第三十一話 〃 14
午後五時半。
俺と歪は体育館の裏にいた。遠くからは部活動生のかけ声。それ以外に音源はない。ただそよそよと木々がなびくだけである。夕焼け色に染まった樹林は五月の趣を感じさせる。
無造作に置かれたレンガに腰を下ろす。歪は壁にもたれかかっていた。これも斗米憐乃から話を聞くためだ。
今日の授業は七時間。学校が終わるのは午後五時である。幸い生徒会活動はなかった。なので、比較的早い時間で、会見の場をセットすることができた。
まあ。
これも歪のおかげだが。
歪の尽力で、放課後の体育館裏で斗米憐乃と話す機会を得ることができた。歪に頼み込んだのは今日の昼休みだった。にもかかわらず、今日の放課後にセットできたのは、一重に歪の行動力に起因する。本当にすごい女だと思う。
顔を俯かせる。地面にはいくえもの凸凹が確認された。
「……遅いですね。もう時間なのですが」といって、歪は腕時計を無表情で眺めた。
さらさら。
音がする。
さらさら。
風の流れが変わる。それは小さな変化であったが、何かが近づいてくるのが分かった。
「――古に転地未だ剖れず、陰陽分れざりとき、混沌れたること鶏子の如くして、溟幸にして牙を含めり」
朗々とした声が聞こえる。それはどこかで聞き覚えがあるような声だった。
少女のような、老婆のような。
少年のような、老翁のような。
青年のような、夫人のような。
ひどく。
曖昧で。
明確な。
声。
「日本書紀第一段、神代七代章、天地開闢の冒頭の言の葉よ。知っているかしら?」
絹のように艶やかな黒髪。
紅い唇。
切れ長の瞳。
全てを達観した表情。
「神代上――ですね。国常立尊でしょうか。古事記でいうところの、別天神五柱の後に現れた、神代七代の神の一人だと思いますが」
「ご名答。よくご存じね」
夜色の髪をした少女は、唇を吊りあげた。満足そうに相好を崩す。
と。
視線をスライドさせる。黒真珠のような目が俺を射すくめた。
そして。
ふふふと、ふふふふと、笑う。
「あら、これも巡り合わせかしら。あるいは、運命の皮肉」と楽しそうにいう。「そう、あなたは幸運な人だわ。なんせ夜ではない私と会うことができたのだから――」
「おまえ……」
少女――夜――はくすくすと怪しげな笑みを浮かべた。
「……白夜様。斗米さんとお知り合いなのですか?」
どう答えるべきだろうか。まさかこういう展開が待っているとは思わなかった。これは俺の想定範囲外の出来事だ。「いや、知り合いってわけじゃない。なんというか、その」
「私と彼は初対面よ。私は斗米憐乃。どこからどう見ても斗米憐乃で、全てが斗米憐乃で、やっぱり斗米憐乃その人で――夜ではない表向きの――昼の私。そうでしょう?」
仰視する。見上げてみれば、美しい夕空があるだけだった。
何がそうなのかは分からない。この女の真意が読めない。
そもそも。
俺とこの女は、初対面なんかじゃ、ない。一度ならず二度も、顔を合わせた。いつかの夜空で邂逅したはず――。
表向きの――昼。
裏向きの――夜。
昼と夜。
夜と昼。
「――あなたは今朝、目を開けて、“白色”の制服のボタンを、“視線を下げて”かけたわね。そして朝食を食べて、履き慣れた“黒い”の靴を履いて、登校した。“目の前”には延々と広がる田畑。じりじりと照りつける太陽を、あなたは思わず、“仰ぎ見た”でしょう。その時にきっとあなたは、自らの腕を“目の近くにかざした”でしょうね。しばらく歩くと、“正門が見えた”ことでしょう。そこには“たくさんの生徒たちがいるのが分かります”ね。そうしてあなたは、葉を落とす桜を、“目を細め”て“眺めて”、玄関まで歩いたでしょう?」
何を。
この女は。
何をいっている?
なぜ急に、そんな当たり前のことを。
そうです、としかいいようのないことを。
この女は何をいいたい?
この女はどうしたい?
