第二十六話 〃 9
必死に駆けてくる。荒い息を肩で整え、膝に手を置く。頬は赤く上気していて、息切れを起こしていた。
「だっ、ダメっスよ、走ったりしたら! 鈴蘭は怪我してるんスから、安静にしてないといけないじゃないっスか!」と怒ったようにいう。それでも妹の背中を優しくさする辺り、心配なのだろう。転寝棗は思い悩むような表情をしていた。
ある程度心拍数が落ち着いたのか、転寝鈴蘭は膝に手をつくのをやめた。決意のこもった目を俺に向ける。伏し目がちだった双眸は、凛々しく泰然としたものになっていた。
少し。
たじろぐ。
こういう目をした奴は苦手だった。不純物のない虹彩。澄み切った眼球。可否なく全てを検出させる網膜。それは鴻鵠の志を汲むような、明鏡止水を体現した瞳だった。
「お姉ちゃん。この人が」
「そうっス。この人が鈴蘭を助けてくれたんスよ。ですよね、篝火先輩?」
曖昧に頷く。
それどころではなかった。
そいつの性格や性質は、目を見れば大体分かったりする。目は心の窓、という名言はあながち嘘ではない。まさにその通り。目は心そのもの。目でそいつの本質を読みとることができる。
過去に色々な人間の目を見てきた。
煌々と光る目。
凛々と輝く目。
競々と泳ぐ目。
陰々と沈む目。
翼々と倦む目。
篝火白夜の短い人生の中で、鶏群の一鶴たる目を持つ奴は三人ほどいた。
一人目は――名伽狭霧。
二人目は――佩刀歪。
三人目は――篝火建策。
名伽狭霧は異質な存在だった。いかなるものにも通暁していて、あらゆるものに造詣が深い。どれもがどれも得手で、何から何まで完璧。性格も恐ろしいくらいに真面目で、鋭い眼識も持ち合わせていた。それでいて容姿も明眸皓歯なのだから、始末におえない。
佩刀歪もまた、特異な人間だった。名は体を表すとはいったもので、人としての根幹が歪んでいた。一見すれば、博識な常識人なのに、たちどころに狂っている。否。そういう点も含めて、佩刀歪はデタラメな佳人だった。
篝火建策は、俺の父に当たる人だ。すなわち――連続轢殺犯その人である。父が人を轢き殺す時の目は、今も忘れない。無邪気な愉悦と快感に充ち満ちた、あどけない瞳。禁忌的な欣喜を無意識のうちに許容する、幼稚でいて老獪な頭。そこに理由や動機は立ち入らない。父にとって、人が死ぬということはその程度の意味しか持たない。そんな面倒なことはどうでもいいのだ。父は人を殺すことができれば、それで十分なのだから。
もっとも。
今は刑死してこの世にはいない。それでも、篝火建策の存在は、俺にとって多大な影響力を持つものだった。
血縁関係にあることも要因の一つだが、それ以上に篝火建策は篝火白夜の人格形成に大きく関わった人間だ。俺の性格がどこかおかしいのも、父のせいかもしれない。猟奇殺人を起こした奴なのだから、それは当然なのかも知れない。そういった血は遺伝するのかも分からない。だとしたら、今すぐ体中の血を献血に回したい。
他にもバカみたいに狂ってる奴は結構いた。
食人嗜好の練絹玉梓も異常だった。
また、梅雨利東子に限っては、論じなくてもいいような気がする。そもそも梅雨利にとって、他人の評価など歯牙にもかけない。我が道を行く。梅雨利東子は日常を謳歌する、普通の異常者だ。
転寝鈴蘭は何かを訴えるような表情を作った。ひどく悲しげで、どこか物寂しい。それでいて、頬には朱が混じっている。
……走ったからなのか。
瞬き一回分の空白。不意に梅雨利は背中を向けた。「先、行っとくね」
「……は?」とほうけた声を出す。それくらい梅雨利の言動は予想外だった。
「もう、察しなさいよ。君、呆れるくらいバカだよね。私、君みたいな奴、嫌いだわ。さっさと死んだほうが世のため人のため、だよ」
「それは」と自嘲気味に切って、「それはおまえにとって、俺がどうでもいい存在だからだろうな」といった。
「……へえ。自覚はあるんだ。アホなりに頭、しっかり使えてるねえ」と肩越しにいって、悠然と歩いていった。
にしても。
何を察しろと?
