第十八話 似非合同 1
生まれてこのかた、“=”という記号が好きで堪らなかった。
好きで好きでしょうがなかった。
算数も数学も嫌い。けど、この記号だけは嫌いになれなかった。
左辺と右辺を結ぶ、不思議な気号――イコール。それは魔法。異なる両者を結び付ける、魔法の気号だった。
間違い探し。
私たちの間に、間違いがあったらいけない。差異や変化、そういった異常があったらいけない。
違うということは、私が私であるという論理を破綻させる。私が君であるという論理を崩壊させる。
私たちは、1+1=1。二人揃って1になる。
それなのに。
それなのに――違和感。
この違和感はなんなのかな。この拭いきれない、微量ながらも強大な差異はなんなのかな。
微量な量の変化は、強大な質の変化になる。
差異があれば、君は君じゃない。私は私じゃない。
君は私でなくて、私は君ではない。
怖い。
その概念――怖い。
だから。
許してほしい。
私たちが私になることを。
○○○
「すみません。ちょっと訊きたいことがあるんスけど」
と。
目の前の少女は綺麗な歯を見せた。
五月十日。
ちょうどゴールデンウィークが終わった時期である。
碧空を遮るように、柔和な少女の顔がある。黒髪のショートボブで、快活とした雰囲気。表情には邪気がない。
背中には草木の柔らかい感触がする。風は春色に香っていて、心地よい。
「のいてくれないか」
「なんでっスか」
「おまえの顔が邪魔で起き上がれない」
その一言で少女は感得したらしい。「それもそうっスね」といって、視界から消えた。きっと顔を引っ込めたのだろう。
枕代わりに敷いていた腕で地面を押し上げ、上体を起こす。覚醒しきれていない脳で状況確認。
すぐ横には先ほどの少女がいる。犬のように四足歩行で肘を張り、天衣無縫に微笑みかけてきた。「おはようございまーす」
「……おはよう」と条件反射で返答。寝ぼけ眼を少女に合わせる。曖昧だった意識はだんだんと明瞭になっていった。
少女の後ろには木造の校舎が見えた。第四校舎だろうか。そこだけ他の棟とは違って、離れのように孤立している。今はもう使われなくなった棟だ。だからなのか、人通りはさほど、ない。
佩刀歪によれば、四棟丸ごと生徒会の版図らしい。生徒会役員以外立ち寄らないので、第四校舎は生徒会執行部の牙城というわけだ。それも質の良いソファーやら、冷蔵庫、クーラーなどが具備されている辺り、生徒会が優遇されているのが分かる。なまじ職員室より設備がいい。
もっとも、生徒会の構成員は五人未満の小人数らしいのだが。
その奥には見慣れた空。篝火白夜の習性で、空を見ると、いつの間にか眠くなる。
再び船を漕いでいると、先刻の少女が肩を叩いてきた。「起きてくださいよぉ。なんで寝ちゃうんスか?」
「眠いんだ」といって、瞼を閉じる。また寝るつもりなんスか、と耳元で叫ばれ、肩を揺さぶられる。それも結構強い力で。
ガクンガクンと首が上下。眠気なんてすぐ吹っ飛ぶ。
「寝ないで聞いてくれますか?」
「……聞くから、その、やめろ」
少女はニコニコと笑って、俺から離れた。前方に腰を落ち着ける。「あのですね、図書室の場所を教えてほしいっス」
「図書室?」といぶかしげな声を出す。「脈絡がないな」
「文章の空白補充問題と思えば、それほど苦じゃないと思うんで、教えてくださいっス!」
……図書室。
はて、どこだろうか。
あまり学校に寄りついたことがないので、記憶がどこかに埋もれている。そもそも図書室なんて一回も入ったことがない。
推測するに、第三棟だと思われる。あそこには家庭課室や、理科実験室などの特別教室が集中していたような。「三棟じゃないのか」
「三棟ってどこっスか?」
「あっちだ」といって、後ろのほうを指差す。