「あなたは“視界いっぱいに壮大な校舎を見納めた”のじゃないかしら。学び舎を“背景”に、生徒たちが行きかう様子を“見た”でしょう。ひょっとしたら先生方や、保険教諭の姿を“視認”したかもしれないわね。そうしてあなたの一日が始まるわ。まずは一時間目。あなたはきっと、退屈そうに黒板の文字を“追っていた”でしょう。“緑色をした板”に、色々な記号や文字やらが“書きこまれて行く様”に、変わり映えのしない日常性を感じたに違いないわ。そうして諸々のことが終わった後、佩刀さんと一緒にここで私を待っていたのね。――“頭を下げたまま”。ふふふ、だったら、あなた。そんなことじゃ――“頭を上げることができなくなるわよ”」
なんだか。
変な気分になった。
斗米憐乃の語り口調は異様だった。直接脳に語りかけているようで、違和感を覚える。それは手品師が詐術をかけているような感覚だった。
斗米憐乃の意図は分からない。今頃になって、そんな分かりきったことをいうのか。なぜ、確認作業を行うのか。
「あんたは」何をいいたい?
夜色の斗米憐乃はたおやかに艶笑した。目は妖しくたわんでいる。
「それで私に何か用かしら。私、これでも忙しいのよ」と落ち着いた口調。それほど急いでいるようには見えない
斗米憐乃は華奢な体を自分で抱きしめて、不敵な笑みを浮かべる。それは獲物を捕らえる蜘蛛のような、そんな不吉な気配をたたえている。
「あんたに訊きたいことがいくつかあるんだ」と一歩進んで、切りだす。
すると。
頭が。
重い。
頭が重い。重く感じる。重力が倍増したような感覚。
頭が。
上がらない。
「何かしら」
「て、天体観測部のことだ。あんたは――何か知ってるんじゃないのか?」
「それは」と斗米憐乃は口を噤み、「私がみんなを自殺させたって――そういうこと?」といった。
うう、と言葉に詰まる。視線は情けなく下を向いている。
「誰もがそういうわ。そんなはずないのに。そんなバカげたことできるわけないのに。みんなそういうのよ。愚かだわ。愚か愚か愚か。これといった論拠もなく、頼りない己の勘と無知な頭で私を悪だと決めつける。おまえがみんなを自殺に追い込んだ、なんていう。くだらないわ。そういうあなたたちこそ――悪だわ。衆愚なのよ。周りに流されるだけの、主体性のない愚民。行きすぎた妄想――それ自体が罪。そんな過ちを許容してのうのうと生きるつもりなのかしら。それ相応の罰を受ける覚悟は果たして、あなたたちにあるのかしら。疑問ね。だから、みんな――蛾よ。暗黒の中に光を求めるだけの――惨めな蛾虫よ」
「この場にいるものは誰一人として、そんなことを思ってはいません。白夜様はただ知りたいだけなのです。事件の真相を。その真実を」
「何をいうかと思ったら――佩刀歪。狭霧もいってたけど、常軌を逸した何かを持っているようね。なぜそこまでして一人の人間に尽くせるのかしら。それと、篝火白夜。あなたもあなただわ。決定的に歪んでいる。それはあなた個人の性質なのか、はたまた篝火の血筋故なのか――。興味深いわね」
さらさらと漆黒の髪がなびく。
くすくすと赤色の唇が曲がる。
心の中の敏感な何かにひびが入る。それは済度しがたい亀裂を生み、赤い感情の嵐を巻き起こした。
「あんた――なんていった? 血筋? もう一回行ってみろよ、おい!」
「裏御三家の一角、斗米家を侮らないでほしいわね。斗米は情報収集の名家よ。よその社会との融和を実現させた名家――転寝家よりも狡猾で、旧華族の素封家――雛道家よりも老獪。今の政界を裏で支配しているのは間違いなく斗米家。個人情報の一つや二つくらい、手に入れるのは簡単だわ。あなたの手は血で汚れている。――そう、それは佩刀歪にもいえること。あなただって、叩けば埃が出る体でしょう? 獰猛な獣のような、不穏で嫌な臭いがするわ」
斗米憐乃は。
妖艶に笑って。
「佩刀さんだって人――殺したこと、あるでしょう?」
「おっ、おまえ……! そんな、バカなこというな! ……謝れよ。歪に謝れよ。くだらない嘘いったこと――謝れよ!」
拳を作る。
崩壊する自我。
発狂する脳髄。
しかし。
「白夜様!」
歪が俺を羽交い絞めにした。後ろから抱きすくめられる。柔らかい感触。すぅーと力が抜けていくのが分かった。
「おやめください」
