第二十四話 〃 7
今日は土曜日の朝である。
いつものように蒲団の中にいる。睡眠時間は多いはずだが、依然として眠い。寝すぎて眠いという奴だろうか。
寝返りを打つ。窓からは啾々と虫や鳥が鳴いている。
今日も平和な朝だった。
平和はいい。このままの状態がずっと続く。それはすごくいいこと。考える必要がない。
ただ。
長期的な平和は奇妙な変貌を遂げることがある。平和ボケ。停滞することに慣れてしまうと、変化に弱くなる。恐竜と同じだ。環境に対応できない奴は死んでいく。それが世の常。
もう一眠りしたい衝動にかられる。頭の中がぼんやりしてきて、睡魔がすぐ傍まで迫ってきた。
携帯電話が鳴ったのはその折のことである。
初期設定のままの、無機質な機械音。設定を変えるのが面倒で、買った当初から変えていない。
出るかどうか迷う。
出ることにする。「もしもし」
『汝が大陸随一の使い手か? ならば我と拳を交えよ』
「…………」
『その様子だと怖気づいたのか。嘴の黄色い若造よ』
「…………」
『名高い誉も所詮は虚聞であったか。口調法な童蒙である』
「……梅雨利か」
『あっ、ばれた? 私って演技下手なのかな』
「……朝っぱらからホラ吹いてどうする」
『うわぁ、非情。態度が非情だってば、君。もうちょっとましな反応してよ、もう。少しくらい構ってくれてもいいじゃん。ただでさえ傷心気味なのにさぁ、ぽっかりと心に穴が空いてるのにさぁ、篝火君は冷たいなぁ。篝火なだけに、みたいな』
「うまくもねえ」
『む。ばっさり一刀両断。そういう素直さは買ってあげるけど、もう少しレディーを持ち上げるようにしてよ。切り捨てられるのが一番嫌なんだからさ。私は兎なのよ。寂しくなったら死んじゃうんだよ。私が自殺したらどう責任とるつもりなの?』
よく喋るな、と思う。口を衝いて言葉が出る。
それが悲しみの裏返しであることは分かる。空しくなったら無性に饒舌になるのは人の性だ。ただそれを差し引いても、梅雨利東子はやたらと喋る。
ある意味で佩刀歪とは対極をなす。佩刀歪は無口な俺に合わせてくれるから、駄弁を弄することはほとんどない。それでも口を開けば、整合性のある言葉が飛び出る。歪は賢いのだ。それを表に出さないだけ。それでも話しぶりから、聡明であることが窺える。無駄なことはいわない。知識も豊富だ。
と。
考えれば考えるほど、歪は完璧だった。欠点が皆無。神からの恩恵を全身で受けた、美の結晶のような人間なのだ。
一方の梅雨利東子は、前述のとおり、喋る。とりあえず喋り、のべつ幕なしに喋り、ひたすら喋る。しかし時々確信を衝くようなことをいったりもする。頭が良いのか悪いのか、悪いのか良いのか、よく分からない。
聡明な点や博識な点は歪と遜色ないが、そのベクトルが違う。容姿も整ってはいる。ただ、性格は面妖である。
気性もまた希少。こういうふざけたことを真面目に行える人種はそうそういない。人並みの弱さを持ってはいるものの、窮鼠猫を噛み殺す、といった人格破綻者だ。
「おまえは自殺する性質じゃないだろ」
『……私もそう思う。私が自ら命をたったら、天地がひっくり返って、後方宙返りでも何でもして、地球は滅びるだろうね。うわぁ、目が回るぅ、みたいな。それ以前に死んでるから、目を回す暇なんてないけど』
「それで何か用か」
『私と付き合いなさい』
「は?」
『だから、私と付き合いなさいよ』
……なんだそりゃ。
渋面を作る。梅雨利の言葉は奇妙な余韻を作った。
「……なんで」
『なんででもないの。私と付き合いなさいよ』