「お姉ちゃん」
「ん? 何?」
「席、はずしてほしい」
転寝棗は、遠ざかる梅雨利の背中を瞥見し、わずかに黙考。一転、花開いたようにすっきりとした表情をした。「分かったっス! 先に病院に戻っておくから、早く帰るんスよ」
そういって。
転寝棗もまた。
背中を向ける。そのまま通ってきた道を逆走した。
……なんだ、あいつら?
名状しがたい。あいつらの意図はなんだ?
転寝鈴蘭のほうを見る。目が合うと、転寝鈴蘭は座りませんかと提案して、低いレンガブロックを指差した。
ここに座れ、ということなのか。
転寝鈴蘭は行儀よく座った。体を横にずらし、スペースを確保。上目遣いを向ける。
肌寒い。
五月なのにやたらと寒い。冷気の混じった風は、身を切るようだった。
周囲を見渡す。そうしていると、文明の利器が網膜に映った。
「おまえ、コーヒーとお茶、どっちが好きだ?」
「……はい?」と驚いたような表情をする。「あっ、えっ、その……お茶のほうが、好き、です……」
「そうか」といって、走りだす。
数分後。
自販機で買ったお茶を、転寝鈴蘭に手渡す。転寝鈴蘭は初め固辞したが、無理やり渡した。
横に座る。俺は自分用に買ってきたコーヒーのプルトップに手をかけた。表裏をなすように、転寝鈴蘭もお茶のプルトップを掴む。どうやら、タイミングを図っていたようだった。
「その、ありがとうございます……」
「これくらい普通だろ」
転寝鈴蘭は頬を緩めた。「後でお金、返しますね」
「金はいい」
「……いいんですか?」
「釣りは受け取らない性質なんだ」というと、転寝鈴蘭は例の困ったような、嬉しいような表情をした。
「……でも、その、お金、ですし。返さなくちゃ、だし」
頑固だった。
別にお金は、どうでもいい。そんなに義理立ててもらう必要もない。
それならば、と思い、「おまえ。読書、好きか?」と尋ねる。
「……読書? 読書ですか?」と小首をひねる。これだけ風貌と言動が遊離しているのだ。少なくとも金髪男が口にするには、あまりにも不釣り合いな言葉である。「一応、好き、ですよ。けど、その、なんで?」
「面白い本を探してるんだ。前に一冊借りたんだが、もう読んだ。何かないか?」
ますます奇妙に思ったのだろう。珍獣でも見るような表情をしている。「はあ。面白い本ですか……。その、ジャンルは?」
「問わない。怪談でもミステリーでも古典でも、なんでもいい」
「古典なら……私、結構詳しいですよ」
転寝鈴蘭と初めて会った時を思い出す。そのとき長テーブルには大量の日本舞踊の書物があった。能楽や歌舞伎などの古めかしい本。脇には神道関連の本や、仏教や修験道の類まであった。
どうやら転寝鈴蘭は国学が趣味らしかった。日和見村の風土故か、やたらと国学者然とした奴が多い。
「例えば?」
「篝火さんは伊勢物語をご存知ですか?」
「ああ、から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしてぞ思ふ――という奴か?」
「……なんか印象とは違いますね」と嘆息のような、驚嘆のような声を上げる。「見た目ほど無学――でもないです。話に聞いていたのとは全然違う」
悪評のことだろう。
転寝鈴蘭は前回とはうって変わって、偏見のなさそうな目を向けた。やや体が強張ってはいるものの、目に恐れの色はない。
「そんなにおかしかったか?」といってみる。すると転寝鈴蘭は慌てたように両手を顔の前で振った。すみませんいいすぎましたそんなつもりは毛頭なくて、と謝意を表す。どうやら怒っていると思われたらしかった。
「いや、その……変わった人だなって。――あ、いえ、そういう意味じゃなくて」
「いい。分かってる」
「……はい」と顔を伏せた。しょんぼりとしている。
……そんなにおかしかっただろうか。