「バ、バカかおまえは! そんな根拠のないことを、人を殺したと、この女はいったんだぞ! 人の命の重さがおまえには分かるか? 殺すなんて、そんな非生産的で、利己的で、恣意的で、くだらない、負の連鎖しか生まない、バカバカしいことを――」
唸るエンジン音。明滅するライト。飛び出る血。転がる頭。別れる胴体。突き出た骨。悲鳴。絶叫。歓喜。喝采。
もう二度と私たちに近づくな。
人殺しの子供など預かれるか。
おまえのせいでみんな死んだ。
連続猟奇殺人鬼の子。世紀の大犯罪者。呪いの胤。悪魔の生まれ変わり。
何様のつもりでおまえ、生きてるんだよ。
さっさと死んだほうが世の中のためなんじゃないのか。
誰にも愛されずに、死ね。
誰かにとってのおまえは大事な存在になりえない。
被害者の遺族に死んで詫びろ。
もうおまえ、どうでもいいから、消えろ。
ぶっ殺してやる。
「私のために怒ってくださっているのですね。けどもう大丈夫です。矛をお納めください。私は大丈夫ですから」
「……歪」
「分かっています。白夜様が過去にどれほど辛い経験をなされたのか。白夜様にとって、『血』や『殺す』はいってはならぬ言葉でしたね。さぞかし嫌な思いを味わったのでしょう。けれどご安心ください。私がいます。私があなた様をお守りしますから。あなた様に仇なすものは全て、私が葬ります。ですから、怒りをお鎮めになられてください。白夜様は悪意が誰かに向かうと、その人を守ろうと身を挺して下さる優しいお方です。ですから、これ以上自分を責めないでください」
歪は子守唄を歌うように、ゆっくりとしたテンポでいった。後ろから両手を回され、優しく抱きしめられる。
その腕は所々すりむいていた。木目細かい肌から血が流れている。
思わずその手を握る。よく見れば、歪の腕には打撲傷のようなものがあった。醜くはれあがっている。歪の頬にも、一筋の血が流れていた。
……そうか。
発作か。
よく見れば、俺の服は至る所に土や、凝固した血が付着していた。それが俺の血なのか、歪の血なのか。前者であることを願いたい。
痛みが一気に襲ってくる。現状を認識した瞬間、猛烈な痛覚と、深い懺悔の気持ちに見舞われた。
「ごめん。こんな痛い思いさせて……。おまえは悪くないのに……。俺が悪いのに……。一方的に傷つけて、苦しい思いさせて……」
「苦しくはありません。白夜様の痛みは私の痛み。白夜様の苦しみは私の苦しみ。私はむしろ、心苦しい。私が愚かなばかりに、白夜様に辛い思いをさせているのだと思うと、胸が苦しいです。もっと早く気づけば、白夜様をよく見ておけば、と後悔の念にさいなまれるのです。ですから、辛いと感じたら、ぜひ私を頼ってください。私が何を犠牲にしても、その傷を癒して差し上げますので。なにせ、私は白夜様の妻なのですから」
歪はにっこりと笑った。そして、首筋に腕を回して、その赤い唇を近づけた。
唾液と唾液が混ざり合う。歪は唇を深く押しつけて、舌を入れた。歯の裏筋や、口蓋の隅々まで舌を這わせる。歪は卑猥な音を立てて、唾液を飲みほした。
発作。
年に数回、起こる。
気持ちがたかぶった時、過去のトラウマとがリンクした時、それは起こる。
監禁された子供が、暗闇を怖がるように、篝火白夜という人間は、トラウマとリンクした状態で、『血』や『殺す』とかいう言葉を聞くと、箍が外れる。
三分間程度、鬼になる。
ウルトラマンじゃないんだから、なんて思いながらも、髪をかきむしった。金色の髪の毛が、はらはらと落ちる。
歪は何もいわず、ぎゅっと抱きしめた。
その様子を、斗米憐乃は興じるように眺めていた。
「意外と脆いものなのね。ちょっと刺激しただけで壊れる。夜のあなたはそうじゃなかった。どこか非人間的で、無機質だった。いや、違う。佩刀歪がいるから、かしら。愛の力? 愛は人を弱くする――なんて。ふふふ。これだったら、壊し甲斐がないわね。あなたはもっと強靭で孤独で冷やかで鋭い人だと思っていたのに。中身はただの弱いだけの人間か。拍子抜けもいいところ。あなたなら、楽しく、愉快に、死んでくれるとばかり思っていたのに――あどけない処女をレイプするように――男を知らない少年に売春させるかのように――人の禁忌を犯して、この世のものならぬ快感を得られると思っていたのに――。禁断の果実はとっくに腐っていて、すでに収穫済だったわけね」
「――斗米さん」
「何かしら?」
