第三十二話 〃 15
斗米憐乃と別れた後、俺と歪は帰路についていた。
特に言葉を交わすことなく、畦道を通る。頭上には灰色に塗り潰された空が広がっていた。気が滅入るような曇天。さっきまでは西日が射しこんでいたはずだが、雲に遮られたらしい。くすんだ暗雲は空に蓋をしていた。
天体観測部の集団自殺には不可解な点が多かった。その動機もだが、何より変なのが自殺することを誰にも悟られなかったことだ。
自殺という行為は多大な勇気と気力と必要とする。そういう気配は表情やしぐさに出るものだ。やけにふっ切ったような表情。憂鬱としたしぐさ。そうした躁鬱は日常生活とは違った違和感として表出するはずだ。
しかし。
集団自殺したのは六人。それなりの人数であるにもかかわらず、周囲の人間は自殺の雰囲気を感じ取っていないようなのだ。歪もそう思っているらしく、気がついたら自殺していたような、そんな突飛かつ唐突なものだったらしい。
それくらい予備動作が皆無だったということなのだろう。事実俺も、転寝棗の言動に不審なものを感じたことはなかった。知り合って間もないが、あれが転寝棗の常態だったと思う。
無邪気で元気。
それが転寝棗の印象だった。
加えて遺書もない。誰一人として書いていなかったのだとか。それが事態の不気味さに拍車をかけていた。
……何か裏がある。
そう踏んでいる。この集団自殺は明らかに奇妙だ。しかし、それ以上の結論は出そうにない。
視点を変えてみる。
なぜ自殺を決起し、断行することができたのか。
自殺とは生命活動上、俎上に上がることのない行為だ。自ら命を絶つ。そういう風に生物はプログラミングされていない。
自殺に生産性はない。何も生まない。悲しみだけが生まれる。負の連鎖。
自殺を考えたことはこれまでの人生の中で一度も、ない。苦しい、辛い、とは何度も思ったことはある。しかし、そこまで深刻化はしていない。胸底でくだらないことだと思っているのかもしれない。
自殺なんてバカだ。残された人はどうするんだ。その悲しみを誰かに背負わせるのか、なんて思う。
ただ俺が死んでも、誰かが悲しむとは思えないが。
「……自殺か」
ぽつりと漏らす。それは思春期の初々しさのような、安定しない危うさを持っていた。生と死の垣根をあっさりと、それも自分から踏み越える。それはひどく背徳的で、決定的な何かに背いている。それは倫理観や人権、そして生物としての欠陥を暗示させた。
「なあ、歪」
「なんでしょうか」
「自殺って、どういうことなんだと思う?」
歪はさして間を開けずに、「代償行為だと思います」といった。
「代償行為?」
「はい。そうですね。例えばの話ですが――ダイエット中だからお菓子は控えたい。なので、お菓子は食べるべきではない。だから、代わりに祝詞でも詠み上げて、その欲求を忘れよう――そういう心の動きが代償行為なのだと思います。本来の目的が達成できそうにない時、それに代わるものを用意して、実行する。そうして自らを納得させるのです」
「……例えがおかしいだろ」と所感が漏れる。普通、祝詞は詠まない。
「おかしくなんかありません。価値観の違いという奴です」といって、ぺロリと舌を出した。「それで、話を戻します。代償行為には、そうした転換は勿論、譲歩や妥協も当てはまります。それらしい理屈や理由をこしらえて、優先順位が一つ下のもので補うのです」
「……それが自殺とどう繋がるんだ?」と疑問に思う。鈍いからなのか、いまいちピンとこない。歪の説明は分かりやすいのだが、こちら側の理解度に問題があるのか、趣意を咀嚼することはできなかった。
「自殺は自分を殺すと書きます。文字通り己を殺します。その行為そのものが代償行為なのです。現実を直視できない自分。全てが嫌な自分。弱い自分。それから逃げだすために、自分をこの世界から、殺す。それなりに楽しい日々を送りたい。けど、色々なものが邪魔してそれができない。なら死のう。そんな実に単純で無駄のない、一連の思考によって自殺に至る。当然それに至るまでには、紆余曲折はありますが、基本的な流れはこういった考えに基づくものなのです」
「そんな簡単に人って死ねるのか?」
「死ねますね」とあっさりいい放つ。「人は思いのほか、逡巡も後悔もなく、死ぬことのできる生物です。自殺とは逃避ではないのです。自らを高みへと昇華させる、一種のイニシエーション。通過儀礼なのです」
自殺が通過儀礼……?
