第二十話 〃 3
朝が来るのは嫌だ。
起床するたびに思う。悔恨と諦念。そういった感情が自然と湧きあがる。なぜだろうか。
篝火白夜の今日は昨日だからだろうか。
昨日と今日と明日。一次元的に連続しているそれは、一本の道に例えられる。人にとっては狭い道もあるし、広い道もある。目の前に枝分かれした道もあれば、一本道のままの場合も多々ある。そもそも地質や周りの光景が違うことも多い。十人十色。百態だ。
ただ篝火白夜の場合、それは道ではなく一つの輪だった。
輪には始点も終点もない。繋がっているだけだ。
まっすぐ歩いているはずなのに、元いた場所に戻る。風景もいつの間にか見覚えのあるものになっていく。そしてなぜか、目の前に足跡がある。それも自分の足跡だ。
はて、どうしたものか。そう思いながらも、特に気にすることなく進む。少なからずの疑念や懸念はあるものの、そういった思考を棄却していく。考えるという行為は、存外エネルギーを使うものだ。無駄遣いをしてはいけない。黙々と歩き続ける。
そうした無為な繰り返しで、俺の人生は作りあげられる。
昨日は今日で、今日は昨日で、明日は昨日。
厳密にいえば違う。けど、大局的には変わらない。そうした日々を送っている。毎日の反復作業。明日はベルトコンベアーのように流れてきて、使い終わった昨日は明日のために再利用されていく。
麻特有の倦怠感も、感じ慣れたものだった。
日輪の光を浴びて、のっそりと起き上がる。洗顔して歯磨きして、朝飯を食べる。その折にテレビをつけて、ぼーっとする。それが篝火白夜の朝。
朝食はジャムを塗ったトーストという、お粗末なものだった。かれこれ一週間近く、それだ。
不満はない。俺にとって、食事は娯楽を伴ったものではなく、生命活動のために作業に過ぎなかった。
それでも時々――というか毎日、歪が朝食を作りに来てくれる。それはあんまりだと思うから、最近は自分で作っている。それでも、歪の料理が恋しくなるときはある。歪の手料理は例外なくおいしい。
耳から雑音が飛び込んでくる。内容は頭に入らない。耳から耳へとすりぬけていく。開きもせず毎朝テレビをつけるのは、なんとなく。というより習性だろうか。
パンを食べ終わる。暇になったので耳を澄ますことにする。聴覚がニュースキャスターの声を拾った。
それは聞き馴染んだニュースだった。
鬼隠しのことである。
朝の情報番組は鬼隠しが鳴りを潜めつつあることを伝えていた。その旨をニュースキャスターが抑揚のない口調で読み上げる。
「それもそうだろ」
と。
思わず口にする。俺はこの事件の顛末を知っている。
……顛末といっても、犯人の正体くらいだが。
練絹玉梓の輪郭や性格。それが脳内に想起される。初めは曖昧模糊のように思われたが、ことのほか明瞭だった。
本来記憶というものは劣化していく。月日がたてば忘れもするし、それが不快な記憶だったら無意識に封印もされる。忘れるという行為は人間に残された防衛本能の一つでもあるからだ。
けれども、彼女のことを完全に忘れ去ることは出来なかった。印象が強烈だったからだろうか。それともメモリーが余っているからだろうか。忘れようにも、いまだ記憶の貯蔵庫は有り余っている。忘却というのは多すぎる記憶を刷新するために行われるものだ。しかし、俺の場合、記憶の積載量はそれほどない。刷新されることなく、保存されていく。空白の部分が大量にある。だから忘れない。
記憶力がいい、というわけでもない。博覧強記とも違う。たぶん、忘れたくないんだと思う。
彼女のことが。
生きた証が人の胸に残る、なんてキザな言葉を吐くつもりはない。しかし、共感はする。いかにして人の心に何かを残せるか。
……付言しておくが、練絹玉梓は死去したわけではない。詳細は不明だが、精神病棟にいるらしい。夭折して墓の中にいるわけではないのだ。
そうして夢想に耽っていると、またまた聞き覚えのある名がテロップとして出てきた。
――前日未明、名伽家の長姉である名伽狭霧氏に捜索願が提出されました。警察の調べでは、これといった手がかりは発見されておらず、早くも行方不明が危ぶまれている模様。これまでの名伽氏の行動に不可解な点はなく、捜査は暗礁に乗り上げているようです。一時期流言飛語だと思われていた神隠し。よもや神の怒りに触れたのではと、巷間で囁かれているようです。これは人為的な策謀なのでしょうか。それとも人知の及ばぬ神の悪戯なのでしょうか。それでは専門家のご貴意を仰いでみましょう。専門家の――