伊勢物語は過去に、歪から謄本を借りたことがあった。結論からいえば読破はできていない。ただある程度の内容は頭に入っている。先ほどの和歌もそのときに覚えたものだった。
「金の代わりだ。何か面白い本を貸してくれたら、なんてな」
転寝鈴蘭はゆっくりと顔を上げた。「ああ、そういうことですか。分かりました。秀逸なものを揃えておきますね」
転寝鈴蘭はしきりに古典について話し続けた。寡黙な奴かと思っていたが、話しだすと止まらない性質らしい。素直に傾聴すると、それなりに興味深かった。やはり博識な奴と話すと楽しい。俺も薄っぺらい知識を総動員して、話についていった。幸い、こういった話は歪から聞いたことがあるものだった。そのおかげか、転寝鈴蘭の趣意は大体理解できた。
空は暗い。
気がつけば、結構話し込んでいたらしい。辺りは薄暮だった。
「すっかり暗くなっちゃいましたね。時の流れなんて、あっという間です。それだけ楽しかったのだと思いますし、篝火さんも博学だから、私が口下手なのにもかかわらず、私のいいたいことも察してくれましたし」
「最近、この手の話をよくするんだよ。それでも、かなり話し込んだ」
「その、私もです。お姉ちゃん以外の人とこんなに話せた人は、篝火さんを入れて二人目くらいです」と再度、頭を下げた。綺麗な黒髪がバサバサと、鳥が羽ばたくような音を上げる。眼鏡から見える瞳は、どこか折れてしまいそうな儚さをたたえていた。
「そうか」
転寝鈴蘭は視線を下に落としたまま、「変ですよね、私」と呟いた。
「……変?」
転寝鈴蘭は迷うような素振りを見せる。長い睫毛を伏せ、優艶な唇を曲げる。そして、憂うように仰視した。
……やがて。
何かを決心したらしく、転寝鈴蘭は口を開いた。
「変だと思いませんか? 本ばっかり読んで、不健康だと思いませんか? 本ばかり読むから友達もほとんどいないですし、性格もお姉ちゃんみたいに明るくないです。こうやって男の人と話したのも――すごく久しぶりです。私って寂しい人ですよね。つまらない人ですよね。なんか、不意に、そう、思いました」
「…………」
「毎日が無駄だなっていつも思います。本を読んでばかり。そんなに本を読んで楽しいの――っていわれたこともあります。楽しいことは楽しいし、充実してるな、とも思います。けど、どこか空虚に思います。こんなことで人生を無駄遣いするのかな、なんて気がつけば考えています」
まじまじと見る。表情は前髪に隠れていて、見えない。
「本を読むことで、知識はつきます。けど、それだけだったら、社会は生きていけないです。やっぱりそれなりに外に出て、友達と遊んで、日々を楽しまないといけないです。けど、休日は、私……。ずっと家に閉じこもって本を読むか、市立図書館に行って本を読むかのどちらかです。本。本本。本ばかりです。だから遊び友達も気の合う友達もあまりできないです。男の子も苦手だから、余計にできないです。みんないうんです。おまえは根暗だから、本しか読まないのか、本しか友達がいないのか――って。私、嫌いです。こんなつまらない自分が大嫌いです。――篝火さん」
と。
転寝鈴蘭は口を閉じた。
たっぷりと間が空く。
「いや、すみません。なんでもないです。さっきのこと、忘れてください。なんか私、勘違いしちゃったみたいなんです。私を助けてくれた篝火さんに親近感なんか感じちゃって、一匹狼の篝火さんに同族意識を覚えて、私のことを気にかけてくれるのが嬉しくて、お茶がものすごくおいしく思えて、その、錯覚しちゃって……。けど、ダメですよね。孤独な者同士、仲良くしようなんて、思っちゃいけませんよね。篝火さんには佩刀さんや梅雨利さんみたいな素敵な人もいます。それにお姉ちゃんもいますし、私みたいなダメ女が入っていい隙間なんて、ないですよね。私、男の子に免疫ないから、ちょっとでも優しくしてもらえると、ころっといっちゃうんだと思います。私、弱いから、友達いないから、さびしいから、その……。ごめんなさい。ただの独り言です」
