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神隠しが起こる村 埒外編  作者: 密室天使
第一章 【虚飾症】
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第三話  〃  3

 春泥の混じった畦道を歩く。靴裏に泥がついて不快だった。

 見上げると憎々しいくらいに清爽な空が広がっていた。雲がふわふわと浮かんでいて、千切れては消える。それは地平線まで連なっていた。

 茫々とした空。無意識に感慨に耽る。

 素振りをしない奴がホームランを打てるはずがない。シュート練習をしない奴がゴールを決められるはずがない。努力を怠っている人間が、努力をしている人間に勝てるはずがない。努力すらしない人間が誰かに勝ろうなどおこがましい。勝ったとしても運がよかっただけだ。それは自己の実力でもない。ただの錯覚。

 そう、錯覚。

 篝火白夜(かがりびびゃくや)の人生は錯覚だらけだった。何かを間違えて、履き違えて、結局何も得ることはなかった。

 後ろを振り返る。眼下には驚くほど平坦な道が見えた。土と泥。雑草の生えた田舎道。それはまるで己の人生のようだった。起伏も何もない軌道。嬉しいことも悲しいこともない。薄汚れているだけ。空白。がらんどう。

 勘違いするなよ。

 そう、自らを自戒。これは幸せな錯覚だ。寂しさが紛れたことを嬉しく感じている。ひょっとしたらいいことが起こるかもしれない。そう思ってる。

 佩刀歪(はかしひずみ)が帰った後、急いで洗面所に駆け込んだ。水で口をすすぎ、吐き出す。俺は何度もうがいを繰り返した。そうして乾いたタオルで唇を拭いた。

 異物が侵入した口内は淫らだった。女の唾液がついた歯。絡み合った舌。触れ合った歯茎。佩刀歪は俺の歯を磨くようになぞっていった。軽く唇が触れた程度なのに、ものすごい威力だった。

 口を離すとぬめりのある橋が架かっていた。それは篝火白夜と佩刀歪とに繋がっていた。

 女が満足げに去っていくと、ひざから崩れ落ちた。そのまま放心状態。さして価値があるとは思えない上の純潔が消えた瞬間だった。

 死んでしまえたらいい。

 俺はすさまじい罪悪感を感じた。同時に人並みの幸福感も。

 ずっと虐げられていた俺には覚えのない感情。両親の轢殺ショーとは違う愉悦。純然たる性。色情の欣喜(きんき)

「――バカ野郎! 暢気に突っ立ってるんじゃねーよ!」

 暢気に突っ立っていたらしい。

 トラクターに乗る農夫は罵声を浴びせるだけ浴びせて、俺の横を通り過ぎた。巨大なタイヤが泥土を巻き込ませて、轟々と音を立てていく。いくら遠ざかっても背中から聞こえるほど大きかった。

 やっぱり死ねばいいんだ、俺は。

 そう思って足取りを速めた。雨に濡れたらしい土はぬかるんでいた。やはり不快だった。


 憂鬱な一日が始まろうとしていた。




   ○○○




「回答やめ。後ろから回収してください」

 テスト監修らしい先生がそういうと、安堵の息が漏れた。だんだんとペンを走らせる音がとまっていく。周りの体が弛緩していくのが分かった。

 恐る恐る回される回答用紙。その手は震えている。

 冷たい目で一瞥し黙って受け取る。ほぼ白紙の回答を重ねて、前に回した。前の奴の背中はぶるぶると震えていた。全身が緊張で強張っている。そんなに恐ろしいのか、俺が。

 テストの出来は空白の量が証明している。それで俺が徹底的にダメな奴と思われるのは心外だ。俺はただ分かる問題だけを解いているだけなのだ。

 確実に理解できる問題だけに手を伸ばし、分からないと思った問題は着手しない。無駄を省いた合理主義。事実前回の成績は、百人中三十二位となかなかの好成績だった。勉強もまあまあ出来る。そこら辺が嫌われるのだろうか。そんなのただの僻みだ。不良に勉強で負けることが恥ずかしいのだろうか。

