第十三話 〃 13
『柚子原堂』を跡にした俺は路地の隅にいた。
汚れた壁に背中を預ける。近くから旺盛な客引きの声。威勢のいいかけ声が行きかっていた。
なんだか世界から切り離された気分。疎外感にも似たものを感じる。
「――おまえ、篝火白夜だろ」
と。
尖った声が聞こえた。
視線をスライドさせると、長髪の男がいた。その横には短髪の男が一人。そして、茶髪の男。三人ともだらしなく着崩している。
暗みに立つ三人の男。背後から気配がすると思ったら、もう三人。俺を挟み打ちする形でいた。
計六人、俺は六人の男たちに囲まれていた。
お決まりのパターンだな、と自嘲する。
そのうちのリーダー格らしき男が一歩前に出た。先ほど俺の名をいった長髪だ。
「ちょっと、金貸してほしいんだ」
長髪の男が俺をねめつけ回した。脅すように前に詰め寄る。
条件反射的に身構える。男たちの視線が獰悪だったからだろう。
「そんなに構えるなって。ほら、穏便に行こうぜ」
短髪の男が甘い口調でいった。へらへらと薄い笑みを張りつけながら。
どくろが刺繍されたパーカー。露出した素肌は小麦色に焼けていた。筋肉が隆起している。
気力のこもらない目で男たちを一瞥する。
無関心な態度が癇に障ったのか、ピクリと唇が痙攣した。短髪の男はポケットに手を突っ込んで、厳めしい面を作った。
「金、貸せっていってるだろ」と長髪がいった。
動かない俺。何もしない。
「おい、聞こえねーのか?」
「金貸してほしいっていってるんだけど。穏便に」
「そうそう、早く貸してくれたらいいからさ」
「悪いことはしねーって」
短髪が目の前に迫ってきている。そのまま俺の襟を掴んだ。口臭は酒精交じりだった。臭くて濁っている。
距離を詰められる。やがて六人の男たちに包囲された。
俺は、篝火白夜は、そのことを他人事のように考える。
男に腹を殴られると、衝撃で地面に突っ伏した。情けない呻き声を漏らす。男たちは優越感を浮かべていた。
「よっ、よええ」
「うわうわうわ、クリーンヒットじゃん!」
「たった一発でこれかよ」
「クソざこいなあ。つまんねーんだよ、こういうの」
男たちは不快そうな表情で俺を見下していた。
感情を押し殺す。面倒。早く立ち去ってほしい。
そう思ったままじっとしていると、不意に長髪がいった。「そういえば、こいつ。佩刀歪と付き合ってるらしいぜ」
「……それ、マジかよ!」
「いや、全然マジ。俺、見たぜ。こいつと佩刀歪が歩いてるとこ」
聞き覚えのある固有名詞が男の口から出てくることに驚く。なぜそれを知っているのか。なぜそんなことをいうのか。
「信じらんねーくらい似合わねーよなあ」
「だな。こんなクズじゃあなあ」
短髪は俺を蹴りあげた。転がって壁に激突する。
どうやらこの連中は同じ高校の生徒らしい、と見当をつける。
「なんだよ、張り合いねーな、篝火白夜はつえーのなんのって噂だろ」
「ああ、めちゃくちゃつえーって噂だぜ」
「あのバカ強い名伽狭霧とやり合えるほどの奴だ。つえーはずなんだが……」
「噂は噂ってことだろ。信用ならねーな」
「もしかして本気だしてねーんじゃねーの?」
ははははと笑声。俺を嘲笑する軽薄な響き。黙って地面に倒れる。
俺の首を狙いに来たのだろうか。篝火白夜のネームバリューが欲しいのか。
「ならよ。本気、ださせてやろうぜ」
「どうやって?」
「そうだな……。犯すか、佩刀歪」と軽い口調で誰かがいった。「そうすりゃ、こいつも本気だしてくれるだろ」
言葉を失ってしまう。
やめろよ。佩刀歪は健気な女だぞ。心が綺麗でかわいい子なんだぞ。なんでそんなことがいえるんだ。どうして簡単に犯すとかいうんだ。佩刀歪は関係ないだろ。
「……それいいな。佩刀歪強姦作戦」
「佩刀もクソつえーらしいが、しょせんは女だ。六人がかりで襲えばヤれるだろ」
「まわすのか?」
「ああ。しょせん女なんてただの道具さ。男のいうとおりによがってりゃいい」
「ははは、またそれかよ」