三棟は四棟とは違い、中庭からはそれなりに距離がある。一棟、二棟、三棟と続き、第三棟と第四棟の間に中庭が設けられている形だ。
四棟から先は完全に森で、学校の敷地外。神隠しのせいなのか、山間地帯のほとんどは禁足地の指定を受けている。
「随分と遠いっスね」と眉をひそめる。「本当にここ、中庭なんスか? もろ端っこにあるじゃないですか!」と少女は憤慨した。力強い手ぶりで中庭の改名を訴えていた。
それをぼんやりと聞きながら、自分は何をしているのだろう、と自問した。本当に何をしているのだろうか。俺はこんなバカ話をするために起こされたのだろうか。
「篝火先輩もそう思いますよね?」
「なあ」
「そもそも学校の構造が変なんスよ。正門からかなり離れた場所にある中庭なんて、聞いたことないっスよ」
「なあ、おまえ」
「入学してまだ一カ月なんスけど、いまだに迷っちゃうんスよねぇ。方向音痴は損っス」
「なあ、おまえ」と一拍置き、「誰だ」と誰何する。
「……はい?」と少女は調子はずれな声を出した。爾後、ああと納得した風に得心顔を作る。「なるほど。それはもっともな疑問っス! そうっスよね、そうっスよね、先輩もそう思うっスよね?」
……元気な奴だ、と思う。それにどう思うと訊かれても、訊いた俺が本人なのだから、いわずもがな。
しかも、この女、若干短気の気があるようだった。まくしたてるように詰問してくる。「早く答えてくださいよ、先輩」とうるさい。
短気は損気。
元気も損気。
「――ということはですよ、先輩」と少女は一旦口を閉ざした。その後、もったいぶった態度を作る。「つまり、先輩は私が何者なのか、どの国の間者なのか、誰の手先なのか、気になるってことっスか?」
色々間違っているような気もする。「そうだ」
「恋ですね」と無邪気に笑う。「先輩は私に恋してるんスか?」
無言で少女の額にデコピンした。存外、なかなかの威力を込めて。
少女は、「ううぅ」とうずくまった。
「いたた……。もう、何するんですか!」と患部を手でこすりながら、恨めしそうに俺を見た。
「手が勝手に動いていた」と自らの指を示す。「だから、無罪」
「無罪も無実もないっスよ! 普通、か弱い乙女にビンタなんかしますか?」
「ビンタじゃなくて、デコピンだ」と訂正。
さりげなく俺の罪状を悪くする魂胆か、おまえは。
「Sっス! 先輩は盛大なSっス! それはもういたいけな美少女である私に甘言を弄し、姦計を巡らせ、狡猾で卑劣な罠を張って、蜘蛛のごとく待ちうけるような、どうしようもない変態性欲の塊、Sの大魔王っス!」
もう一度デコピンした。
額に手を当て、「ううぅ」と唸る少女。傾いた前髪の間からは、煮えたぎった瞳が見えた。
「……分かりましたよ、先輩」と上目遣いを向ける。「これが先輩なりの愛なんスね?」
「……はあ?」
「本当に不器用な人っス! 暴力でしか愛情表現が出来ない人なんスね! 新手の萌えって奴っス! まさかの新ジャンル開拓っスか? 萌えの歴史は俺が変える、ってわけっスね! 私、一生ついていきます!」
「何がいいたいんだよ、おまえは……」
名も知らない少女に無理やり起こされ、こうして益体のない話に興じている。これではせっかくの昼寝が台無しだと、そう思う。
俺と少女以外に人気はない。それだけに、少女の大きい話し声が中庭に響いた。
そうしてる間、再度瞼が落ちそうになる。
放課後まで寝入っていた、というのはよくある。俺は寝始めたら結構寝る。昼休みに寝たら、三時間くらい熟睡する。目が覚めたら夕方、なんてザラ。
そのときは歪が起こしに来てくれる。午後の授業にも顔を出すようにいわれる。強制、というわけではない。短い付き合いで、歪は無理強いはしないことは自分でも承知していた。あくまでも佩刀歪は篝火白夜の意向を最優先させる。
「あー、また寝ようとしてますね、先輩! 寝ちゃダメです! 死んじゃいますよ」