 テストは全て終了し、五分程度のホームルームで今日は終わり。予定のない俺は帰宅を残すだけだ。

 担任の眉村(まゆむら)先生が入室してくる。

 先生が何かを話している。俺は頬杖をついて窓の景色を遠望するだけだった。

 そしてホームルームはお開き。和気藹々とした活気。鞄に荷物を詰め込んで帰ろうとした。

 その時だろうか。

 教室が大きくざわついたのは。

 異変に気づく。なんだろうと首をその方向に向けると、信じられないものを見てしまった。

 すらりとした手足。均等の取れた肉体。その上には巧緻なガラス細工の顔が乗っていた。

 腰まである黒髪をなびかせ、悠々と教室に入っていく。その姿を女子は憧憬と嫉妬のこもった目で眺め、男はひたすらに色めいていた。

 そいつは制服姿だった。着物もそうだが、制服も様になっている。

 ぼんやりと足取りを追う。しかし何度見てもこちらに来ているようにしか思えない。

「テストはいかがでしたか、白夜様」

 佩刀歪は切れ目をたわめた。

 辺りに衝撃が走る、とはまさにこのことだった。誰彼問わず瞳孔を見開いている。周章する女子や眼前の光景を疑う男子。口を大きく開けて、愕然としていた。

「おまえ……、本当にここの生徒だったのか」

「そうです。驚かれましたか」と佩刀は笑んだ。すれ違ったら振り向かずにはいられない微笑。

「驚いた。だって俺、おまえのこと知らなかったし」

「それも当然でしょう。なにせ白夜様はご遅参やご欠席をたくさんしておりましたから。外出をほとんどなさらなかったのでは、私のことを知らなくてもやむを得ぬことかと」

 佩刀の口調は論理的だった。正鵠を射ている。佩刀の聡明さが見て取れた。

 しかし。

 それは俺の実生活を熟知していることを前提とするものだった。

 監視。

 んなバカな。

 一抹の疑心。この女はどこまで知っているのか。

 この村では俺が殺人鬼の息子であることは知られていない。もう何年も前の事件であるし、特集する番組もないだろう。

 隠しているわけではない。ただ露見してほしくない、とは思う。けれどそれは杞憂。誰も篝火白夜の過去に興味はないのだから、心配しなくていい。

 不可測の事態。まさか実際問題、昨日の少女がこの学校の生徒だったとは。

「思ったのですが、それでは出席日数が危ういのでは」

「先生を殴ってどうにかする」

 佩刀はふっと頬を緩めた。「なるほど。確か白夜様の成績は上位でしたよね。学年順位は三十二位。さすがは白夜様」

 なぜそれを知っているのか。

 口元まで来た疑問を押し潰す。それは些細なことだ。

「そういうおまえはどうなんだ」

「私ですか。申し上げづらいのですが、よろしいでしょうか」と目を下げる。いいにくいことなのだろうか。

 首肯すると、佩刀はおずおずといった。「学年順位は一位。全国模試では総合偏差値七十七でした」

 偏差値が七十七。東大レベルである。

 瞠目すると、恥ずかしそうに俯いた。「すみません。なんだか自慢しているようで……」

「別にいい。おまえがそういう奴とは思わない」

 それは本心からの声だった。目の前の女がそんなことを自慢するとは思えなかった。この女は自己顕示欲や優越感からもっとも遠い存在に見えた。佩刀歪はそんな低俗な人間ではない。

 この女の口吻からは知性や知性といったものが充溢していた。それに狡猾さや卑しさはなく、純粋に人の内面と向き合える人間なのだろう。

 逆にいえば、いくら成績がよかろうが、運動神経がよかろうが、顔がよかろうが、内面がくだらなければ冷酷に切り捨てられるような性格。もしそうなら目つきが悪くとも、髪が金髪であっても、目が死んでいようと関係ないのだろうか。この女にとって内面の価値こそが全てで、表層の虚飾などどうでもいいのだろうか。

