第三十四話 〃 17
家に帰ってあり合わせのもので持ち合わせる。台所には不健康なインスタントラーメンしかなかった。
誰もいない部屋で一人、湯を沸かす。感覚が麻痺しているのか、それとも歪と顔を合わせたばかりだからか、寂しさはさほど、ない。
テレビをつけて、ぼーっとする。視線は窓外を彷徨っていて、視界には黒で塗り潰された風景があった。
様々な出来事が頭の中に想起される。
名伽狭霧のこと。
転寝棗のこと。
転寝鈴蘭のこと。
斗米憐乃のこと。
そして。
佩刀歪のこと。
思う。
佩刀歪という奴は、色々な意味で規格外――埒外だった。常人には持ち得ない魅力や、ネジの外れた感性を持っている。
持っている奴は持ってるし、持ってない奴は一生持ち得ない何か。
ベクトルこそ違うが、それは転寝棗だって、転寝鈴蘭だって持っている。周囲を魅了するという点では、相違ないのだと思う。
しかし双子の方割れは自ら命を絶ち、もう一方は暗涙に咽ぶ運命を辿った。
救われない。
なぜこうなったのか。
なぜ転寝棗は死ななければならないのか。死ぬことに理由なんているのか。
あるいは。
殺されたのか。
そんなバカな――とは思う。――思うが、そうだとしたら、自分はどうするだろうか。その犯人に動機を問いただすのか、鉄拳制裁を降すのか、自分勝手な復讐を断行するのか。
それとも。
何もしないのか。
死ぬとか、殺すとか、くだらない。
よく日常会話で、「おまえ、死ねよ」とか、「殺してやろうか」なんていうセリフを耳にする。それを聞いた俺は、心のどこかで、「それだけの勇気と覚悟が、おまえらにあるのか」と尋ねたくなる時がある。「そんな簡単に、乱雑に、人一人の命を、あっさりと奪えるほど、おまえたちは強い存在なのか」とも思う。
冗談半分にいっているのだろう。しかしそれを冗談として聞きながせない自分がいる。家庭環境のせいか、周囲の偏見のせいか、そういうことには敏感だった。
ただ。
そういうことを――冗談半分で人を殺せるような連中は、結構いる。俺も数人知ってるし、これから現れたりもするかもしれない。
カップ麺はとっくに伸びている。気がつけば何分も長考していた。
窓の縁に腰をおろして、うまくもないカップ麺を食う。眼下には固定された夜景と、満天の夜空があった。
ゆるゆるとだが、考えが収束していく感じはある。夜という時間帯は不思議だ。思考が緩慢になる。すると思いもよらぬ考えが頭に浮かぶ。それは夜が、忘却と再生の時間だからだろう。流転する万物の分水嶺。ある種の境界線を引く役割を、夜は持っている。
「……寝る」
寝ることにする。
憂鬱な今日も終わりだと、そう思いながら。
○○○
仲夏。
緑滴る頃、五月は下旬の折へと至る。転寝棗の訃報から一週間がたった。
俺はいつも通りの仏頂面で、コンビニに居座っていた。
時計の針は午後十時辺りを指していた。
いい加減立ち読みにも飽きた。さすがに二時間以上読み続けたからか、腰が痛い。
雑誌を本棚に戻して、適当に菓子パンを選びとる。そうしてレジに並んだ。立ち読みするだけ立ち読みして、何も買わないとは非礼だろう――と残りわずかな良心が訴えかけていたからだ。
人間には惰性という桎梏に縛られているので、立ち読みは一度始めると、なかなかやめられない。気がつけば続きを読んでいた。
もしかしたら、他にも自殺に関する記事や考察が記載されているかもしれない。
そう思って、転寝棗の自殺記事を読みふける。棚に並んでいるローカル雑誌全てに目を通し、時の流れを忘れている自分がいた。
なぜか前列の人に前を譲られ、店員は必死そうにレジ打ちをして平身低頭と一礼をされて、追い出されるようにコンビニから出た。
鮮やかな深更。
夜半の小川はそよそよと揺れる。打ち水がしてあるのか、涼身のある風が吹き抜けてきた。