歪は斗米憐乃のほうに顔を向け、「続きを、よろしいでしょうか?」といった。言葉は震えている。歪のほうに首を回転させると、下唇がつり上がっている。
俺はこの表情に見覚えがあった。
表面上はわずかな変化だが、これは歪が怒りを抑えている時のサインだ。憤りを感じているが、優先すべきものが別にある。
歪は穏やかにも見える瞳で、斗米憐乃をみつめた。
何に怒っているのか。
誰のために怒っているのか。
「いいわ。私の知る範囲内でなら」
「お願いします」
「随分と脱線しちゃったものね。そもそもそれが用件でしょう。ふふふ。そうだったわね」と頬に手を当てる。
歪の手を取って、立ち上がる。
自分の掌を見る。血で汚れた汚い手。あの時の感触が鮮明に頭に浮かぶ。
肉をえぐる音。
骨が砕ける音。
体を壊す音。
気に入らない奴は殴って。
気に食わない奴は蹴って。
気に障る奴は潰した。
向かってくる敵は例外なく返り討ちにした。売られたケンカは全て買った。買ってボロボロになりながらも、勝った。勝って、より敵を増やしていった。結果、ほとんどの人間と敵対した。
けれど。
それでも暴力をやめることはできなかった。
それは中学校のころに顕著で、後先構わず力を行使した。
篝火白夜は、おそらく、強い。
しかしそれは、守るものを持たぬ者の強さだった。
……しっかりしよう。
叱咤。軽挙妄動を慎むよう、自戒。ちゃんとするんだと、自分にいいきかせる。
「まず一週間ほど前の集団自殺について説明するわ。なぜ天体観測部の部員が夜の屋上に集まったのか――だけど。いいかしら?」
首肯、先を促す。
「その日は天体観測部の屋外活動だったの。内容は夜の屋上にいって、天体観測をするというもの。そのための許可はすでに学校から下りていたわ。そして集まったのは、私を覗いた六名の部員よ」
「なぜ斗米さんは参加しなかったのですか?」と歪が質問。それは俺も気になるところだった。
斗米憐乃は自嘲気味に笑った。「風邪よ。私は幸運――かどうかは分からないけど、病に臥していたのよ。だから集団自殺に巻き込まれなかった」
「なるほど。ただ、思うのですが、集団自殺はあらかじめ計画されていたものだったのでしょうか。だとすれば、その中に斗米さんは含まれていたのですか?」
「……どういう意味?」
「つまり斗米さんにも自殺の意志はあったのか――ということです。斗米さんが屋外活動に参加しなかったのは、自殺開始日に急に死ぬのが怖くなったから。そういう解釈も可能です。だから、あなただけ自殺をしなかった」
斗米憐乃は感心したようだった。「ふーん。確かにそういう考え方もあるわね。けどそんなことないわ。私に自殺の意志はなかった。それだけはいえる」
「分かりました。ということは、屋外活動に参加しなかったのは、単純に体調がすぐれなかったから。そういうことですね?」
「ええ、そうよ。私は集団自殺には関わっていない。みんな勝手に死んじゃったのよ。おかしな話でしょう? 昨日まで普通に話していたのに、一日たったらもう会えないなんて」と儚げな表情で、歪を見た。
「集団自殺は誰かの手引きなのでしょうか」
「分からないわ。そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。今となっては誰にも分からない。そうでしょう?」
斗米憐乃は酷薄な笑みを浮かべた。
「転寝棗は」ぼそりと呟く。「どういう奴だった?」
「転寝――棗? ああ、あの子ね。あの子は快活な性格だったわ。その分信じられないわね。やっぱり表向き元気そうでも、内側には重いものを抱えているんでしょうね。それは大なり小なり、誰でも持っている心の暗部。あの子は――転寝棗はその闇が大きく濃いものだったのよ。だから――」
「死んだ、のか?」
「さぁ? そこまでは私も関知しえないわ。けどまあ、手首くらいは切ってたかもしれないわね。自殺志願者は自傷か他傷かして、今を繋ぎとめているケースが多いから。その発展形が自殺。取り返しのつかない、究極の、自己実現行為」
転寝棗が。
リストカット。
あまりにもかけ離れた二つの言葉。それでいて、妙にしっくりくる。
昼と夜。
転寝棗にとって、元気な姿が昼で、その裏にはもう一つの時間帯――夜が眠っているのかもしれない。
それが転寝棗に自殺をそそのかした。
夜が昼を覆う。
月が太陽になり替わる。太陽が隠れてしまう。
では。
どちらが本当に転寝棗だったのだろうか。