう足りてるんだよ。お腹一杯なんだよ。なんで俺の周りには、少しだけでも常識をかじった奴がいないんだよ。いや、それは俺の友人関係が終わっているからか。けど、あれだよな。なんで、死ぬ? あんたの死を悲しむ人、痛む人、嘆く人、憂う人、一杯いるだろ。なのに。なのに、そうあっさりと死ねるんだ? バカか、もう。あんたはバカか。意味が分からん」
突貫。憐れな死神のもとに突き進む。
時間が。
時間がもどかしい。
どうして、こうも遠いんだ。俺と斗米憐乃はあまりにも遠い。住む世界が違うからか。有する属性が違うからか。此岸から彼岸は尋常ならざる距離なのか。
もう少しで。
もう少しで――。
「つっ」
服が燃える音。
肉が燃える音。
火が己を焼き尽くす。
蛾のように。
それは猛烈な痛みとなって、俺を襲った。
体が熱い。
どうにかなってしまいそう。
「あなた、今痛いって思ってるでしょう? 痛覚は生の実感。だから、大切にしなさい。下手すると、このまま痛みの感じなくなる体になっちゃうから」
斗米憐乃は点火したチャッカマンを、俺の腹に押し付けた。
熱い。
ものすごく熱い。
おそらく改造したものであると推測する。市販のチャッカマンにそれほどの威力はない。このチャッカマンの火力は明らかに、人の手と悪意が加味されている。
額に玉の汗。じりじりと体を燃やしつくす。繊維と皮膚の焦げる音が香ばしい、わけない。
「熱いでしょう、痛いでしょう? けど、大丈夫。この感覚から逃れる道はあるわ。今すぐにでもできる。バカバカしいとは思わない? 一生こんな苦しくて痛くて辛い思いをしながら生きるなんて。分かってくれたかしら? 死の価値と、その意義について」
薄ら笑いを浮かべている。それでも表情は凍りついているから、顔に生気はない。死人のように青白い。それはきっと、月光のせいだろう。
「あんなに幸せそうに飛び降りられちゃったら、私もそうするしかないじゃない。飛び降り自殺しかないじゃない。考えてみれば本末転倒な話ね。観測するほうが観測される側に回るなんて。試験官がモルモットになった感じかしら。けど、それも一興。それに、こんな綺麗な月の夜に死なないなんて、損よ、損。きっちりと、存分に、ぬかりなく死なせてもらおうかしら」
斗米憐乃はチャッカマンを引き抜いた。強烈な蹴りを入れられる。俺は痛みに顔をしかめて、崩れ去った。ちょうど業火で焼かれた箇所。そこに足蹴りが決まったからか、信じられないくらいの激痛が体中を巡った。
腹を抱えて、うずくまる。
口からは声にならない叫喚と、痰のような唾液が何度も口内をぐちゃぐちゃにした。かっと、咆哮する。陰鬱な響きが、辺りに残響した。
腹の筋肉は使い物にならなかった。皮膚は黒ずんでいて、爛れていた。まるで鉄球を当てられたかのように、醜くへっ込んでいる。いや、へっ込んでいるわけではなく、削げ落ちたのだろう。よく見れば、下のコンクリートには、燠のような煤けた何かがあった。
斗米憐乃は鼻歌を歌いながら、再度鉄柵を掴んだ。そのまま楽しそうに登る。
「……ま、てててて、よぉぉうぉ」
「何かしら。私、これでも忙しいのよ」と聞いたことのあるセリフを口にする。振り向くことすらしない。斗米憐乃はせっせと鉄柵の向こう側に行こうとする。
「……きょ、享受、するのか? そんな、何かしらの誰かに強制的に与えられた異常性を、そのまま受け入れるの、か? 誰のためにも、自分のためにもならない特性を、その法則にのっとって、疑問を呈することなく生きて、死ぬのか? それこそくだらないだろ。それと訊いとくが、自殺観察願望だとか、自殺願望だとか、それ、本気でいってるのか?」
「そうよ」
と。
普通にいってのける。
「わ、わわ、うぐうぅぅぅぉぃぁ」
何かいおうと口を開いたが、吐き気に耐えられずに、吐いた。なぜ火にあぶられて嘔吐するのか、自分でも分からない。
「あなたに私をとめる力は、ない。自殺へと至る私は、それをするまで、止まらない。自殺するまで生き続ける。そんな矛盾した存在なのよ、私は」
斗米憐乃は、ついに鉄柵の向こう側に辿り着いた。
出っ張りのような、ひどく不安定な場所。柵を隔てた辺りに、斗米憐乃が立っている。今すぐにでも、落ちそう。
「あなたのいうとおり、人は誰しも矛盾を抱いているらしいわ。私にだって、それはあるもの。ただその矛盾が常人とは違うだけであって。まあ、いまさら気にすることでもないけど」
這いずるように前進した。匍匐前進のようで、体裁が悪い。それでも前に進んだ。斗米憐乃を救えると、そう思いながら、前に進んだ。
不思議な感情。俺はなんのために、この女を助けようとしているのだろうか。
俺の中にわずかでも良心があるとは思えないけど。
「今生の別れ、なんて。辞世の句でも読もうかしら。ふふふ、筋違いかしら。面倒だから止めておくわ。心残りなんてないしね。強いていうなら、あなたの乱入で、予定が狂ったことかな。でも、当初の通りさっさと死ぬわ。それじゃぁ、バイバイ。あなたとの時間、割と楽しかったわよ」
夜色の少女は逡巡の色を見せることなく、視界から消えた。