第二十三話 〃 6
「そういうことっス。先輩のご想像通りっスよ」
転寝棗は赤子をあやすように少女の頭を撫でた。そして、安心させるような口調でいう。「もう大丈夫っスよ。お姉ちゃんが来たからには、もう大丈夫っス。誰も鈴蘭を傷つけさせる真似はさせないっスから、安心してくれっス」
鈴蘭と呼ばれた少女は、恐る恐る顔を上げた。
「……本当? お姉ちゃん……」
転寝棗は少女に微笑みかけた。慈しむように黒髪を梳く。まるで聖母のようだった。
「本当に決まってるじゃないスか。お姉ちゃんが鈴蘭に嘘つくと思うんスか? そんなこと、天地がひっくり返ってもありえないっス。それにこの人も、見た目は金髪で釣り目のどうしようもない男っスけど、意外に優しくて割といい人だったりするんスよ」
「……違うよ」
そう反駁した。気がついたら口にしていた。
自分にそうした甘い認識を持ったことはない。転寝棗の証言は準拠のないものだった。
そもそも篝火白夜と転寝棗を結ぶ糸は限りなく細い。出会いもまた、やや一方的なものだった。そのせいか、転寝棗は篝火白夜の本質が見えてないのかもしれない。
篝火白夜は済度しがたい愚か者だと、自分でも思う。純粋にそう認識している。
その上平凡だった。それらしい取り柄もない。
風体はもはや不良のそれだが、どこか中途半端だった。不良にすらなりきれていない。不良とははぐれ者。悪くいえば不良品だ。
ならば、篝火白夜は不良品にすらなれないということなのか。では、篝火白夜とは何なのか。
欠陥品なのか。
初めから何かが欠けている欠陥品なのか。
「……そんな、屈折してるっスねぇ」と転寝棗は少女の頭を撫でながらいった。「そんなに自分を苛めなくてもいいと思うんスけど」
転寝棗は片目を釣り上げて、俺を見た。なんだか思考を読まれているように感じる。
「……おまえたちはその、姉妹なのか?」
「というよりあれっスね。双子って奴っス」
双子。
その一言で全てのことが感得できた。どうやら転寝棗と少女――転寝鈴蘭は双子の間柄であるらしい。
「……どうりで背格好が似ているはずだ」
「そりゃぁ、双子なんスから、似ていて当たり前でしょうに」と転寝棗は溌剌とした笑みを浮かべた。
転寝鈴蘭のほうも落ち着いたようだった。転寝棗に断って、やおら立ち上がる。
そして。
こちらのほうに向いた。目には相変わらず怯えが混じっていたものの、毅然とした表情だった。
「そ、その……。すみません。いい、いきなり、泣いちゃって……」
転寝鈴蘭のような反応をする奴は少なくはない。目性の悪い目で注視されれば、誰だって怖い。さすがに転寝鈴蘭の反応は行きすぎてはいる。いるが、俺にそういう意志がなくとも、そう勘繰らせてしまうのかもしれない。
一歩、進みでる。転寝鈴蘭は唇を噛んで、顔を伏せた。その際に眼鏡が少しずれる。
やはり怖いのだろう、と思う。一般人にとって、俺のような理解不能な存在ほど恐ろしいのはない。それは本能的な恐怖に訴えるものだった。髪を染めたり、授業をボイコットしたり……。そんな奴の気が知れない――という思考に帰趨するのはやむをえぬことだ。
理解できないということは、枠組みから外れているということだ。篝火白夜は、常識の範疇外にいる存在なのだ。
論外。
例外。
埒外。
篝火白夜は外の人間なのだろうか。篝火白夜とその他大勢が共有できる領域はほとんど、ない。そういう意味では相互不可侵が望ましい。互いの異なる領域に足を踏み入れるべきではない。だから、他人は篝火白夜に干渉してこない。
理にかなった道理――その裏側に篝火白夜は住んでいる。
「これ、読みたいんだろ」
「あっ、はい……」
転寝鈴蘭は戦々恐々と、一冊の本を受け取った。小動物のように身をすくめながらも、小さな笑みを浮かべる。よほど読みたかったのだろう。転寝鈴蘭はその本を胸の前で抱きしめた。
「ああ、ありがとう、ございます……」
「どういたしましてって奴だよ」
