第二十一話 〃 4
「いつもいつもすみません。こうやってお姉ちゃんを運搬してもらって」
梅雨利の家は開豁とした地形にあった。小高い丘の上に建てられていて、見晴らしがいい。奥深い森や散在する住宅が見える。
「まったくもってダメなお姉ちゃんです。いつも誰かに迷惑かけるし、言動も破天荒だし、色々なところでメチャクチャだし……」
「けど、人間らしい奴だよ」とフォローを入れる。それ以上いうのはかわいそうだった。
俺もそう思うけど。
「人間らしい人間ってことですか? それじゃあ、本能に忠実な人間になっちゃいますね。こういう人が放蕩娘になっちゃうんですよ。ギャンブルにのめり込んだり、酒におぼれたりするんです」
俺は小さく笑った。「酒といってもオレンジジュースだけどな」
目の前の少女は不思議そうな表情をした。「オレンジジュース?」
「いや、こっちの話だよ」というと、少女はますます小首を傾げるだけだった。
小学校上級生だろうか。梅雨利東子の妹を名乗る少女は見覚えのある制服を着ていた。俺の卒業した小学校と同じ代物だ。
梅雨利家の女性はみなそうするのか、髪をリボンで結えていた。梅雨利東子は純白で、この子は深紅だが。
釣り目に金髪という奇怪な風体に慣れたのか、少女の顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。もっとも、初めに訪れたときでさえも、さほど驚いた様子はなく、また恐れてもいなかった。胆力が常人とはケタはずれなところは姉譲りらしい。見知らぬ怪漢が身内をおんぶしても、眉一つ動かさない辺り、超然としたものを感じる。
「時間のほうはいいんですか。その、部活とかは」
「帰宅部だ」と断る。「だから、その心配はない」
「そうですか。この村は物騒ですから、気をつけてくださいね」と目を細め、仰視した。釣られて、天を仰ぐ。
空はほのかに暗くなっていた。
夜道に気をつけろ、ということなのだろうか。だったら心配は無用。むしろ、あちらのほうから避ける。少なくとも、俺が通り魔に襲われるシーンを思い描くことは出来なかった。
すると少女は、俺の考えを読んだかのように、「そうじゃありません。神隠しのほうですよ」といった。
神隠し。
響きはいかにも旧弊的な風ではあるが、この村の死活問題と呼べるものである。日和見村の神隠し遭遇率は、常軌を逸している。何カ月に一回のペースで誰かが音信普通になっているのは真実だ。
そのせいで、過疎化が進んでいるという見解も出ている。事実、村民はわずかながら減っている。
原因はいまだ分かっていない。この土地の風土なのか、本当に神の怒りに触れたのか。あるいは、何か作為的な動きがあるのか――。
日和見村。
なんにもない、旧態依然とした僻村。日本海に面しており、第一次産業が活発。しこうして、表と裏合わせて、六つの名家に統治された奇妙な村でもある。俺はこの村の出身ではないものの、この村が現代に取り残された、因習だらけの場所であることは分かる。今のご時代に、いまだ鬼払いの儀式である追儺や、穢れを取り除く大祓などの習慣が深く根付いているのだ。それらは平安時代の宮中の年間行事である。それを執り行うのは神主の家系である佩刀家と、素封家の雛道家だ。
この村に住んでいる以上、それらの加持祈祷の類は知識としては知っている。ただ、参加したこともなければ、見に行ったこともない。過去に一度だけ行ったような気もするが、それがなんだったのかはよく覚えていない。しかしながら、儀式の最中に感じた異様な雰囲気に、背筋を寒くしたような。
「誰やたぞ 我が名を知らで 呼ぶ人は いづくの誰や こゝはかみやぞ――なんていいますからね。家の門にお札を張っておくと、妖怪は近づかないらしいですよ」
「それでも、相手が神様なら、お札程度じゃ分が悪い。だろ?」
「ですね」と少女は、にっこりと笑う。
小さく笑みを返して、少女に背を向けた。そのまま帰路につく。
夜気が迫って来ていた。
薄暗い。数少ない街路灯がぽつぽつと明滅している。夕日は完全に傾いていた。
わずかな光を頼りに道を行く。
すると。
公園があった。
キィキィ。
音がする。ブランコの音だろうか。金属がすれる音だ。
頭上では皓月が鮮やかに輝いている。
月光が陰影を切り取る。
白と黒。
その間に。
誰かが。
「こんばんわ」
少女は笑った。
闇に混じるような黒髪。月夜にひときわ煌めく漆黒の双眸。服装もまた黒一色で、ビロードのようなワンピースを着ていた。
ブランコが緩やかに動きをとめていく。やがて停止。少女の輪郭が明確になった。
どこか浮世離れした光景だった。現実と乖離している。少女の存在は明らかに異質なものとして映った。
「どうかしたのかしら?」
と。
少女は問う。
音はやんでいる。何もない。無音。