 だとすれば真の意味で、人を見極める慧眼を持っているのかもしれない。

 ならば。

 なぜ俺に話しかける。

「白夜様……。そのお言葉、謹んで承らせていただきます」

 佩刀歪は大仰に腰を折って、こうべを垂れた。その様子は紛れもない敬愛、尊敬の念がこもっていた。不思議だった。なぜ俺に頭を下げるのか。

「頭を上げろ。こっちが恥ずかしくなる」

「分かりました」

 恭順な返事。疑うことを知らない幼児のような表情。

 普段佩刀歪がそういう人間なのかは分からない。しかしこうも無防備な表情をされると困る。

 だれそれ関係なくこうなのだろうか。別に俺に限った話ではなく、色々な人間に同じように笑うのだろうか。

 少し嫉妬する自分に自己嫌悪。自分だけ特別と思うこと自体が凡人の発想だ。非凡を願う凡人なんて山のようにいて、ゴミみたいに埋もれている。本当に非凡な奴は自己を特別とは思わない。狂人が自己をおかしいと思わないように。

 その分かりやすい例が目の前にいる。

 試しに、特別な奴の条件はなんだと思う、と訊いてみる。この女の場合、自分のような人間です、と答えても許される。佩刀歪は正真正銘、特殊な人種だ。

 できれば今すぐこの場から立ち去りたかったが、口が勝手に動いていた。

 この女について知りたい、といつ思ったのだろうか、俺は。

「篝火白夜様であることです」

「は?」

「白夜様は唯一無二の存在です。ですから、篝火白夜様であることはすなわち、特別であるということです。白夜様ほど尊く、素晴らしいお方はいらっしゃらないでしょう」 

「……やっぱりいい。訊いた俺がバカだった」

 佩刀のほうはというと、(ごう)も疑問を抱いていないようである。

 人で撹拌(かくはん)される教室。倉皇(そうこう)と人が集まっている。

「白夜様。この後にご予定等はおありですか」

「ない」

「では私と帰りましょう。よろしいでしょうか」

 佩刀はにっこりと笑った。魔性の笑み。男子はバカみたいな表情で呆けていた。

 俺は目をすがめ佩刀を見る。「どうかいたしましたか」と問う女。「なんでもない」といって、鞄を肩にかける。

 俺は一人で帰ることにした。




   ○○○




 昼下がりの日差しは眩しかった。

 テストは正午ちょうどに終わったので、下校時間は必然的に早くなる。辺りには雨稜(うりょう)高校の学徒がぽつぽつと散在していた。

 春風で紫苑色の躑躅(つつじ)がそよぐ。脇には清冽に流れる川があった。随分前に補強工事があったらしく、防波堤が築かれていた。

 後ろ目で見る。背後には俺に随行する女の姿があった。その距離は常に一メートルを保っていて、一ミリも違えることはない。足取りは湖畔を歩く鳥のように静かだった。

 気にしないことにする。

 穏やかなせせらぎが聞こえてくる。それは自然と頭に入っていって、心地よかった。俺はこの音が好きだった。流動する水。それに身を任せる自分。平和。安泰。面倒なことがないのはいいことだ。

 足は意識せずとも自宅に向かっていた。それでも後ろの女はついてきた。

 とうとう俺の家の前まで。

 ポケットに手を突っ込む。眼前にはボロアパートが見えた。女は従順に俺の一歩後ろにいた。

「おまえ」とさすがに気にかかって問いかける。「家に帰らなくていいのか」

「別に構いません。白夜様に(かしず)くことは、私の義務であり使命であり喜びですから。どうぞお気になさらないでください」

 振り返ると佩刀は嫣然を浮かべていた。瞳は弧の形を描き、唇は緩やかにしなった。

 何もいわずに背を向けた。アパートの二階に上がり、扉を開錠する。

 ふと振り向くと佩刀はやはりそこに佇んでいた。目が合うと包み込むような優しい笑顔を見せた。

 変な気分だった。

 そんなことが一週間も続いた。




   ○○○




「すみません、白夜様。今日は生徒会の議会があるのでお見送りをすることが出来なくなってしまいました」

 始業式から一巡した日の昼休み。

 いつものように一人で食べていると、佩刀はそういった。

 教室は俄然騒擾(そうじょう)たる雰囲気に包まれている。

 俺は佩刀が生徒会の人間であることを初めて知った。確かにこの女はそういうことに秀でていそうだった。俺とは違い人望はあるようだし、周囲の反応から判断するにみなから好かれているのだろう。つくづく俺とは正反対の人間だった。

