第二十二話 〃 5
幸福とは何だろうか。
ふと、思う。
幸福とは極めて主観的なものだから、定義するのは難しい。だからといって、客観的に見てみても、解明することはできないと思う。
本人にとっては嬉しいことでも、他人にとっては些細に感じることもある。
幸福や不運は個人の価値観に委ねられる概念だから、厳密にいえば狭義はない。あるとしても、精神的なものを依拠させて成立する。
では。
俺は――篝火白夜は?
人の人生は悲喜交々、なんていう。
嬉しいことと悲しいこと。
悲しいことと嬉しいこと。
交互にやってくる。緻密に交錯する。
ただ。
篝火白夜の人生に特筆するべき項目はない。表立って誇れることも、ない。
嬉しいこと。
悲しいこと。
あるにはある。けど、常人に比べれば、恐ろしく、少ない。
それでも生まれてこのかた、いいことなんてなかった、と憤慨したことはない。不幸なことだとも思わない。
何もしないことこそが最大の失敗だ。
その典型的な例が篝火白夜だった。篝火白夜はこの世に生を受けてから、生産的な行動をとったことがない。積極的に物事をしない。何もしない。堕落しきった生涯を送って、夢もなく愛もなく、死に絶える。
何かを成し遂げることもなく。
何かをやり遂げることもなく。
近道も遠回りもすることなく、終息を迎える。
けれど。
だからといって、全てのものが無価値だとは思わない。何もかも無意味だから、何もしない、なんてバカなことはいわない。
無意味だから無価値だとか。
無価値だから無意味だとか。
そういった思考は現実逃避だと、自分では理解している。少なくとも無駄であるとか、無益であるとか、そんな帰結にはいたっていない。
今まで自分の行動を悔いたことはない。
無意味だとか。
無価値だとか。
なんて思ったことも一切合財ない。無駄であるとか無益であるとか、やっぱり思わない。何かすべきだった、と後悔もしてないし、何もしなければよかった、なんて絶対に思わない。
それだけはいえる。
○○○
図書館は紙のにおいがした。四方八方、群書で埋め尽くされている。
内部は木造で、中央には長テーブルがいくつか並んでいる。人気はあまりない。
二階にあるせいか、窓からは西日が深々と入っていた。それが机やら本棚などを鮮やかに照らしていた。
「ジャンル等のご希望はございますか」
「特に、ない」
「私の一存で決めてよろしいのですか?」
「構わない」
「分かりました。では、白夜様」
歪はゆっくりとした動作で前に進み出た。そのまま数歩先を行く。光彩陸離とした黒髪が艶やかに揺れる。
その後ろ姿に随行する形となる。
歪は奥のほうへと向かった。悠然とした所作。涼やかな存在感が充溢している。それは後ろ目にも分かった。
本が立ち並ぶ棚の前で立ち止まる。歪はしばし黙考した後、おもむろに一冊の本を引き抜いた。「これはいかがでしょうか。それほど厚さはありませんし、中身も簡易なものです」
受け取る。パラパラとめくってみた。「これにする」
「……それでいいのですか?」と歪は困惑した声を出した。至極あっさりと決めるものだから、拍子抜けしたのだろう。
これといった憑拠はない。歪の説明通り、この本はさほど厚くない。百何ページくらいだろうか。枕本の『壺中の天』と比較してみても、その違いが分かる。中身も簡略としたものなのだろう。
何より歪が推す本なのだから、充実した内容なのだと思う。それだけで一読の価値はある。
ではなぜ、歪が書籍を薦めるのか。
その理由は本日の午前中にまで遡る。
杜若が萌え出る砌であった。
隣には川が通っている。その河畔に沿って、俺と歪は歩いていた。家を出たのは八時くらいで、後数十分もすれば、学校に到着する頃合いである。
もはや通例とかした行動。いつものように隣り合って登校する。
「そういえば、白夜様」と歪は声をかけた。「あの本は読み終えましたか」
あの本とは『壺中の天』のことだろう。「まだ」
「まだでございますか」と歪はいった。
『壺中の天』というのは、柚子原堂なる店で仕入れた古書だ。奇妙なことに購入――というか、店主らしき老婆に譲渡された。譲渡の字義通り、代金は払っていない。