男たちは下卑たる笑い声を上げた。選民意識に酔いしれた顔。そして、ついでのように俺の脇腹を蹴りたくった。
気がつけば、拳を作っていた。
なぜそうしたのかは分からない。
起き上がる。そして、偶然近くにいた男を殴った。体がくの字に折れ曲がり、吐血する。俺の拳を受けた男はどさりと路地裏に横たわった。体中の筋肉は弛緩しており、軟体動物のように脱力している。
先ほどの痛覚は消え失せていた。結構殴られたり蹴られたりしたのだが、全て消滅している。
「て、てめえ!」
短髪が殴りかかってくる。俺はそのパンチを流して、男の真横にならんだ。首筋に手刀を入れる。糸の切れた操り人形のように倒れ込む短髪。意識がないのか、受け身を取らないまま落ちていった。どさりと派手な音がする。
かぶせるように四人のうち一人が動き出す。ポケットから鋭く光る何か。腕に刺繍をした男がナイフを向けてきた。
刃渡りの長いサバイバルナイフ。横薙ぎのナイフが弧を描く。その一瞬に、右手に持っていた本を投擲。男の視界を遮断。その軌道が俺の体を通過する前に、刺繍の男の腕を掴む。
そのまま。
くるりと。
回す。
空中で半回転し、刺繍の男は倒れた。同時に『壺中の天』とナイフがアスファルトに落ちた。
「ぶっ殺してやる!」
刺繍の男と挟撃するつもりだったのだろう。俺の背後を取った男は重厚なバールを振りかざした。
後ろを見ずに手でバールを掴む。冷たい感触。男たちが息を飲む音が聞こえた。
そのままバールを腕力だけで奪う。たたらを踏む男。適当に足払いして、胴体を蹴りあげた。激しく壁にぶつかる男。だらしなく唾液を垂らし、失神した。
無気力な目で残りの二人を見る。戦慄に身をすくませる二人。唇をわななかせ、足を震わせていた。
「なっ、つ……、強すぎだろ……。ムム、ムチャクチャだ」
長髪の視線は伏した仲間に向けられ、やがて俺のほうに動いた。目が合うと怯えたように目を泳がせる。
俺は脇に転がる本を手に取った。本を片手で抱える。もう一方の手はバールを握っていて、それを男たちに向けた。
「歪には手を出すな」
と。
いった。
「うわわわわわわわわわわわわわわわ」
男たちは体を反転させた。そのまま猛烈なスピードで逃げだす。
別に追うつもりはない。それなりの恐怖を与えておいたから報復には来ないだろう。連中は俺の知名度に釣られた不良、その一角に過ぎない。適度にサンドバックになって、敵を叩き伏せる。そうすれば、相手にも俺と渡り合った、という自負心が芽生える。それに満足して俺には手を出してこない。向こうは俺を強襲しなくなり、俺が迷惑をこうむることはなくなる。双方に損害のない、理想的な展開。それが俺なりの流儀であり、処世術だった。
逃げ出す男たちを目で追う。必死に足を動かす二人。仲間なんか二の次で、まず自分の身の安全から。
薄情な奴らだ。
と。
思った。
その時だろうか。
男たちが舞ったのは。
信じられないくらい鮮やかに吹っ飛ぶ二人。二人の体は宙に滞空し、すぐさま地面に叩きつけられた。
瞠目してしまう。成人男性と変わらぬ体格の男が二人いっぺんに飛んだのだ。それも綺麗な軌跡を描いて。
表通りの光が路地裏に差しこむ。逆光で顔は分からないが、誰かがいることは分かった。輪郭は不明瞭だが、見覚えのある形。
そいつは傘を差していた。
草鞋を履いた足で悠然と闊歩する。紅梅の着物に身を包んだ肢体はたおやかだった。さながら大和撫子のようで、気品に溢れている。
そいつは倒れ込む不良たちを見て慨嘆した。仙骨とした容貌が妖艶とたわむ。
風に乗って銀髪がなびく。
「男のくせに弱い奴らだ」
名伽狭霧は嘆くようにいった。
○○○
喫茶店『ヘルツ』は落ち着いた内装だった。
名伽狭霧に連れられた俺は、なぜかコーヒーを啜っていた。
『柚子原堂』で譲渡された書物はソファーにうもれている。テーブルに置いてもいいのだが、なんとなく恥ずかしかった。
おまえ、そんな崇高な趣味があったのか。
