第十五話 〃 15
教室の前で佩刀と別れ、2-1組に入室した。
窓際の席に鞄をかける。筆記用具や教科書はあらかじめ置いていた。
いつものように机の中をがざごそとかき回す。
その時奇妙な感触がした。筆記用具の硬い感触でも、教科書の厚い感触でもない。
くしゃくしゃと音が鳴る。
なんだこれ、と思ってそれを掴む。
机の中から出てきたのは――手紙だった。白い便箋。裏返してみれば、ミッキーマウスのシールが貼ってあった。
ためしに振ってみる。
かさかさ、という音だけである。きっと内封された紙がこすれた音だろう。
どうやらかみそりの刃ではないようだ。
小学生の時、何かの入れ物にかみそりの刃を入れられた覚えがあった。それが上履きの中なのか、筆記用具の中なのかどうかは忘れた。ただ手に大怪我をおったことは記憶している。あれ以来かみそりに対して特別な恐怖を抱くようになっていた。見てる分にはどうということないが、触れると全身から嫌悪感と吐き気が湧きおこる。肌の上で蛇が這いずっているような――そんな不快感だ。
警戒は緩めない。慎重に封を切る。
一瞬、恋文かもしれない、と思う自分はめでたい奴だと思う。
一紙を取り出す。それには丸みを帯びた文字で文章が綴られていた。
放課後、音楽室に来てください。そこであなたを待ってます。
その紙を元に戻した。黙って鞄の中に突っ込む。
随分と古典的な手を使ってきやがる……。
頭の中に放埒と高説を垂れる男を思い出す。佩刀と縁を切れ。練絹玉梓と縁を切れ。おまえ、死んだほうがいいんじゃないの。
筆跡は女性のようだが、断定はできない。男の姦計かもしれない。悪意が詰まっているかもしれない。
俺は頬杖をついて、ぼーっとした。
○○○
変わり映えのしないホームルームが終わる。
佩刀は来ない。生徒会の活動があるそうだ。
椅子から立ち上がり、無気力に教室から出ていく。廊下には学生がたむろしていて、友人たちとのお喋りに興じていた。
それを横目に眺めながらも、階段を下りた。自分と自分以外のものに隔たりがあるような、そんな疎外感を感じながら。
生徒とすれ違う。
教師の脇を通る。
辺りはモノクロ。
静かな思考回路。緩やかに流れる旋律。ピアノだろうか。流麗に刻まれていくリズム。
心地よい、と思った。汚れた自分が洗われていくような気がして、心が晴れた。
音源に目を向ける。
それは音楽室からだった。
音楽室――と思って、今朝の手紙が連想された。丸みを帯びたかわいらしい文字。
誰かがピアノを弾いているのか。
独りでにピアノは動かない。ならばそういうことなのだろう。
では、誰が。
雨稜高校に合唱部はない。吹奏楽部はあるが、仮に吹奏楽部が演奏しているとしても、ピアノ以外の音が聞こえてくるはずだ。そもそもピアノは管楽器ではない。
ならば――
放課後、音楽室に来てください。そこであなたを待ってます。
朗々と流れるメロディー。それは素人である俺が聞いても、すごいと思わせる力を持っていた。
待っているのだろうか。
誰を?
俺を。
漸増する罪悪感。人を待たせるのはいけないことだ。
逡巡する。
――罠、かもしれない。日曜日の不良の件もある。俺への意趣返しのために仕掛けられたのかもしれない。待っていたのは凶器を携えた不良ども。
あるいは――俺をからかうための策謀か。
誰もいない音楽室で右往左往する俺を見て、日頃の鬱憤を紛らわすつもりか。愚かな俺を見て同情し、嘲弄する目的なのか。
危険度は高くない。しかし、もし本当に純真な誰かが待っていているとしたら。
俺は最低な奴になる。
待っているのが不良なら叩き潰せばいい。誰もおらず、笑い声が聞こえたとしても、俺の心に傷が残るだけだ。誰も傷つくことはない。
ただもしも、健気な誰かが待っているとして、俺がこのまま帰ってしまえば――そいつが傷つく。そんなのごめんだった。
自分が傷ついても、別に、いい。だけど、誰かが不幸な想いをするのをとめられるなら、とめたい。
来た道を戻り、階段を駆け上がった。
○○○
音楽室からは儚い調べが響いている。繊細で鮮やかな調子。聞いているとざわめく心が安らぐようだった。
ドアをスライドさせる。斜めに漏れた斜陽が机や肖像画をオレンジに照らしていた。
同時にピアノがやむ。とたんに静けさが襲ってきた。
「――来てくれて嬉しいわ」
夕焼けに映える音楽室。
そこには練絹玉梓がいた。
艶のある黒髪がさらさらと揺れる。日の沈む空とのコントラストが美しかった。
鞄の中から一枚の手紙を取り出す。それを練絹に見えるようにかざす。「おまえか、この手紙の差出人は」
「ええ、そうよ」
肯定の返事。事由は明白となった。