前回歪に貸したことがあったが、歪は一週間程度で読み終えてしまったらしい。それに子供っぽい敵愾心を燃やして、読了に励むも――断念。本を読む習慣がないからだろうか。通読は困難を極めた。一応五割ほど読み進めることはできた。――できたが、それ以上は無理そうだった。
「随分とお時間をおかけしているようですね」
「読めない――と素直にいっていいぞ」
「ご冗談を。けれど確かに、あれはいかにも難読な書物ですから、無理もございません」と優しくいって、「あれは難しすぎます。まずは簡単なものから読み進めるのが上策かと」と付け加えた。
そう思う。せっかく読書を趣味にしようと決めたのだ。ここで挫折しては、なんだか歪に申し訳がない。
しかし。
だからといって、どういった本が簡単なものなのか、判断がつかない。何事にも食わず嫌いだったからか、音楽同様に文学という分野にも暗かった。今何が売れているのか、どういった本が流行しているのか、杳として知れない。
「何がいいと思う?」
「そうですね……。正直にいえば、私も詳しくは知らないですね。白夜様がよろしければ、放課後に図書館にでも出張るというのはどうでしょうか。ある程度の蔵書はあるでしょうから、そこから本を選んでいくというのは」
「なるほど」
「いかがでしょうか」
さほど逡巡することなく、「そうする」というと、「了解いたしました」といった返事が返ってきた。
そういった流れを汲み、今に至る。
俺は歪が薦めてくれた本を片手に、図書館の本を物色していた。面白そうな題名の本があれば手に取り、紐解いていく。歪の言葉通り、蔵書量は並ではないようである。
二メートルほど前方では、歪が分厚い本を興味深そうに読み込んでいた。立ったままの姿勢で読み耽っているようだった。俺にはとても手に負えそうにないレンガ本である。
どうやら歪は重度の読書家のようだった。
引き出した本を元に戻す。そうして食指を動かしていると、横から手が伸びてきた。
左側に視線を向けると、一人の少女が爪先立っていた。欲しい本が高いところにあるのか、必死に手を伸ばしている。あと数センチほどで届くのだが、届く気配はない。それでも懸命に足の先を立てて、伸びあがろうとしていた。
少女は小柄で、長袖を着ていた。制服の袖が細い腕を覆っている。その横顔には見覚えがあった。
体を少し移動させて、すうと本を取る「これか?」
「あっ……」
少女は気の抜けたような声を上げた。その後、俺のほうに顔を向ける。するとその表情は痙攣したように引きつった。
それがあまりに予想外の反応だったから、面喰ってしまう。目の前の少女はひひぃ、と呻き声を上げて後ずさった。眼鏡越しに涙があふれている。
「……あれ?」と変な声を出す。「おまえ、転寝じゃないのか」
なるべく威圧しないように優しく問いかけたつもりだったが、ますます少女はおののいた。しきりに、「ごめんなさいごめんなさい私がいけないんです許してください許してください」とうわごとのように呟いている。目には恐れと不安の色が浮かんでいた。足は小刻みに震え、弛緩しきった筋肉は、その役割を放棄したように動かない。
「ダメ許して許して私を助けて助けて助けて私が悪かったから何もしないから抵抗しないから何もしないでやめてやめて」
瞳孔を拡大させて、少女は早口でまくし立てる。
その尋常でない雰囲気と、頭の中の人物像は明らかに乖離していた。しかし、身体的な特徴は驚くほど類似している。身長も体型も容姿も。ほぼ一緒。
ただ。
眼鏡という点だけが違う。記憶の中の転寝棗は裸眼だったが、目の前の子は眼鏡をかけている。
――転寝棗じゃない?
他人の空似、というレベルではない。眼前の子は前に出会った転寝棗とそっくりだった。
まじまじと凝視する。少女はなおのこと後退した。その拍子に尻もちをつく。スカートから覗く足はあられもない。そのままずるずると後ろに下がった。
ひどい狼狽ぶりだった。
「あーあ、何やってんスか。そんなに鈴蘭を驚かさないでくださいよ」
と。
やけに能天気な声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
泣き崩れた少女は、脱兎のごとく音源のほうに飛んでいった。たちまち紅涙を絞った少女が、別の少女の腰にすがるという構図が出来上がる。
図書館。本。転寝。鈴蘭。お姉ちゃん。
……お姉ちゃん?