画面には初老の域に達した男が長広舌をふるっていた。それに対して別の専門家が冗漫な意見を垂れる。議論は四方山話のように雑然としていた。
リモコンを手に取り、テレビの電源を切る。無性に心がざわめいた。
名伽狭霧。
艶然たる華人でもあり、毅然たる武人でもあり、超然たる才人でもある、才色兼備な女。
名伽狭霧とは四月に一度会って以来、顔を合わせていない。なんでも高名な美術コンクールに自作を出展するのだそうだ。特に四月下旬から五月上旬の間に、作品の最終調整に忙殺されているらしい。歪の言によれば、ろくに生徒議会に出席できていない。それだけ心血を注いでいるのだろう。
俺は神隠しといった眉唾物は信じない性質だ。なので名伽狭霧が魑魅魍魎の類にかどわかされたとは思えない。
ならば自発的に行方をくらましたのだろうか。こんな大切な時期なのに。いかにも奇態だった。
なんだか嫌な予感がした。
と。
インターホンが鳴る。歪だろう。手間だろうに毎日迎えに来てくれる。
立ち上がって玄関へと向かう。嫌な予感は雲散霧消していた。
しかし。
くしくもこの嫌な予感は最悪な形で実現する。
名伽狭霧は一週間たっても帰ってこなかったのだ。
○○○
「どうしちゃったのかなぁ、ほんと。わけ分かんないよ」
梅雨利東子はそううそぶいた。
五月十八日。
名伽狭霧が韜晦して一週間たった日のことである。
店内は一切の雑音がなかった。普段ならば回っているであろうシーリングファンは稼働しておらず、テレビもついていない。物寂しい静寂があるだけだ。
「よりによってこの時期じゃなくてもいいのにさぁ。神様も因果なことするよ」
制服姿の梅雨利東子はほろ酔い状態だった。テーブルに突っ伏すように体を預け、酌飲している。コップはたちまち空になった。頬はほのかに赤い。
まあ。
中身は。
オレンジジュースだが。
オレンジジュースで酔いしれた梅雨利東子は延々と管を巻き続けた。「こういうときには神様に祈りを捧げるもんなんだけど、今回は複雑だよねぇ。なんたって先輩を奪ったのは――神様なんだから。これじゃぁ、本末転倒だよねぇ。己が惨めになるだけだよ。神様なんていなくなればいいのにね。しょせん神様なんて人類が作りだした都合のいい道具なんだからさ、創造物としての立場をわきまえてほしいよ。創造物が創造主に仇をなすなんて、三文芝居もいいとこだって。――にしても。本当、なんでかなぁ」
おかわりぃー。
梅雨利は空のコップを差し出した。是非もなく洋卓の角にあるポットに手を伸ばす。ポットの中にはオレンジジュースが充填してある。それを中身のないコップに注いでやった。
ありがとぉー。
梅雨利は盛大にラッパ飲みした。ごくごくと恥も外聞もなく嚥下する。あっという間にコップが空になった。
「警察なんて信用ならないよ。国民のために粉骨砕身するのが公僕の役目でしょうが。さっさと狭霧先輩を探し出してみせてよ。……と、思い出してみれば。そういえば学校も、玉梓に関する供述を伏せてるっぽいよねぇ。警察は警察。学校は学校。結局のところ、両方とも国家の走狗ってわけ? 私たちが納得いくようなきちんとした説明をしてみろっつーの。……けどどうなんだろ。玉梓は今どこにいるのかな? 玉梓の家に行ってみても誰も何も教えてくれないし……。それに学校も警察も委曲を尽くして説明してくれないし……。どうなってるんだか。最近不幸続きだよ、もう」
篝火君もなんかいってみてよぉ―。
梅雨利の目は完全にすわっていた。酩酊しているらしく、カクンカクンと首を上下させている。それに準じて、純白のリボンが揺れた。
……できあがってやがる。
というか、よくオレンジジュースで酔えるな、と思う。アルコール分は入ってないはずだが。
「ただでさえ私、友達が少ないんだからさぁ。もっと私をいたわってよぉ。このままじゃぁ、保健室登校の一人ぼっち野郎になっちゃうよぉ。いや、この場合は野郎じゃなくて――女郎? なんか遊女みたいで嫌だなぁ。妓楼の花魁じゃないんだからさぁ。――って、そうだよねぇ。花魁ちゃんも意味奈ちゃんもどう思うかなぁ。悲しむだろうなぁ。葬式はやるのかな? けどその死体がないんだからどうしようもないか……。鬼隠しもやっと沈静したのにさぁ。今度は本家本元の登場ってこと? これまでの鬼隠しは前座――余興だったってわけ? ならさっさと幕を閉じるのが筋ってもんでしょ」
早く注いでぇー。
酒豪(?)の梅雨利は次なる一献を注文した。もはや酒杯とかしたガラスコップにオレンジジュースを注ぐ。梅雨利は油脂に火がついたように云々した。赤ら顔であれやこれやと意見を述べては、喋り続ける。俺の存在など全く無視である。酒――というかオレンジジュースを飲むなら静かに飲んでほしい。