そう言うと、転寝鈴蘭は呆気にとられたような顔をした。不思議そうに俺を眺める。珍妙な生物を見たかのように首を傾げた。
「……なんかおかしいか」
「いっ、いや、その……。なんでもない、です」と転寝鈴蘭は再度俯いた。それでも大事そうに本を抱える。前髪で表情を視認することはできなかった。
ただ。
転寝棗だけが、気味の悪い笑みを浮かべていた。
「なんだよ?」
「なんでもないっスよ」
何かあるだろ、とは思ったが、特に詮索はしなかった。
と。
「……これは一体、どういう状況なのですか」
佩刀歪のやけに低い声が聞こえたのは、その折のことである。
○○○
「けどまあ、立ち話しもなんスから、とりあえず、座りましょうよ」
転寝棗はなだめるような口調でそういった。
図書館は静寂に包まれていた。それも緊張感を伴う静寂だった。盲滅法静かだった。
「……そうですね」と歪は不承不承頷いた。その後、俺のほうに視線を投げかけた。
首肯すると、何とも言えない表情を作った。
「鈴蘭もいいっスね?」
「……うん」
転寝鈴蘭は視線を下げた。取り残された迷子のように周章する。第三者ならぬ、第四者の介入に戸惑っているらしい。それは転寝棗もそう思っているようだった。
俺と佩刀歪、そして転寝棗と転寝鈴蘭は、長テーブルに向かい合った。俺の隣には佩刀歪。向かい側には転寝姉妹といった図だった。
テーブルの上には大量の本が積み重ねてあった、年代物なのか、すえたようなにおいがする。それは能楽や歌舞伎のような、日本芸能の書物だった。転寝鈴蘭の近くに置かれている辺り、どうやら転寝鈴蘭のものらしかった。
「転寝家は日本舞踊の名家です」と歪が小声でいった。
佩刀歪はやはり、転寝鈴蘭とも面識があるらしい。対人関係が苦手そうな転寝鈴蘭は、最初こそ困惑したものの、今は落ち着きを取り戻していた。
篝火白夜。
佩刀歪。
転寝棗。
転寝鈴蘭。
時計を盗み見れば、五時半を過ぎた頃だった。日も落ちかけている。図書館はオレンジ色にくすんでいた。
歪はいつも通り、無表情だった。ただそれは、いってみれば能面のようなものだった。能面には筋肉の動きはない。けれど、陰影や見る角度によって表情が現出する。
そんな歪は開口一番、「最近よく会いますね」と転寝棗に向けていった。
「そうっスよねえ。よく会いますね、佩刀先輩にも篝火先輩にも」
それは俺も思うところだった。よく、この子と会う。
転寝棗は軽薄な表情を張りつけていた。一年生だから俺よりも一個下。十五歳。そして転寝鈴蘭も十五歳くらいだろう。
対する転寝鈴蘭はというと、虚ろな瞳で卓上を凝眸していた。机には無数の原稿用紙があった。それには端麗な筆致で文字が綴られている。脇には筆記用具があった。
何かを書いていたのだろうか。
「白夜様はどうして、棗ちゃんと知り合ったのですか? 私の知る限り、白夜様と棗ちゃんは初対面のはずなのですが」
「なんでそう思うんスか? そうとも限らないと思いますけど」
「私は四六時中、白夜様に付き従っていますから、変だと思っただけです」
「……それって軽い惚気っスか? 本当、仲がいいんスね、お二人とも」
「愛が深いだけですよ」
さらりという。真顔でいうから、なんだか怖い。
「確かおまえが来たの、昼休みだっただろ」と転寝棗を見て、「多分、歪は生徒会活動をしていたから、知らなかったんじゃないか」と歪を見て、いった。
「……そうかもしれません。そういえば、最近は昼休みの活動が多いように思います。しかし、その、感心しませんね。私以外の女の子と会うのは」と歪は横目で睨んだ。むすっとしている。「できれば、私以外の人間との会話量を減らしてくれると助かります。その分、私が白夜様を独占できますから」
「……うわぁ」と小声で呻く。それは転寝鈴蘭の声だった。歪の発言に、異常なものを感じたのだろうか。若干、怯えている。
歪はそれに気づいてないのか、淡々とした口調で問うた。「それで、どういった経緯があるのですか?」