「付き合うってその……どういう?」
沈黙。
梅雨利は完全に黙した。
と。
『ははははははははは! もしかして篝火君、勘違いしてるんじゃないの? 付き合えっていうのはそういうニュアンスじゃないから。単に用事に付き合ってってことだよ。私が君にそんなこというわけないじゃん。それに、君には愛しの佩刀さんがいるでしょう? 縦しんば私がそんなことしたら、佩刀さんにぶっ殺されるってば、君。あいかわらずちゃらんぽらんな頭、してるねぇ』
「……そうか」
『あわわわわわ、ごめんごめん。君を傷つけるつもりは毛頭ないから。そこんとこ誤解しないでね。まあ、君は確かに容姿は悪くないけど、私のタイプじゃないし、髪が金髪ってわりには顔、全然ワイルドな感じじゃないし、そもそも私、男に興味ないしぃ。――で、そういうことだから、明日の午後一時にバス停前集合ってことでよろしく!』
「って、おい!」
『それじゃぁ、ばいばいきーん』
「…………」
電話はそこで切れる。
理不尽な奴だ、と思う。はあ、と溜息をついた。
最近、色々な人種と会う。四月に続き、五月もまた、ネジの緩んだ奴と出会ってばかりだった。
佩刀歪は勿論、転寝棗や転寝鈴蘭。梅雨利東子だって何かと面倒事を起こす。
再度溜息をつく。疲れるのは嫌いだ。
俺は蒲団から起き上がる。
○○○
「ちーす」
梅雨利東子が来るのと、バスが到着するのはほぼ同時刻だった。
五月だというのに、結構熱い。そのせいか梅雨利は半袖にジーパンとラフな格好だった。俺も似たようなもので、無地のTシャツに、同じくジーパンといった身なりだった。
白いリボンを揺らして、バス停のベンチに座る。梅雨利は大欠伸をした。
「バス、来てるぞ」
「分かってるよー、そんなこと」といって、寝る。梅雨利は昏々と寝入った。
「……起きろよ」
「寝たいよー」
「バスの中で寝ろ」
「りょーかい」と梅雨利は千鳥足で立ち上がった。ふらふらと体が左右に揺れて不安定だった。そして、予想通り、路傍の石につまづいた。ちょうど俺のほうに向かって転倒したので、受け止めてやる。梅雨利はそのまま瞼を閉じた。
その姿に苦笑する。「寝てないだろ、おまえ」
「君に電話してからずっと、寝ずに起きてた」
「夜更かしは体に悪いぞ」
「禁じられたことは何でもしたい性質なの。ボーイズラブとか、近親相姦とか萌えだよね」
あまり意味が分からなかったので、曖昧に頷いておいた。
そうして有耶無耶にしたまま、乗車する。先に窓際に座ると、その隣に梅雨利が座った。
「どこに行くんだ?」
「商店街」
それも当然か、と思った。基本的にバスが停留する場所は日和見商店街か、深山の手前くらいしかない。わざわざ公共交通機関を使ってまで、場末の土地に行く道理もない。
コテンと肩に何かが当たる。それは梅雨利の右頬だった。どうやら寝ついてしまったらしい。
窓際に頬杖を突く。窓から見える光景は山気で充足していた。
三十分ほどして、バスがとまる。梅雨利の肩を揺さぶって、下車。
「うーん、よく寝たなぁ。やっぱり睡眠は重要だね」
あまりにも分かり切ったことをいうので、特に反応はしなかった。それが不満だったのか、梅雨利は怒気のこもった目を向けた。しかしすぐ柔和になる。梅雨利はコロコロと表情が変わるのだ。「かくして勇者一行の冒険は始まる」
「……なんだ、それ?」
「寝る間を惜しんでやったゲームの冒頭句。やたらと魔王が卑怯なのよ、あれ」
興味があるなら貸してあげてもいいよ。
といってきたが、当然断る。そもそも我が家にゲーム機はない。なのでできない。