少女はブランコに座っていた。整った容顔が俺のほうを向いている。頭がかき乱される。少女の視線は魔性だった。何かを歪ませた者の目。世を厭い、今を憂い、人を倦む者の――。
少女の目には何も映っていなかった。無機質で非人間的な眼球は、ただの水晶玉だった。それには感情らしき情動も、人としての脆弱さも、何も窺えない。人形に生を与えたら、きっとこの少女のようになるだろう――という予想が芽生えた。
人は、弱い。
エセ占い師の実母は、いつもそういう。人間の嫉妬や、害意や、恐怖や、偏見は、全て無意識のうちに行われる。人は生まれながらにして、何らかの欠陥を抱えて生きている。周囲の人間はおろか、当の本人も気づき得ないそれは、確実に人を誤った方向へと導く。
愚かしい人生。
くだらない人生。
その行く末を決めるのは、本人の意識でも見識でもない。まして、運命や因果なんていう、眉唾物でもない。
それは、弱さだ。弱さは人を変える。悪しき者へと変貌させる。弱さは悪の象徴だった。
根本にあるのは、生物としての弱さ。
そして。
人格としての弱さ。
パーソナリティーとして定着してしまった、その人特有の欠陥。様々な負の感情として発露し、恒久的に曲がり続ける不定形のもの。
ただ。
この少女には、ない。無意識に潜む、何かがない。
それは異常なことだ。
それは。
やはり、目を見れば分かることだった。
魔女のような風貌だからか、年齢はよく分からない。少女にも見えるし老婆にも見える。年齢不詳。
「おまえ」と問いかける。「誰だ?」
「夜」
キィキィ。
ブランコの音。
月影が揺れる。
「夜?」
「そう、夜」
少女の折れそうなほどに細い手が、ブランコの鎖を掴んでいる。カラスの濡れ羽のような黒髪が空を切った。
それはお伽噺のように不自然な光景。どこか嘘の香りがする、日常とは遊離した世界。
その中心には夜と名乗る少女。彼女がこの世界を顕現したのか。
視ようとしても、見えず。
聴こうとしても、聞こえず。
幼稚な作りの滑り台や水飲み場、鉄棒はいつの間にか視界に消えていた。知覚できるのは少女と軋むブランコの音。
「あなた、変わった髪の色をしているのね」
「金髪が珍しいか」
「そうじゃないのよ。ただ、不吉な色だわ」
「なぜ、そう思う?」
少女は己が髪の先をいじりながら、答える。「金はすなわち、黄昏。夜が始まる少し前の、一刹那。そうだとしたら、それは老化を象徴する色。終焉へと向かう兆候だからよ」
「だったら、黒はどうなるんだよ?」
「思うに、死の色だわ。あなたが時間を暗示させる老化の化身だとしたら、私は死を啓示させる死神になるでしょうね」
少女は興じた。長い眉毛が添えられた瞳は、下を向いている。どうやら笑いをこらえているらしかった。
今のどの箇所に笑う要素があるのか、俺の関知するところではない。というより、意味が分からない。
だからか、「どっちだって一緒だろうが」と思ったことを口にする。それでは身の蓋もないと、分かっていながらも。
「そうね。そういう解釈も一理あるわ。あなたのいうとおり、終着点はやっぱり同じよね。この設問に結論を与えるとすれば、その回答が一番しっくりとくる。当たり前のようだけど、やっぱり答えはシンプルなほうがいいわ。何事も簡潔に。老いも死も、無意味な人生を削ってくれるものね」
少女は狐のように、妖しげな笑みを浮かべた。
「春の季節になると、雨後の筍のごとく、大量発生するんだな」と同じように、笑う。「命を粗末にすると、それ以上のものを失う破目になる。そしておまえは、それを分かっていない。違うか?」
「違わないでしょうね」と再度笑った。
白皚々たる雪肌。肢体はしなやかで贅肉がまったくない。身長は思いのほか高いようだ。
公園の入り口で立ち尽くしていた。
少女との距離はそれほど、ない。
名月の赫灼。おぼろげに辺りを照らす。
「世のなかは空しきものとあらむとぞ この照る月は満ち欠けしける――万葉集の一首よ。歌意は分かるかしら?」
今日はやたらと和歌を聞く日だと思いながらも、「世の無常を説いた句だな? 世の中の虚しさを教え諭すために、月は満ち欠けを繰り返すのか――そんな意味だろ?」と答える。歪に薫陶されたのか、古典文学に対する造詣が、日に日に深くなっているような気がする。「おそらく、僧が詠んだものなんじゃないか?」
「私も同意見ね。外見の割には博識じゃない」とからかうようにいわれる。
「最近の不良は勉強も出来るんだよ」と無駄口を叩く。
公園の壁に背を預ける。上を向いてみると、早くも星が出ていた。田舎はあっという間に夜が更ける。空気は清澄で、清々しい。
「なかなか面白い話を聞けたわ。でも、そろそろお別れね」
視線を下げる。
すると。
いなかった。
少女は忽然と姿を消していた。
キィキィ。
ブランコの揺れる音だけが聞こえる。
夜の帳はおりつつあった。
何かが抜け落ちた世界。落剥した何か。
はあ、吐息をついて、公園の壁から背中を離した。