「……分かりました。そうですね――とある昼休みのことっスね。鈴蘭にちょっと話したいことがあったんス。鈴蘭はここ毎日、図書館で演劇の原稿を書いてたんスよ」と転寝棗は、一旦話を切って、「ああ、あらかじめ断わっておきますけど、こう見えて鈴蘭は演劇部っスから」といい、転寝鈴蘭のほうに視軸を合わせた。転寝鈴蘭は恥ずかしそうに体を縮こまらせた。
どうやら、テーブルにある原稿用紙は台本の草稿であるらしかった。「おまえ、脚本家だったのか?」
「はっ、はい……。そうです」
俺への恐怖心はいまだ払拭しきれていないようだ。目を合わせようとしない。視線は常に下を向いている。
不快だとは思わない。別にいい。慣れてる。
「けど遺憾なことに私、図書館の場所が分からなかったんスよ。痛恨の極みっスね。それで学園内を東奔西走してたんスよ。先生に聞けばすぐに分かるんスけどね――。けど私、バカですから、その考えを失念してたんス。で、走り回って、気がついたら中庭にいたんです。そのとき偶然いたのが――篝火先輩だった、というわけっス。篝火先輩の噂はかねがね拝聴していましたから、一発で先輩だと分かりました。金髪で釣り目で細身。悪魔のように凶暴で、手のつけられない悪漢――そう聞いてましたから。それでこれも何かの縁だと思って、声をかけたわけっス。というより、図書館の場所さえ聞ければ、誰でもよかったんですけどね」
「そうだったのか。それでよく声、かけたな」と左側に視線を向ける。歪は難しそうな表情で、転寝棗と転寝鈴蘭のほうを凝視していた。
「そうして知り合ったわけですか?」
「知り合った、手ほど大層なものじゃないとは思うっスけど、それが始まりではあるようですね」
歪は不機嫌そうに唇を曲げた。それは普段の歪ではなかなか見られない表情だった。
目が合うと、「うぅ」と歪は変な声を上げた。猟師を前にして悲しく鳴く小鳥のよう。
「おまえは何か部活動をしてるのか?」と気になって、訊いてみる。
「してますよ。私は“天体観測部”っス」と転寝棗は答えた。「天体観測部は演劇部とは違って、適当っスからねえ。一週間に一回あるかないかっていうレベルっスから。それでも夜の屋上が使い放題っていうのはいいっスね。お買い得っス」
夜。
脳内で綺麗な黒髪が再生される。
「白夜様。そろそろ行きましょう。あと少しで図書館も閉まることですし」
「何時に閉館するんだ?」
「六時でございます」
「あと三十分もないな」といって、立ちあがる。「転寝たちも、出たほうがいいんじゃないか」
「私たちはもう少し粘るつもりっス。――それと佩刀先輩」
いきなり自分の名を呼ばれたからか、歪は眉をひそめた。「なんですか、棗ちゃん?」
転寝棗はふいに淫靡な表情で、「二人はどこまでいったんスか?」と禁断の質問をやらかした。
歪のほうを見る。無表情ではあるが、わずかに口角が緩んでいるのが分かる。ずっと傍にいたためか、表情に乏しい歪の機微がなんとなく分かるようになっていた。
「それは」
と。
歪が何かをいいきる前に、その口を手で塞いだ。「バカか、おまえは」と耳元でいって、歪の体を引っ張る。先手を打った俺は、歪を強引に図書館からエスケープさせた。
図書館から出て、夕日が漏れる廊下まで逃げる。
歪は特に抵抗しなかった。おとなしく引きずられている。
それでも不満はあるのか、「何をするのですか」と口を尖らせる。「別に隠すほどのものではないと思いますが。セックスもまだ未体験なのですし、したことといえば、舌を入れた接吻くらいでしょうに。それともあれでしょうか。したいのですか、白夜様? 棗ちゃんの質問を聞いて、今すぐしたくなったから、こんな人気のない廊下に私を誘ったのですか? そうであるなら喜んで、して差し上げます」と首に手を回す。歪は卑猥な音を立てて、舌舐めずりをした。
「バカか、おまえは」と再度、額を小突いた。