レジ袋を片手に、夜道を歩く。ここは登下校の際に通る岨道だった。
しばらくすると雨稜高校の正門が見える。夜に見る学校は、どこか非日常の気配がして、やけに荘厳だった。
と。
光が蠢く。
それは学校の屋上からだった。光が断続的に瞬いている。それは星の煌めきや、月の輝きでもなかった。
「……妙だな」と思う。屋上は例の集団自殺のせいで、立ち入り禁止のはずだった。
思い直す。考えてみれば、夜の校舎に忍び込む奴が、そんな約款を守るはずもない。一応学校側も警備員を雇ってはいるが、さすがにこの時間にはいないだろう。
だとすれば。
仮定が確信へと変わる瞬間は、人生で比較的多く存在する。
五月二十六日。
門の柵をよじ登り、校内に侵入。第二校舎の玄関に入り、屋上へと向かっていった。
誰もいない。静寂しかない。
窓からは月明かりが漏れていて、イタズラに影を伸ばす。
無人の校舎を無断で走り抜ける。
屋上へと続く鉄扉。本来なら鍵がかかっているはずだが、なぜか開いていた。
それは。
つまり。
解があるということだ。
扉を手で押す。たたらを踏みながらも、コンクリートのタイルを進んだ。
そこには。
「こんばんわ」
少女は笑った。
片手には消えそうな線香花火。鴉の羽のような黒髪は、夜風にはためいている。
それはお伽噺のような不自然な光景。どこか嘘の香りがする、日常とは乖離した世界。
俺はくしくも、死神然とした少女と再び出会った。
やはりこの少女には、夜が似合う。
少女は屋上の鉄柵の前で、深々とたたずんでいる。右手にはなぜか線香花火。燃え尽きたらしく、線香花火の芯はくすぶっていた。
「やっぱり、あなたには夜が似合うわ」とセリフの焼き回しのようなセリフ。「髪の色も倒錯的で、性格も実に頽廃的。加えて白夜っていう名前も、なんだか背徳的だわ」
「夜がついてるからか?」とかいう。同時に、だからなんなんだとも思う。名前に「夜」のような妖しげな漢字が含まれているくらいで、背徳的であるとは限らない。それともこの少女は姓名判断師をなりわいにしているのだろうか。
名は体を表すとはよくいう。ただ、名が心を表すことは、ほとんどない。それが篝火白夜の本質、というわけでもないだろうに。
少女は頭をふった。「半分正解、半分不正解ってことかしら」
「俺の答えは五十点か……」
「ちなみに上限は二百点っていう設定よ」
「七割強落としてたのかよ」といって、なんだそりゃ、と呻く。理不尽な。
「そんなことはどうでもよくってよ。それよりもあなた、“白夜”という現象を知らないのかしら?」
それなら知ってる。ずっと昔、父親が苦笑交じりに教えてくれた。
白夜という現象は、南極・北極近くの地方で見ることのできる、特異な自然現象だ。
それは夏に起きる。その内情は、日没から日の入りまでの間、太陽の反映で空が薄明るいままになるのだとか。
つまり。
「夜がないってことよ、あなたには。ずーっとずーっと、昼のまま。闇を体験したことのない、純粋培養の輝かしい未来そのもの」
親父もそういってたよ、とはいわない。父の言説に感動して、父のようになりたいと思ったことも。
夜がないということは、太陽が沈まないということである。植物は日の光を浴び、動物は昼の野原を駆け、人間は日輪の恵みに感謝する。太陽は森羅万象の根源であった。
では。
昼がない、と仮想してみる。太陽はやがて沈み、月光の暗い残影のみが地表を照らす。植物は月の光に枯れ果て、動物は夜の草むらに怯え、人間は月輪の影と共に生きる。
それは。
まるで。
天岩戸のようではないか。
白夜と天岩戸。
天岩戸と白夜。
正反対の。
事象。
「まるで」と呟く。「まるで、ここに来るのが分かってたみてーな口ぶりだな、斗米憐乃」
