第十七話 〃 17
痛苦とともに目が覚める。
疲労困憊とした体。痛みが山積した節々は、断末魔を上げていた。
「お目ざめになりましたか、白夜様」
ベットに臥したまま、浩然とした声が聞こえてきた。玲瓏とした響きは血のように全身を巡り、深い安らぎをもたらした。それに準じて、筋肉が緩んでいく。
起き上がる。横に目を向けると、しとやかな笑みを浮かべる佩刀歪がいた。ベットの脇のパイプ椅子に腰かけている。
どうやら病院のようだった。消毒液のにおいが思い出したようににおってくる。
――音楽室じゃないのか。
様々な記憶の奔流が怒涛のごとく溢れ出る。頭の中は走馬灯のようにめくるめく場面が変わった。
想起していると、なんだか夢の中の出来事のように思えた。あれらは全て性質の悪い冗談のような気がする。
しかし。
滅入るような痛覚は本物だった。
病院に搬送されている辺り、どうやら命脈を保ったようである。気分はすぐれないが、時期回復するだろう。
佩刀は俺の手を取った。その手は自分のおでこに導く。そのまま瞑目した。
数秒がたつ。
佩刀は噛みしめるように、「白夜様がご無事で何よりです」といった。涙声だった。
驚いて佩刀の顔を見る。目には涙をたたえていて、嗚咽を堪えているようだった。
しきりによかったですよかったです、と壊れたCDみたいに繰り返す。手は涙に濡れ、肌の上に熱が通過した。
潤んだ瞳は上目遣いを向けた。長いまつげがしっとりと濡れている。その双眸は何かを訴えているようだった。そして、掴んだ指を口に含んだ。佩刀の舌が俺の指を丁寧に舐める。はあはあと息を荒くして、指を銜え続ける。頬は赤く上気していて、拙い声で俺の名を呼ぶ。ふやけた声がなおやかに残響した。
「ひ、歪?」
「……よかって、れ……ふ。びゃくやさま、がふひで、ほ……んと、う……によかっ、てれふ」
何をいいたいのか分からず、悶々とする。ぴちゃぴちゃと水音。佩刀は獣性と従性を含有させた視線を投げかけた。
いつもの歪じゃない。
「はっ、離せって」といっても、佩刀はなめずることをやめない。
……しかたなく強硬手段。指を強引に引き離す。
「ひゃんっ!」と奇声を上げて、ううぅ、と唇を尖らせる。指は唾液でべとべとだった。
佩刀に舐められた指が淫靡に光る。艶めかしい、と思った。
「舐めてください」と佩刀。
「なっ、何を」
佩刀は視線で俺の指を示した。先ほど佩刀がしゃぶった指だ「私の唾液を舐めてください」
「……は?」
「舐めてください」と一転して真摯とした表情でいわれる。
やむを得ず口に含む。指には佩刀の唾液が付着していた。それらを一通り舌ですくい取る。
「おいしいですか」と訊かれる。「私の唾液、おいしいですか」
変な質問だな、と思う。佩刀の目はとろんとしていた。
気がつけば首を縦に振っていた。
「そうですか。それはそれは……。ふふふ」と魔女のように笑う。今日の佩刀はどこかおかしかった。
「おまえ、変だぞ」
「変ではありません」
「いや、変だろ。どう見ても」
「そんなことよりも白夜様。お身体のほうはどうですか」
……話をすり替えやがった。
とはいえ佩刀の気遣いは嬉しかった。事実、不自由な感じはある。
「気分が悪い」
「それもそうでしょう。あばら骨を何本か折っているのですから、無理もありません」
やはりか、と思った。あの感触は予想通り骨折だったらしい。
「おまえはどうなんだ。怪我はないのか」
「おかげさまで切り傷程度で済みました。なんせ白夜様が身を挺して守ってくださいましたから」と佩刀は嬉しそうに相好を崩した。
「ね、練絹はどうなったんだ」
「練絹玉梓は精神病棟に入院することになりました。白夜様が気を失われた後、私も危機的状況にあったのですが、どうにか練絹玉梓を降すことができました。そして事情を警察に話し、苦労の末、警察のお縄につく運びとなったのです。しかしその言動があまりに支離滅裂なため、少年院ではなく、精神病棟に通院することとなりました。これらの諸事情は世間には伏せられています。知っているのは練絹玉梓の家族と、私だけです。ともなれば、練絹家が転寝家に働きかけたのでしょう。警察官僚に強いパイプのある転寝家頭領――転寝隆寛によって、これらは闇に葬られました。世間体を気にしたのでしょう。練絹家と転寝家は昵懇の中でしたから。世間一般に練絹玉梓は重篤な病を患い、施設に療養中であると説明されています。ある意味心の病ですからね、見当違いというわけでもありません。ご理解いただけたでしょうか」
「ああ……」
「これで練絹玉梓の脅威は消え去ったというわけです。さすがは表御三家の一角、転寝家といったところでしょうか。殺人未遂を都合のいいようにもみ消すとは。これも社会との繋がりが強い転寝家でなければ不可能だったでしょうね。当然私にも口止めがなされていました。白夜様も口外しないほうが賢明だと思います。お気持ちは察しますが、転寝家を含む表御三家を敵に回すべきではありません。私もはらわたが煮えくりかえる思いです。白夜様を襲うという一級犯罪を犯しながらも、のうのうと生きているとは……。許せません」
佩刀はぎゅっと拳を握りしめた。切歯扼腕と憤慨している。