なら地球上の人間はみな、自殺を体験していることになる。だったらとっくに人類は滅びている。
そういった趣旨のことを問う。すると、歪は淀みのない口調で答えた。「そうです。人はみな、自分を殺しています。自分を殺して、今を生きているのです」
「そういうものなのか」
「はい。周囲と合わせるために自分を殺したり、高位次元にある欲求を満たすために、低位次元の欲求を我慢したり。自殺とはそれらの内面の動きが事象として観測されたもの。自殺は顕現化した事象であり、自殺者本人もまた――事象そのものです。自殺するために起動した、一つの運動。それは歯車にも似ています、自殺は歯車が狂って起きることではなく、歯車が正常に稼働した結果、こうなったというだけのこと。自殺は心の中で何度も起きています。それこそ日常的かつ恒久的に」
歪の持論は一般論のそれとは、一線を画していた。
自殺は通過儀礼。
一つの運動。
その日常性と恒久性。
「ただ、全てにおいて代償行為が当てはまるというわけではありません。代償行為とはあるものとあるものとを代替させることです。しかし、世の中には代替不可能なものがいくつかあります。友情や愛情と呼ばれるものですね。それらにおいて、代償行為を行うことは難しい。そもそも人間関係に『代わり』や『予備』を求めること自体、ナンセンスでしょう。友情や愛情にそういったものは存在しません。――存在しませんが、稀に友情や愛情を代替できる人種もいます」といって、「それはよく、偽善者などと呼ばれます」ともいう。
斬新な意見だったが、正鵠を射ている、とは思う。歪はやはり聡明だった。なんだかよく分からなかったが、納得してしまいそうな勢いはあった。
代替不可能なもの。唯一無二の何か。
ない。脳内で何度か検索しても、それに該当するものはなかった。それは己の中に大切なものを持っていないということなのか。大事な物や大事な人がいないということなのか。
「友情も愛情も、ただ内面に投影する自殺とは向きが違うからでしょうか。これもまた、人間にしか持ち得ない感情の動きです。私にとって白夜様がそうであるように、自分の中にある絶対的なものは概して、友情や愛情を準拠にします。お金よりも確かで、権力よりも堅固で、名声よりも確固たるもの。それが愛です。私は常々思うのですが、愛は地球を救うと思います。愛があれば戦争はなくなりますし、争いや諍いも消滅します。みんな、運命の人を一人見つけるだけで、世界平和に貢献できます」
最終的には世界平和にまで広がった歪の話は、一旦そこで終了した。
自殺。
深く知りたい。転寝棗を死に追いやったものを、知りたい。その原因をつきとめたい。
そのためにはまず、自殺に関して知る必要があるように思えた。敵を知ることから始めるべきだろう。俺は自殺とか倫理とか、社説じみた話にこれまで興味を持ったことはなかった。
「おまえの家って、パソコン、あるか?」と問うと、歪は不思議そうな表情で、「ありますけど」と答えた。「それがどうかしたのですか?」
「ちょっと、知りたいことが、あるんだ」
「……そういうことですか。何かの調べ物でもするのですね?」と目をすがめる。
何かを自殺とはいわなかった歪の優しさに感謝。
頷いて、「今からお前の家に行っていいか?」と聞いた。その際なんか嫌なセリフだな、と思った。無理やり彼女の家に上がりこむ彼氏みたいだ。
しかし歪は、「是非ともお越しください」と快諾した。「喜んでおもてなしをさせていただきますので」
てっきり断られると思っていたので、拍子抜けした気分だった。それに今から行って大丈夫なのだろうか、といまさらながらに後悔する。
「今でいいのか、今で」と気がついたら、いっている。
「私は別に構いません。今日とは限らずに、気が向いたらいつでもいらしてください。歓迎しますので」と歪はにっこりと笑って、方向転換。田舎道を西する足は、日和見神社の方角に向いていた。
○○○
