第二十八話 〃 11
転寝棗が自殺したという連絡は、あっという間に学校名に伝播した。
当然校内は騒然となり、様々な憶測が飛び交った。喧々囂々と物議が交わされる。転寝棗の死を悼む声がどこかしこから上がった。
ただこの文には語弊があって、何も自殺したのは転寝棗だけではない。
どういった経緯があるのかは関知しえないが、転寝棗はどうやら集団自殺に巻き込まれたらしかった。そのメンバーは『天体観測部』の部員で占められており、その人数は五,六人程度。その中の一人に転寝棗が含まれていたらしい。
集団自殺が行われたのは、今秋の日曜日――昨夜のことである。その晩、天体観測部は夜の屋上で天体観測をしていたらしい。学校のほうにも天体観測部から、屋上の使用許可が出ているから、間違いない。
そして、何を血迷ったのか、天体観測部の部員は屋上から飛び降りたのだ。
六人の死体が発見されたのは、今日の早朝。いち早く学校に着た職員が第一発見者だとか。
本来ならば校内で死体が発見されれば、とりあえずは休校措置が取られる。しかし、発見したのが平日の早朝となると、これまた厄介だった。なんせ生徒達は続々と登校している。やむを得ず、先生たちはまず警察に通報。次いで、死体周辺の現場を通行禁止にした。
で。
朝のホームルームでそれらの情報は生徒に伝えられた。しこうして、今日の授業はカットして、即下校しなさい、という旨も伝えられた。
生徒たちは困惑し、恐怖し、哀悼した。嗚咽を漏らし、潸々と泣いた。
篝火白夜もその一人だった。
一滴だけ、涙は出た。それで体中の水分は枯れはてた。
なぜ。
なぜ転寝棗は自殺なんかしたのだろうか。
疑団は膨れ上がり、心を圧迫した。何度も何度もなぜだと繰り返した。無駄なことだと分かっていながらも、自問し続けた。
担任の眉村によって、ホームルームは終了。みんな沈痛な面持ちでバックをからった。
……本当に死んだのだろう。
ポツン、と疑惑の芽が出る。現実感に乏しかったからだろうか。その問いは形而下的な形を持ち、一気に膨張した。
しかし。
だからといって、そんなことがあるわけもない。学校や警察がこうやって動いているのだ。転寝棗を含む数名が自殺したのは間違いないのだろう。
それでも違和感が拭えなかった。あの豪放磊落な転寝棗が自殺するとは到底信じられない。あいつは自殺するような馬鹿じゃない。それだけはいえる。
なのに。
自殺した。
なんなのだろうか。この変な感じは。
人一人の死。実感は、ない。悲しいだけで、中身が伴わない。前まで普通に笑っていた奴が、いきなり死ぬなんて思えない。思いたくない。
夜の言葉が思い出される。
死は恐ろしいものではない。
業火に焼かれた蛾の死に様が思い出される。
実にあっけなく、実にくだらなく、実につまらなく、ただ光を求める蛾。自らの死をどこかで理解しながらも、光を欲せずにはいられない性。
望み。
願い。
実現せぬ望み。
成就せず願い。
その無常。
予測通りの死。
予想通りの死。
予定通りの死。
予告通りの死。
それが未来だと分かっているのに、その先にあるというのに、蛾はサイコロを振り直さなかった。
空は薄雲がかかっている。外は霧雨だった。それが窓ガラスに伝って、下に流れた。
「白夜様」
視線を前のほうに向けると、歪がいた。目が合うとにっこりと微笑みかけてきた。
弱々しく微笑み返して、視線を元に戻した。多分、転寝棗の訃報に参っていたのかもしれない。少なくとも、いつもとは違う倦怠感はあった。それは喪失感という奴で、心底には澱が沈殿していた。
それを見抜いたのか、「棗ちゃんのことが気にかかるのですか?」と歪は問うた。
図星である。視線を歪に向けないようにした。
その様子で察してくれたのか、歪は何もいわなかった。この場にそぐわぬ内容だったと、後悔しているようでもあった。