時計を盗み見てみれば、もう七時半を回ってるところだった。五時ごろに入店したから、すでに二時間以上もの間、梅雨利の無駄話に付き合っていることになる。
梅雨利東子に喫茶店『フィート』に誘われたのは、放課後のことだった。
ちょっと付き合って、といわれ半強制的に連れてこられ、今に至る。こうして益体もない愚痴に付き合っている。
幸い――というか偶然というか、歪は生徒会で忙しいようだった。名伽狭霧の出奔についての事後処理に追われているようだ。そのせいか近頃は一人で下校している。あるいは、今日のように『フィート』で一日を潰すことが多い。
主題はもっぱら、名伽狭霧と練絹玉梓の不可思議な出奔に絞られた。
前者はともかく、後者に心当たりはメチャクチャあるわけで、梅雨利の誘いを断るに断りきれずにいたのだ。
「それにさぁ、それとは別にもう一つの噂が立ってるの知ってる? ん、知らない? そりゃそうだよねぇ。篝火君、友達いないもんね。私とおんなじで。ほんと嫌になっちゃうよなぁ。私って社会不適合者? ディスコミュニケーションだよねぇ、それ。――って、それよりも。それよりもあれだよ、あれ。吊るされた人体模型のことは知ってるよね? ――それくらいは知ってる? それもそうだよね。いや、待って。そういえば君、佩刀さんと一緒に登校してきたけど、もう一人の可愛い子誰? 不潔だねぇ。そういうところは尊敬するよ。あと自分の無能加減を自覚しているところとか、評価に値するね。今のご時代、バカな男が多いから。低俗クズ野郎が跳梁跋扈してるもんねぇ。それに関しては玉梓の兄貴はすごいわ。顔はいいわ、頭はいいわ、運動できるわ、なんでもできるわの完全人間だもん。けどまぁ、彼女いるし。それに欠点がない人間っていうのは、それ自体が不気味だもんねぇ。存在自体が虚構じみてる。狭霧先輩もしょせん虚構だったのかな? あるいは私の幻想、なのかも」
どうやら梅雨利は予想以上に参っているようだった。ついには失ったものを虚構として処理しようとしている。人間の防衛本能の発露か。だとすれば相当弱っている。
梅雨利東子は――意外と脆い。
俺も似たようなものだ。悉皆愚かなのだろう。何もかも。
「信じていたものが実は虚構だった、なんていう話はよくあるもんね。自己と世界の境界線なんて自分で引くしかないんだし。なら私がしたいように世界とやらを作り変えるしかないよ。君だってそうでしょ? けどまぁ、そんなことどうでもいいか。そんなことよりも、私は狭霧先輩のことで頭が一杯だよ。ペンキで真っ赤だもん。ひどいなぁ、もう。学園はその噂でもちきりだよ。狭霧先輩はキャンパスの中に呑みこまれたって。――ああ、キャンパスっていうのは先輩が出展するはずだった絵のことね。私も確認したけど、それがペンキで赤く染められてたんだよね。人体模型の件もあるし、なんだかメチャクチャになっちゃうよ」
梅雨利東子は美術部員だそうだ。前に電話で聞いた。
「ほんと、どうしてなの? どうして二人も消えちゃうの――」
派手な音がする。
視線を前に向けると、梅雨利は寝息を立てていた。先ほどの音は、テーブルに頭をぶつけたときの音のようだ。さすがに疲れたのか、コップ片手に寝入っている。虎になるとうるさくなるが、寝てしまうと静かになる。
「さて」とソファーから腰を上げる。梅雨利の横に体を移動させた。
これからが俺の仕事だった。
机に両手を投げ出している梅雨利の肩に腕を滑り込ませ、華奢な体を持ち上げる。そうして背中に梅雨利の体を引っかけた。俗にいうおんぶという奴だ。梅雨利は軽いのでさほど負担にはならない。
面倒なこと吹っかけやがって、なんて思わないし、不満とも思わない。
梅雨利は梅雨利で不満はないらしく、この体勢のまま家に運送している。名伽狭霧の出奔を嚆矢に、ずっとこうしている。
梅雨利をおんぶして、喫茶店を後にする。
看板の横には梅雨利の自転車がとまっている。さすがにこの状況で自転車を押すことは不可能だ。
梅雨利の家はここから一五分程度だから、自転車を使わず徒歩でも、十分に行ける。
看板には『準備中』の但し書きがかけてあった。こうなることを見越してなのだろう。如才ないというか、確信犯というか……。
背中からは柔らかい感触がする。いくら大酒飲みでも、女は女だった。寝顔も本人の前ではいわないが、かわいかった。性格のほうをどうにかすれば、友人でも恋人でも、できそうな気がする。
夕焼けに染まった畦道を脇に、歩を進めた。