「……ここは雪山かよ」となし崩しに応じた後、「おまえ、図書室はいいのか」と尋ねた。
少女はぽかんと口を開けて、しばし緘口した。「そっ、そうでした! 私としたことが、すっかり忘れてたっス!」
「図書室に行きたいんだろ。さっさと行かないと昼休みが終わるぞ」
「それはヤバイっスね」といって、慌ただしく立ち上がった。スカートの裾をぱっぱと払い、俺の後ろを見すえる。そのまま韋駄天のごとく走り去っていった。
首を百八十度曲げ、その後ろ姿を見届ける。名の知らぬ少女は俊敏に駆けていった。
と。
不意に少女は立ち止まった。
眉をひそめていると、少女はくるりと後ろを振り返った。「教えてくれてありがとうっス! 私は転寝棗っていいます! それでは、篝火先輩、お達者で!」
少女は深く一礼して、三棟へと馳せていった。
かの少女の名はどこか聞き覚えのあるものだった。
……転寝。
どこで聞いたのだろうか。それに転寝棗なる少女は、なぜか俺の名前を知っていた。俺と少女は初対面のはず。
待てよ、と考える。篝火白夜の噂はこの村の隅まで広がっている。あの少女が俺の名前を知っていても不思議ではない。
とくれば、それはそれで不思議だった。篝火白夜の噂を聞いているのなら、その悪評まで耳にしているはずである。
三年前、近隣の道場をいくつも潰したことや、襲いかかってくる不良をことごとく病院送りにしたことなど、際限ない。独り歩きした噂こそあれど、ある程度のことは事実である。それでも、いささか大きくなり過ぎている悪評もある。常に青竜刀を携行しているだとか、幼女をレイプしただとか……。
普通の人間ならば、避けて通る人間像であった。しかし、例の少女は気さくに声をかけてきた。
妙な引っかかりを感じる。
棚上げ。
眠気が込み上げる。体を地面に預ける。
○○○
「白夜様」
「……歪」
目を開けると、歪の顔が見えた。双眸は夕焼けに照らされ、オレンジ色に映えている。
その光景に既観感を覚える。
空は茜色に染まっていた。どうやら完璧に熟睡してしまったらしい。肉体には沈むような倦怠感と、突き抜けるような心地よさがあった。
寒々とした風が吹き渡る。春だというのに、いまいち気温が低い。
体を起こすと、歪が黒塗りのバックを手渡した。わざわざ教室から持って来てくれたらしい。
礼をいって、自分のバックを受け取る。
「何時くらいだ?」
「六時ちょうどでございます」と歪は自らの腕時計で確認した。
「……五時間も寝ていたのか」
「どうやら」と小さく笑った。「そのようですね」
「帰るぞ」
「御意」
俺と歪は下駄箱に向かった。靴を履き替えるためである。俺は勿論、歪も上靴のままだった。
歪の立ち位置は、俺の真横へと変わっていた。まるで新妻のように、ほのかに肩を寄せて。
きめ細かい黒髪が俺の肩にかかる。歪の髪は腰まである。それが風に翻って、俺の腕に触れた。
つまり。
それくらい近い。
それに関してとやかくいうつもりはなかった。
歪との対面や、四月の事件。その濃い一カ月で理解したことは、この少女に害意や敵意の類がないことだった。むしろ、篝火白夜のことを好いている。過剰に、好いている。
異性同士の恋情。
家族同士の愛情。
友人同士の友情。
両者の関係は、そういった領域から外れている。根本から違う。
篝火白夜にとって、佩刀歪はなんなのか。
まだ答えは出ていない。
中庭から下駄箱まではそれなりに間遠い。
もの静かである。
ふと、これまでのことを回顧する。
四月に練絹玉梓の事件があって以来、ずっと一人で考えていた。あれでよかったのか。一見落着といえるのか。何かが解決したといえるのだろうか。