椅子を引いて、鞄を持つ。それを右肩にかける。「帰るぞ」
「はい」
いつも通りの恭順な返事をして、後ろに続いた。
○○○
玄関で靴を履き替える。そこで手元に傘がないことに気づいた。
バックの中を漁っても、何も出てこない。
そういえば、と思う。確か折りたたみ傘を入れ忘れていたような気がする。朝に雨が降っていなかったからだろうか。天気予報のほうも、見忘れていた。
「傘をお貸ししましょうか」と歪は黒色の傘を示した。
「……準備のいい奴」と苦笑する。いつもながら、用意周到だった。
「ありがとうございます」
「でもいい。今日は濡れて帰る」
そういうと歪は悲しそうな顔をした。「そんなことを仰らずに」
「だったら、おまえが濡れるだろ」
すると歪はきょとんとした。数秒して、得心顔を作る。「ご安心ください。私と白夜様、両方が濡れない方法があります」
「……なんだ?」
歪は俺の手を引いて、近くに引き寄せた。「こうすれば、どちらも濡れません」
……なるほど。
歪は俺の手を握って、肩を近づけた。傘が大きいのが幸いして、ちょうどよく二人分の体が収まった。
周囲の視線が痛い。各々睨むような視線を向けている。
男は嫉妬のまなざしを。
女は軽蔑のまなざしを。
羞恥心が刺激され、離れようとする。しかし、歪の膂力は強く、離してくれなかった。
「腕を離せ」
「嫌です」
珍しく拒絶する歪。歪は怖いくらい無表情で俺を見た。
歪の目はやはり魔性だった。ガラス玉を嵌めこんだみたいに澄んでいる。人形のような美しさがあった。
「……憎めない奴だよなぁ」と屈する自分が情けない。最近富に歪と行動しているからか、こいつに関して甘くなっているような気がする。
「それだけ私のことを愛してくださっているのですね」とさらに体をくっつけた。
むすっとなる。本当にこの女の真意が読めない。
せめてもの抵抗で、できるだけ体を離した。
しかし、そんなことはお見通しらしい。いつの間にかがっちり腕を掴まれていた。肩と肩とを組んで、しっかりと固定。人の力では、多分、動かない。
「傘をさすのにわざわざ肩を組む必要はないんじゃないか」とは提案する。そして、それが無駄なことも分かっている。一応、女子としての節操を守ってほしい、とは思う。そう思ったので、遠回しに注意してみる。
「あります」
「なんだ」
「前にテレビでやっていました。仲のよい男女は、雨の日にこうして腕を組むのだそうです」
中のよい男女といった言葉が、別の言葉に変換される。
それは。
つまり。
「こういう話を知ってるか?」と前ふりを出す。「昔、どこぞの国では仲のよい男女は肩を腕を組んじゃいけなかったんだ。当時にはそれを罰する法則もあったし、厳しく制限されてもいた。それで職を失った奴もいれば、社会的信用をなくした奴もいる。だから、腕を組んじゃ、ダメだ」
「嘘ですね。白夜様は嘘をつく時、鼻の頭をかく癖があります。したがってそれらは作り話――虚偽です」
「……嘘じゃない」
「間があった、ということはやはり嘘ですね。正直者が嘘をつくものではありません」と微笑ましそうにいう。
あしらわれている。そう思ったが、やはりその通りだった。
歪は目を瞑った。ゆっくりとした動作で肩に頬を当てる。「別に少しくらいよいではありませんか。減るものではございませんし。それとも、お嫌でしょうか? 私と戯れるのがそんなにお嫌いですか? 私のことがお嫌いですか? だったらその……私、悲しいです。私には白夜様しかいらっしゃらないのに。こんなに好きなのに。私、首を吊ってしまいたくなります……」
「アホらしい」
「アホではありません。白夜様はいつも私を、こうやって煙に巻きます。イジワルです。あんまり、私をいじめないでください」と真顔でそんなことをいう。なんとも、庇護欲に駆られるセリフだった。そこら辺の男にいってあげればいいものの。