「そんなことどうでもいいだろ」
「しかし白夜様……」
「おまえが無事ならいい。練絹の一件は忘れろ」
「白夜様……」
佩刀は感動したようだった。「さすがは白夜様。自らのお命を狙った敵方にも情けをかけるとは、誠に寛大。私は今、白夜様の偉大な御心に感服しております」
……時代劇の見すぎではないだろうか。
やはり佩刀は時代錯誤だった。
「思ったんだけどな。どうしてお前、あの場所にこれたんだ?」
「愛の力です」
「…………」
「私と白夜様の愛は山よりも高く、海よりも深いのです」
「…………」
「……生徒会室で三階に上がる白夜様のお姿を見かけましたので」
佩刀はかわいらしく舌を出した。その後、眦を決して続ける。
「放課後、白夜様は寄り道をせずにお帰りになりますので、不審に思い、後を追ったのです」
「生徒会を抜け出してか」
「はい。なんだか胸騒ぎがして……。で、手当たり次第に白夜様のお姿を探しました。――そして、見つけたのは見つけたのですが、練絹玉梓にナイフを突きつけられたお姿でした」
「ありがとうな。おまえのおかげで助かった」
「白夜様……」
また泣きそうな顔で俺を見た。実際、早くもうるうるときている。
困ったことになったな、と思う。女はこんなにも涙もろいのか。涙腺が緩いのか。
泣くという行為は自己証明の一つだ。泣くことによって自らの位置を知らせる。ここにいる、と誰かに伝えかける。
泣くことが最大の感情表現だったころ、俺は嫌なことがあれば泣いた。不愉快なことがあれば泣いた。それは泣けば誰かが助けてくれると理解していたからだ。それは泣くこと以外に自分を表せなかったことへの裏返しなのかもしれない。
いじめを契機にして周囲に迫害されて何年もたつ。十年近く経過しているのではないだろうか。
十年。
長い年月で篝火白夜は変われただろうか。泣くこと以外に自分の思いを告げる方法を見つけただろうか。
変わっていないかもしれない、なんて思う。少なくとも実感はしていない。肉体は成長しているが、精神年齢はあの頃のままだ。陋列で愚鈍。
練絹玉梓を打ち倒したのは、篝火白夜ではなく佩刀歪。俺を守ってくれたのも、佩刀歪だった。
佩刀の話を信じれば、練絹玉梓は精神病棟に移ったらしい。
病名は拒食症。愛するものしか食べれない、病。練絹玉梓はそういい漏らしていた。
俺の両親と変わらない。全く一緒だ。向かうベクトルを違えただけで、それ以外はいたって普通。たとえ、赤子の手足を食べたり、人を轢いたところで、本質は変容しない。
誰だってそういう一面はある。俺だって今を虚飾しないと、生きていけない奴だ。自らを偽ることでしか、安穏を得られない。
傷つくことが嫌なだけの愚か者。
惰性で生きていくだけの怠け者。
オレンジ色の窓光が差しこむ。どうやら夕刻であるらしい。幽谷を鮮やかに染める夕陽。
ふと、練絹玉梓の言葉を思い出す。練絹はこの時間帯が好きなのだそうだ。よく分からない感情だ。
にしても、ああいった感情を向けられるとは夢にも思わなかった。ただ練絹は勘違いしている。練絹は“食べたい”という想いに突き動かされただけだ。本質的には俺をなんとも思っていない。好きとか嫌いとか、全然関係ない。
よく身の危険を感じる時の感情を、恋愛感情と錯覚する、といった話がある。練絹もそれと似たようなものだと思う。危機感が食欲に切り替わっただけだ。
篝火白夜を愛してくれる人は希少だ。
それは俺が空洞だからだ。空虚で空白で、空疎なのだ。中身がない。空っぽ。
そんな俺を満たしてくれる人がいる。空々とした容器をたくさんのもので満たしてくれる。それはすごく幸せなことだ。
「白夜様。先刻お借りした書物のことなのですが、まだ読み終わっていません。もう少しだけ待っていただけないでしょうか」
『壺中の天』のことだろう。あれを読了することは生半可なことではない。眼光紙背を徹す佩刀とて、購読に苦労していることが窺えた。
そのことに安堵感というか、仲間意識のようなものが芽生える。
「どのくらい読んだんだ」と気になったので、そう訊いてみる。
「二百ページです」
「……嘘だろ」
二百ページ。『壺中の天』の前ページは三百ある。つまり六割以上読み終えたということだ。
「嘘ではありません。そもそも私が白夜様に嘘をつくことは天地がひっくり返ってもありえません」
冗談を排した表情。目は本気だった。
盲従とした忠誠心。
なぜだろう、とはこれまでの日々であまり考えなくなった。考えても無駄な気がした。
○○○
これはハッピーエンドなのだろうか。
ぼんやりとした頭で考える。
結局のところ、篝火白夜は何をしただろうか。
事件を処理したのは佩刀歪。
暗躍していたのは練絹玉梓。
全ては篝火白夜とは無関係に進行していく。でも、篝火白夜は巻きこまれる。
それは偶然なのか、必然なのか。あるいは抗いがたい運命なのか。
しかし、篝火白夜にとって、それらのくくりはどうでもいいことだった。
物事をあるがままに受け入れる。それが良いことでも、悪いことでも。そうやって毎日を受動的に生きてきた。そして、これからもそうするつもりだった。
自分が変わることは、多分、ない。
篝火白夜はそう思っている。