「ならゲーム機ごと貸してあげるけど」
「……いいのか?」
それならば梅雨利はゲームをプレイすることが出来なくなる。
しかしその心配は杞憂だったようで、「大丈夫。二つあるから」と梅雨利は自慢げにいうが、不意にしょぼくれた顔つきになった。「けどあれだよね。一人で通信プレイやるってのも乙なもんだよね。心が荒みそうだよ。もう荒んでるから、その心配はしなくていいけど」
梅雨利は、「むー」とか、「いー」とか、変な鳴き声を上げて、虚空を睨んだ。周りの人は、奇異なものでも見るかのように、眉をひそめた。加えて、隣に俺がいるものだから、脱兎のごとく逃げていった。
「あー、今何か変なこと考えたでしょ! こいつ、さびしい奴だな、青春してない奴だな、とか考えたでしょ! そうよ、友達なんてほとんどいないのよ。そもそも友達なんているの? 喜びに二倍、悲しみ半減なんて、バカじゃないの? 友達がいて人生が豊かなものになるの? ……なるに決まってるじゃない、もう!」
梅雨利は勝手に自己完結した。
「そんなことよりも早く行きましょう。そんなに長くはかからないから」
と。
そんなことをいわれて連れてこられた場所は、見覚えのあるところだった。
薄暗い路地裏。よどんだ空気。湿気た壁。
「さて、今日はどんな掘り出し物があるかなぁ」
そこは。
柚子原堂だった。
入店を躊躇していると、梅雨利は不思議そうな顔をした。「どうしたの? 入らないの?」
「……遠慮する」
「分かった。怖いんでしょ? 篝火君って意外にお化けとか苦手なタイプ?」
確かにお化けは苦手だ。けどここはもっと苦手だ。少なくともこの身ぶるいは武者振りなどではない。
「ふーん。まあいいか。なら外で待ってて。結構時間がかかるかもしれないけど」
小さく頷く。すると梅雨利は、俺を一瞥することなく店に入った。興味の対象は俺から柚子原堂に移ったらしい。
……怖いもの知らずか、あいつは。
過去に柚子原堂に入店したからこそ分かる。
この店は危ない。
それは虫の知らせでもあるし、第六感のようなものでもある。
いそいそと路地裏を出る。そうして遊歩道へと向かい、そこら辺の壁に背を預けた。右手をポケットに突っ込んで、無気力な瞳を前に向ける。
眼前では多くの店が軒を連ねていた。繁盛しているのか、客の往来が激しい。轟然と客引きの声が行きかっている。
その異変に気づいたのは、多分俺が初めてではない。
俺の立つ壁のはす向かいにある書店。その脇にある路地裏からくぐもった悲鳴がした。
何かが引きずり込まれていくのが見える。
それはロングスカートと長袖のワンピースを身に纏った、矮躯の少女だった。長めに切りそろえられたショートボブは乱れ、苦悶と恐怖の表情を浮かべている。
そして。
消えた。
周囲に視線を送る。数人気付いているようだが、助けるような素振りはない。それに耐えがたい憤怒を覚える。
しかしながら、誰だって厄介事に巻き込まれるのは嫌だ。好きで首を突っ込むバカは、そうそういるものじゃない。大体の人は、他人のことを顧みずに、今を生活している。それはきっと、賢い生き方なのだろう。
それでも。
そんな思考が罷り通る社会はどこか間違っている。そして、人々はそれを悪だとは思わない。仕方のないことだと理解する。そんなのは正義じゃない。誰かを傷つける正義は正義とはいわない。そんな正義は掃き溜めにでも捨てておけばいい。自己保身ほどくだらないものはない。
舌打ちして、路地裏へと駆ける。
なんでこういうことになるんだ、と神か悪魔か、はたまたそれに類する万能な何かに問いかけながら。