練絹玉梓が精神病棟に入院してから、鬼隠しはぱったりと消滅した。どうやら練絹玉梓の証言通り、あいつが鬼だったのだろう。鬼隠しは迷宮入りにこそなったが、これ以上の被害者が出ることはない。そういう意味では、篝火白夜の愚行、佩刀歪の尽力は無駄ではなかったのかもしれない。俺が醜態をさらし、歪が助成しなければ、こういった運びにはいたらなかった。
事件は表面上解決した。しかし、自らに対する羞悪はある。練絹の想いに気づけず、歪までも巻き込んだのは、篝火白夜だった。
自責の念にかられる。堂々巡り。思考は袋小路に行きつく。
そんな俺を気遣ってか、歪は特に干渉しなかった。送迎は今も継続中だが、それ以外の接触はない。
時々梅雨利東子が電話をよこす。きっと練絹の不可解な入院について、情報を求めているのだろう。テレビをつけてみても、練絹玉梓の狂態は隠蔽されているようだ。
それでも不審に思うものがあるのだろう。友人なのだから、心配するのも当然だと思う。梅雨利は藁にもすがる思いで、俺に電話してきたに違いない。
だが真実は話せない。後日、やたらと厚い札束の入った封筒――つまり口止め料が自宅のポストに投函されていた。それには、『警告』とだけ記されており、それが何を意味するのかは明白だった。
どうやら、俺の知らないところで不穏な動きがあったようである。
……ん?
形のない情報が輪郭を構成する。何かが繋がったような気がした。
靴箱から靴を取り出す。その途中に、「歪」と声をかけた。
「なんでしょうか」
「転寝――という名前を知ってるか?」
歪は小首を傾げた。俺が自発的に話すこと自体珍しいのに、その内容が突飛だったのだから無理もない。
「はお、存じております。表御三家の一角ですね」といった後、無表情だった顔に瞋恚の炎が焚き起こった。「四月の一件では一杯食わされましたから、よく覚えております」
「ああ。その転寝だ」
「……それがどうしたのでしょうか?」
なんでもない、と誤魔化す。何事もなかったかのように、靴を履き換えた。
「そうでございますか」と掘り下げることなく、俺の横に並んだ。
思い出す。
鋭く横に切れた瞳。
艶っぽく濡れた睫。
小さめに整った鼻。
雪のように白い頬。
形のよい紅色の唇。
無駄な肉のない体。
第一印象に過ぎない。一度会っただけでそいつの本質は読み取れない。たった一度の出会いでそいつの全てが分かる慧眼を、大半の人間は持ち合わせてもいない。
ましてや人間関係が死滅している篝火白夜にとって、それはなおさら。篝火白夜には一切の眼識がない。だから転寝棗の本質がどうなのか、分かるはずもない。
ともすれば、佩刀歪も同じかもしれない。
佩刀歪は見たところ、仁徳もあり、周囲からの人気もあるようだった。頭の回転も速い。運動神経だって卓絶している。
しかし。
歪唯一の欠点は、その盲目さにあった。どうしてか篝火白夜につきまとう。自らを俺の許嫁だと断言して、俺に傅く。その様相は明らかに奇怪で、どこまでも噛み合ってない。
容姿、頭脳、能力、どれをとっても頭一つ抜けている。そんな歪には白壁の微瑕はあるようだった。
彼女は致命的な人選ミスを犯した。
だからといって何をするまでもなかった。篝火白夜は誰かに特定の感情を抱くことが苦手だった。
それが好意でも悪意でも。
好奇心が希薄で、探究心が薄弱。ようは怠け者なのだ。何事も面倒。なぜ面倒なのかを考えるのも面倒。そうやって思考を放棄していって、無駄なものをそぎ落としていく。
無駄を、そぎ落とす。
字面はいい。ただ、人の人生は無駄の積み重ねだ。無意味なこと、無意義なことを蓄えていくのが生きるということだ。
事実、人生の大半はそういったものでできている。
篝火白夜の場合、削っているのは肉、ではなく――骨、なのだ。なくなっているのは枝葉末節ではなく、その本体たる“生”そのものだった。
これだからすっからかんになっていく。
一時的に満たされたところで、結局、こぼれ落ちる。