「確かにそうかもしれないわね。けどまあ、あれね。夜だからかしら」と少女は含んだような笑顔を浮かべ、「夜はどんなことでも許される魔法の時間。空想でも、幻想でも、仮想でも、妄想でも――何でも許される」と童話のような言の葉を口ずさむ。
「俺の登板もまた、あんたの予想範囲内か」
「ふふふ、一つ上の先輩に“あんた”はないでしょう? フルネームで呼ぶのもあれだし、あなたとか斗米さんとかにしなさい」とたしなめられるようにいう。目は異常に澄んでいる。
「誰かに指図されるのが嫌いなんでね」
「だから不良になったのかしら? 無鉄砲で無軌道で、危うい存在にあなたはなりたかった。そうすれば他人の指示を受けることはなくなる。いや、単に人間関係が複雑になるのが嫌だったのかしら。だから、最大限他人とのかかわりを避けてきた」
……痛いところを突いてきやがる。
その通りだった。自分の内面を見透かされているようで、気分が悪い。
「あなたは耐えようのない閉塞感が怖かった。暗闇が、孤独が、怖かった。かといって、幸せもまた、怖かった。それなりの幸福が、自分には不相応に思えて、怖かった。あなたはそうした矛盾をいくつも抱えている」
「……矛盾のない人間なんかいない、くらいの弁解はするぞ。矛盾や葛藤のない人間は、人間とはいわない。人の皮を被った何かだろうが」
「それは暗に、佩刀歪のことをいっているのかしら?」
「…………」
なんだよ、この女。歪をバカにするな。虚仮にするな。
けど。
あいつは。
あいつは――。
どっかがおかしい。
「絶句――なんて年頃の女の前でするものじゃないわ。態度がなってないわね、態度が」
「……余計なお世話だ」
「おまけに頭もやわい」とくすくす笑う。
「……だろうな。いつどこで、こんなにバカになったんだか」
「安心して頂戴。元からバカだから。あなたは初めから、壊れて、狂って、どうしようもない存在だもの」と小動物を憐れむような声を向ける。
斗米憐乃の持つ線香花火を見る。残滓のような火の粉が、コンクリートの床に落ちた。「この時期に線香花火なんかするか、普通?」
線香花火の季節といえば夏である。旧暦で換算すれば、五月は夏であるが、やはり七月や八月にするような印象はある。
そんな季節はずれな代物を、なぜかは知らないが夜色の少女は持っていた。しかも実際に使用している。その光景は幻想的ではあったが、ちぐはぐなイメージがまとわりつく。季節感が欠如しているのが主な原因だと思うが、斗米憐乃それ自体が、何やら、存在がまがいものみたいだからだろうか。
「好きなのよ、花火」と穢れのない稚児のような笑み。「一瞬で燃え尽きるような、生と死を行き来するような、動と静が相反するような、そんな感じが好きなのよ。そのわずかな時間を味わえるのは花火しかないじゃない」
「随分と刹那的だな、あんた」
「惰性と諦念で生きるあなたとは違うのよ。人生なんて点の集合体だわ。だから刹那的とか、そんな表現はデタラメなのよ。人生は順序。陸続きの過去とか、現在とか、未来とか、ない。そんなことだから、一瞬の美が分からない。死の美学も、哲学も、陶酔も、見出せない。死ほど素晴らしい一瞬はないのに」
斗米憐乃は二本目の線香花火を出した。コンビニか何かで買ってきたのか、近くにビニール袋が置かれている。袋からはチャッカマンや数本の花火が見えた。
壁に背を預ける。ひっそりと深くなる夜を感じ取って、ふうと息を吐く。
炎々と花火が猛る。
煌々と火花が散る。
皓々と月光が差す。
啾々と羽虫が鳴く。
「……なあ」と一言だけ、声をかける。「なんであんなことしたんだ?」
斗米憐乃は小首を傾げた。意味が分からないと、顔に書いてある。「あんなこと……? はて、なんのことかしら?」
「なんだ。自覚がなかったのか」と呆れた風にいうが、実際のところさほど呆れてはいない。ただ無常感のような、儚い感情があるだけだった。「あんただろ。集団自殺の首謀者は」