 教室で食べるのはやめようかな、と思う。

 次からは誰もいないところで食べよう。中庭辺りが穴場かもしれない。

「そうか」といって、パンをかじる。

「申し訳ございません。ここ最近生徒議会を無断欠席していたものですから、強制招集を受けてしまいました」

 佩刀は済まなさそうに下唇を噛んだ。

 俺は真面目そうなこの女が無断欠席をするのかどうか疑問だった。「欠席したのか。なんで」

「白夜様を送り迎えするためです」

 佩刀は当たり前のようにいい返した。それには確然たる意志が感じられ、決して翻せない信念といったものが窺えた。

「ずっと俺についてきたな、おまえ」

「当然です。白夜様に関することは何よりも優先すべきことですから」

 面喰ってしまう。その言葉もだが、驚いたのはその目だった。

 波の立たない水面のような双眸。それは己の中に絶対なものを持っているものの目だった。

 絶対なもの。

 俺なのか。

 佩刀歪にとって、篝火白夜は絶対な存在なのか。

 そういったことを問うと、佩刀は粛々と頷いた。「その通りです。私にとって白夜様は絶対な存在なのです」

 迷いがないということは恐ろしい。

 迷いがないということは自分の言動に疑問を持っていないということだ。躊躇。逡巡。遅疑。佩刀歪にはそういったものがない。この女は篝火白夜という人間を崇拝すらしている。

「金髪だぞ」

「関係ありません」

「不良だぞ」

「関係ありません」

「頭よくないぞ」

「関係ありません」

「俺と関わることでその他のもの全てを失うのだとしても」

「関係ありません」

 佩刀歪は毅然とした態度でいった。

「私には白夜様がいていただければそれで十分です」

 むせそうになった。

 慌てて佩刀が介抱しようとするが、片手で制する。

「おまえ……、なんかおかしいぞ」

「おかしくなどありません。おかしいのは周りです。なぜこんなにも公明正大なお方を遠ざけるのか……。理解が出来ません」

 佩刀はわけが分からないといった様子で溜息をついた。

 なんてこった。この女は頭がおかしいんじゃないのか。

 根強い忠誠はどこから湧いてくるのか。

 根深い陶酔はどこから湧いてくるのか。

「生徒会っておまえみたいな奴が集まってるのか」と思わず呟いてしまう。もしそうだとしたら、生徒会なる組織は魑魅魍魎の集まりだ。

「何がですか」

「何でもない」 

「生徒会が気になさるのですか」

「いや……、その、大変なのか、それ」

「そうですね……。確かに生徒会の仕事は雑多なことも多いです。白夜様が望むのなら退任いたしますが」

「……本気か」

「白夜様がお望みとあらば」

 佩刀の目は真剣だった。

 このまま首を縦に振れば、本気で退任する。

 佩刀に干渉するつもりはない。そもそもこういうのは嫌いだった。第三者の意志で自分のあり方が決まるのは誰だって嫌だろう。俺も嫌だ。

「辞職しなくていい。そこまでする必要はないだろ」

「しかし、白夜様に裂く時間が減ってしまいます。私としては芳しいことではありません」

「そのままでいい」

「白夜様がそうおっしゃるのなら」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「それでは白夜様」と深く一礼して教室を去る佩刀。

 その姿をぼんやりと眺める。癖のない黒髪が綺麗に流れていく。身長は百六十センチと高いのに、縦は細い。全く欠点がない。佩刀歪は恐ろしく現実離れした女だった。

 目を閉じると、佩刀の残像が浮かび上がってきた。ある程度の輪郭なら思い出せる。

 それはつまり。

 佩刀歪が身近な存在になりつつあるということだ。

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