どこか郷愁的な光景だった。放課後の音楽室というのは。
懐かしい感慨が起こる。苛められる前の記憶がゼピア色でよみがえった。
友達との他愛のない会話。日没まで遊んだ公園。学校のグラウンド。笑い声と楽しさに溢れた輝かしい記録。
今となっては遠い過去。
ポケットに手を入れて、壁にもたれかかる。
「この風景、綺麗だと思わない?」
ピアノの椅子に座ったまま、練絹はいった。物寂しげな表情だった。
窓の景色は雄大だった。どこまでも続く地平線。傾く太陽。
「そうだな」
「絶景よね。ここでピアノを弾くと心が真っ白になって、リラックスできるの。そしてこう思うわ。私のピアノが愛する誰かに届いてほしいって」
「心を打つ言葉だな」
「ありがとう。だってそうでしょう? 音楽は想いの伝達手段。言葉だけでは伝わらないもの、それを音楽なら伝えることが出来る」
音楽は言語とは違ったものを表現できる。音楽は欠陥だらけのコミュニケーションを補うために作られたのかもしれない。
「届くといいな」
なんていってみる。
練絹の感じているものが誰かに響いてくれたら嬉しい。
「私もそう思うわ」といって、立ちあがる。そのまま歩を進めた。
遠くから部活動のかけ声が聞こえてくる。それはだんだんと小さくなり、消えていった。
「私ね、前々からあなたにいいたいことがあったのよ」
練絹の声はやけに低かった。
訝しげに眉をひそめる。「それが用件か」
「そうよ。そのためにあなたを呼んだの」
練絹の顔が、逆光で見えなくなる。
目をつむって、といわれる。有無をいわせぬ口調だった。
なんだそりゃ、とは思うも、練絹のいうとおりにする。これが練絹の用件と関係があるのだろうか。
近づいてくる足音。視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
だからだろうか。
口内の異変を敏感に感じたのは。
口腔を侵入する何か。それは口の中を動き回って、魚のように巡遊していった。
舌と舌が濃密に絡み合って、粘液を共有する。その事実に背筋が冷え、体が熱を帯びていく。
練絹のいいつけを破って、目を開ける。眼前には練絹の端麗な顔があった。いつの間にか肩を掴まれている。
離れようとするも、練絹の膂力は尋常でなかった。まさに万力。練絹の指ががっちりと肩に食い込んでいる。
甘い呻き声。練絹はさっきよりも深く浸水していった。濃艶な唾液が口の中に注ぎこまれる。そして俺の唾液を何度も吸い続けた。
肩のダメージを度外視して練絹から離脱。その勢いでしたたかに尻を打ちつけた。
「逃げないでぇ! なんで逃げるのよぉ!」
練絹に手を取られ、逆のほうに捻られる。身動きを封じられた俺は、練絹が覆いかぶさってくるのを防ぐことが出来なかった。
完全に背中が床につく。その拍子に頭を打った。全身が痛い。
首のすぐ横に練絹の腕がある。床と九十度になるようにひじを張って、顔をつきつけた。
「ごめんね。痛かったでしょう? けど、こうでもしないと、あなた。私に付き合ってくれそうもないから。本当にごめんね。私、こういう女なの」
練絹の息は荒い。整った唇を近づける。
上唇と下唇を割って、何かが入ってきた。ぬめりのあるそれは俺の舌を丹念に愛撫した。
貪るように口を吸われる。クチュクチュと淫靡な音がした。
俺の舌端が練絹の口に入っていく。
そして。
千切れた。
「――っつ!」
激しい痛覚とともに床に這いずりまわる。その衝撃で図らずも練絹を突き飛ばした。
練絹は盛大に倒れた。スカートはめくれ、白い太ももがあらわになる。しかし本人は気にした様子ではなく、恍惚とした表情。あられもない姿で呆けている。
混迷する思考を一旦停止する。慌てて自分の舌を確かめようと、軽く触れてみた。鋭いしびれ。ひりひりと痛んだ。
ない。
舌の先が。
ない。
ではどこにいった。
練絹のほうを見る。よく分からないが、なぜか、練絹は口を動かしていた。何かを咀嚼しているように見えた。
……何を?
俺の舌を。
んなバカな。
顎が上下する。練絹は至福の表情で、何かをかみ砕いていた。
俺は口から血が出るのも気にせず、呆として眺め続けた。
……やがて、練絹の喉が少し隆起。何かを嚥下する音が聞こえた。
「……おいしかったわ。すごく……、おいしい」
ぞくっとした。
練絹は妖艶だった。スカートからは素足を覗かせ、制服の裾が見事にはだけている。そんな艶姿の練絹は、頬を紅に褒めて、夢視るような目つきをしていた。
「私の中に……白夜君のものが、入って、いく……。いいわ。すごくいい」
ねえ。
ちょうだい。
じりじりと間隔が狭くなる。俺は腰を抜かしたまま、目を見開いた。
ほしいよ。
骨の髄まであなたが欲しいよ。