なんともいえない気持ちになる。異性との会話経験が極端に欠如しているからか、どうしていいのか分からない。
「私はこんなにも白夜様を愛しているのに……。白夜様の体重も、身長も、視力も、聴力も、握力も、生年月日も、血液型も、生まれ故郷も、生活リズムも、家族構成も、好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、性癖も、好みの女性のタイプも、全部知っているのに、本気で想っているのに――うぅ」
歪は呻吟した。すがるような目で、見られる。
見返りを求めない愛というのは、どこかで異常な部分があるように思う。それは自分の存在を相手に委託するということ。つまり、自分の全てを投げ打つということだ。
何から何まで狂っている。いくら好きだからって、その態度というか、表情は狂っている。
愛やら情やらに淡白。
短い人生の中で、篝火白夜はそういった感情を持ったことは、ほとんどない。それは多分、他人なんてどうでもよくて、自分でさえもどうでもいいから、そういう帰結に至っているのだろう。幼いころに刷り込まれたトラウマは、他者とのコミュニケーションをことごとくダメにした。
腹筋に残った歯型は、九歳のころ、無理やり犬との決闘を強制されて、犬に噛みつかれてできた傷だ。
背中に残った切傷は、十歳のころの図工の時間で、遊び半分にカッターナイフで刻まれてできた傷だ。
手首に残った火傷は、十一歳のころ、見ず知らずの不良が吸っていた煙草を押し付けられてできた傷だ。
中学の頃には、生意気だといっちゃもんをつけられ、集団で金属バットの洗礼を受けたこともある。これまで何十回も人為的な骨折をしたし、二十人近くの不良に襲われて、内臓破裂した経験もある。
体が異常に頑丈なのも、辛酸を舐めた体験によるのかもしれない。きっとイバラの道に耐えるために、肉や骨を作り替えて、頑健なものにしたのだろう。これも、一つの抵抗進化だといえる。
必要に駆られれば、人は割と変われるものだ。
しょうがないなと、歪の手を取って、落ち着かせるためにその口を塞いだ。とたんに甘い匂いがして、甘美な気持ちになる。
人は予想だにしない事象を目の前にすると、思考がとまるという。また、これまでの鬱憤や怒りも、全部消し飛ぶらしい。
歪は最初、目を見開いていたが、暫時すると、積極的に舌を入れてきた。――入れてきたので、すぐに身を離す。
「ああ」と名残惜しげに、手が宙をかく。歪は上気した瞳で、軽く睨んだ。
「帰るぞ」とそっけなくいって、首をできる限り曲げる。頬は憎たらしいくらいに赤くなっていて、なんであんなことしたのだろうと思う。不相応な行為。正直、もう一回したい、と思ってしまう自分がいる。
「……はい」
歪はいつもなら見られないような、すねた子供のような表情を浮かべた。それでも、どこか嬉々としたものを浮かべている。
心のどこかで虚しさを覚える。篝火白夜特有の、浅ましい考えが鎌首をもたげる。
しょせん、篝火白夜に力はない。人を愛する力も、人を繋ぎとめる力も、何もない。
当たり障りのない人生を送る。無知で救いようのない日々を過ごして、気がつけば、傷だらけの生涯が幕を閉じている。
それでも隣に誰かがいるということは、幸せなことなのだと思う。今の時期はそうした小さな幸せを見つける時なのだ。それを袋の中にためて、墓の中までそれを持って行く。そうすれば単調な人生でも、悪くなかったと思えるかもしれない。それなりに楽しい人生だったと思えるかもしれない。そうした錯覚を抱きながら、彼岸に渡れるのかもしれない。
その時に篝火白夜の死を悲しんでくれる人はいるだろうか。
分からない、ということにする。死後のことを考えるなんて、非生産的。意味のないことはしない。それが篝火白夜のモットー。
ただ。
彼女は悲しんでくれるだろうか。
なんて。
思う。