猩々緋の鳥井を抜けると、向拝の設けられた本殿が見えた。形式は床の高い春日造で、丹塗りが特徴的だった。
佩刀家の居住地は、境内の裏手にあるらしい。
歪の案内で、神域を通り抜ける。瑞垣の脇には、火のように赤いひなげしが咲いていた。
「こちらでございます」と歪は玄関の引き戸を開けた。「お入りください」
「入るぞ」といって、入る。踏んだ床は檜皮色に煤けていた。
物音は、ない。縁側からの風音が時折聞こえる程度。「誰もいないのか?」
「はい」と抑揚のない返事の後、「この時間、父上は本殿にいますので」と続ける。
「じゃあお母さんは? いないのか?」
歪は珍しく苦虫を潰したような表情で、「死にました」とだけいった。
謝罪の言葉をいいたかったが、何かが喉奥でつっかえた。それは一ピース欠けたジグソーパズルをしているような、根拠のない違和感だった。
数秒の時間を要して、ようやく口が動き始める。「悪い。嫌なこと訊いちまって……」
「構いません。お気になさらないでください」
やはり無表情のまま、そんなことをいう。人形のように美しい顔が、冷凍保存されたように固まっている。本当に人形のようだった。
歪は木造の階段を指差し、「足元にお気をつけ下さい」と注意を促し、「私の部屋は二階ですので」と重ねる。
「分かった」
「廊下の奥に私の部屋があります。それ以外の部屋は全て、物置ですから、一目でお分かりになると思います」といって、階段を上った。後に続く。
足元にお気をつけ下さいといっていたわりに、階段の作りは頑丈だった。ギイギイと悲鳴のような音はしなかった。
歪のいっていた通り、それは一目で分かった。奥の部屋は人の残り香のような、そんな気配を滲ませている。奥の部屋以外は、固く閉ざされていた。すえたようなにおいがする。「なんだこれ」
「物置です」
「いや、中に何があるん」
「物置です」と遮られる。俺は黙した。
歪が部屋の扉を開ける。すると、中から妖しげな、甘い匂いが漂ってきた。前に練絹玉梓の家でかいだ匂いとは、種類の違うものだった。ただ女の子の部屋は、決まって、妖艶で芳しい。
歪の自室は、本人の性格が反映されているのか、無駄なものがあまりなかった。整頓された勉強机に、丸型のテーブル。簡単な調度に、隅には蒲団が畳んであった。装飾品の類はない。ただ本棚には、古めかしい書物が並べてあった。
「粗末な部屋ですが、おくつろぎください。お茶菓子を持ってまいりますので」と一礼して、部屋から退出した。
一人。
残される。
どうしたものか、と思う。なんだか妙な罪悪感が湧いた。勝手に女の部屋に不法侵入しているような感じ。
と。
ふと、思う。
これは佩刀歪という人間を知るチャンスなのでは?
歪は謎めいた女、という印象が俺にはあった。学校生活はよく知らないし、私生活もまた想像がつかない。この女は果たして、どういう風に生活しているのだろうか。
霞を食っているわけでもあるまい。ただ歪の主食が霞でも、驚かない自信がある。
辺りを見渡す。茶色の箪笥。大量の群書。鍵のかかった窓。羽毛の蒲団。年季の入った机。
机。
立ちあがる。座っていて見えなかったが、机上に何かがあるのが分かった。
整理された机。その中でぽつんと、アルバムのようなものが机の上に置いてある。
……アルバム。
もしこれが、歪の小学校や中学校時代のアルバムであれば、少しは歪について知れるかもしれない。将来の夢だとか、その頃の思い出だとかが、書いてあるかもしれない。
しかし。
題名やタイトルは記されていない。ということは、そういった類のものではないということか。
では、なんなのか。
分からない。――分からないが、それでも面妖な気が滲んでいるのが分かった。
唾を飲み込む。躊躇や逡巡が駆け巡る。しかし、それ以上の好奇心が湧きあがった。それは現場の遺留品をこっそり盗みだすような、不穏な探究心と、よからぬ冒険心が混合していた。ダメだとは思っても、体は脳からの命令を無視する。
片づけ忘れたのだろうか、と無関心を装って、手を伸ばす。