転寝鈴蘭はブロックから立ちあがった。病院の方角に足を向ける。小さく一礼して、振り向きもせず歩きだした。
その後ろ姿をぼんやりと見る。その背中は寂寥感に溢れていて、愁いすら帯びているものだった。
「……待てよ」
ピタリ、と足が止まる。少女の体はわずかに震えていた。
「俺でよければ、話し相手くらいにはなるぞ。だから、そんな悲しいこというな。他人の目なんて、気にするな。他人のくだらねぇ価値観なんかに惑わされるな」
手足が力む。固く拳が握られている。ギギィ、と軋む。
「共同体は価値観の共有を強制する。それに漏れた奴は、排除される。そんなのいかれた共産主義だ。あらかじめ存在する価値を分配するだけして、何も創造しない。誰かの摘発にびくびくして、身の保身を考えてるだけなんだ。おまえはただ――寂しいだけなのに。悲しいだけなのに、そんな吐き気のする考えに押し潰されてるだけなんだ」
過去の記憶が奔流のように、押し寄せる。トラウマになった遠い残像が、よみがえる。それは、不快な感情とともに現像されていく。
大人数の意見を正しいものとして、過大評価しているだけ。少数意見を圧迫していることにも気付かない。ただ、自分が安泰であることに優越感を覚えるだけ。
それは、無意識に虫を踏みつぶすのと、よく似ている。
「自分を嫌いになるな。でないと、自分くらい、自分で好きになってあげないと、自分がかわいそうに思えてくるだろ。まず、自分を好きになってやれよ。けど。――けど、それでも自分が嫌になったときは、俺がおまえを好きになってやるから。もうダメだと思ったら、いつでも頼っていいから。俺でもいいし、姉ちゃんにでも泣きついてもいい。だから、そんな悲しいこと、いわないで、ほしい」
転寝鈴蘭は走っていった。目頭を押さえて、ひたすらに疾走していった。
雨は降っていない。なのに、舗装された道路には小規模の水溜りがあった。
……何をいってるんだろう、俺は。
ふっと脱力して、そこら辺の壁にもたれかかった。
しょせん自己弁護か。
誰が自分を好きになるのか。
俺が自分を好きにならないと、どうしようもない。でないと、篝火白夜を愛する者はいなくなる。地球上で篝火白夜を理解しようとする奴はいなくなる。
篝火白夜は創造は勿論、分配すらしない。何もやらない。拱手傍観を貫く。そうして自堕落になっていく。
よく友達が多いことを自慢する奴がいる。自分のコミュニケーション能力を鼻にかけた奴らだ。自分はこんなに友達がいるんだぞ、と豪語する。反面おまえはどうだ、とも問いかける。なんだ、全然友達がいないじゃないか、つまらない奴だな――ともいわれる。そうして自分に酔う。自分は周囲に認められていると、選民意識に陶酔する。
エゴだ。他人の椅子を奪って、自分の椅子に作り替えているだけ。必死に自らの居場所を作って、自分の存在価値を確保する。他人なんて勝手知るところ。一方では友達面して、一方では冷たく突き放す。そうすることで、自らの地盤を堅固なものにする。
くだらない、とは思わない。それも生き方の一つだ。俺も小さい頃、そんなバカげた生き方をしていた。けれど、どんなに媚びへつらったところで、真の友好関係なんか、築けやしない。自己の欠陥を補えるはずもない。
けど。
あいつは違う。転寝鈴蘭は違う。あいつは自分という確固たるものを持っている。きちんとした個を所有している。ただ、自信がないだけだ。その不安さえ取り除けば、転寝鈴蘭はかっこいい奴になれる。そういう素質を、あの子は持っている。
携帯は振動している。どうやらメールが来たらしく、梅雨利からだった。
それを無視して、バス停まで一人で歩いていった。