なんていわれるのがオチだ。面映ゆい。
……いや、待てよ。
決めた。新しい趣味は読書にしよう。これも何かの縁だと思って、読んでみるか。
読書は価値観が広がるといわれている。事実、科学的な根拠も上がっているのだ。愚鈍な俺にはおあつらえ向きだろう。
「まったくひどい話があるものだな。大人数でいたいけな女を襲おうと画策するとは。男とは概してああいったものなのか」
和服に身を包んだ名伽狭霧は悲しげな表情で茶を飲んだ。ソファーの脇には日笠が立てかけてある。振袖から見える肌は新雪のようだった。髪が銀髪であるからか、名伽狭霧は透徹とした印象を受ける。全体的に清涼としていて凛々しい。
どうやら佩刀歪のくだりを聞いていたらしい。入店した直後、男として答えずらい質問をされた。
そこにいたのなら、なぜ助けに来てくれなかったのか。そう思ったが口には出さなかった。
しばし黙考。男という人種がどのようであるかを分析する。
「情けないことに」と躊躇うも、「そうなってる」と続ける。
名伽狭霧は儚い吐息をついた。爾後、上目遣いに俺を見る。名伽狭霧は確認するようにいった。「その中にお前も含まれているのか」
「俺も例外じゃない」
そうなのか、といってソファーに背を預ける。そのしぐさに敏感に反応する男性客。頬を赤く染めて陶然としている。だが俺を見る時の表情は親の仇といわんばかりに陰険だった。憎悪が含有された嫉視が突き刺さる。それを受け流す俺。佩刀や練絹の時に散々味わったから耐性がついたらしい。
人に恨まれるのは慣れてる。嫉妬であろうと憎悪であろうと、俺に不快な感情を抱いているということに変わりはない。
名伽狭霧は常時着物を着る。季節にそった振袖に身を包み、赤い鼻緒のついた草鞋を履く。日差しが強ければ和傘を持っていくし、場合によっては木刀を携帯することもある。名伽狭霧の服装は時代錯誤甚だしい。
「そういうわりに性欲はないようだな」
「……どういう意味だ」
「佩刀歪を見てどうも思わぬ辺り、一つくらい、次元を超越しておる」
梅雨利東子のいうように、名伽狭霧は生徒会役員らしかった。同じ生徒会として佩刀歪と交流があるのだろう。
「そういう対象じゃない」
「ならなんなのだ。都合のいい道具か。それとも恭順な世話係か」
名伽狭霧の言及は静かながらも迫力があった、図らずも口を閉ざしてしまう。
佩刀歪。
一考してみると、確かに不明確だった。
篝火白夜にとって佩刀歪はどのような存在なのか。
悪い感情を抱いているわけでもないし、不平不満もない。佩刀の恩恵で助かることも多々ある。
佩刀歪は篝火白夜に潤いを与えてくれる人間だ。しかし、その関係性を言語を持って表すのは難しい。
都合のいい道具か。
恭順な世話係か。
「どっちも違う」
「ならなんだ」
「……分からない」
名伽狭霧は複雑そうな顔をした。「分からない、とくるか。佩刀の言い分というか……、意見は聞いておるだろうな」
「飽きるほど聞かされてる」
「……やはり叩いても響かぬようだな。佩刀の健闘空しく、といったところか」と小さくいった。「佩刀のこと、大切にしてやるのだぞ。相当おまえに入れ込んでおるからな」
「どれくらい?」
「常におまえの自慢話ばかりして、周囲を困惑させるくらいだ」
重症だな……。
俺は心の中で長大息をついた。
「やれ白夜様は素晴らしいお方だの、高潔なお方だの、顔を突き合わせるたびにそういった講釈を垂れるのだ。それがあまりにも病的故か、周りはますますお前に猜疑を抱いておる。おまえからも注意してやってくれ。いらぬ助太刀をしたのも、茶屋に誘ったのもそれが主な理由だ」
なるほど、と頷く。
去る者を追わずの名伽狭霧が、助太刀――というか、後始末をしたのにはそういった事由があったかららしい。もっとも、あの助太刀はするだけ無用な気もするが。
そういった趣旨のことを問うてみる、すると名伽狭霧は憤慨した様子で語った。
「……天誅?」
「いかにも。ああいった輩にはきついお灸をすえてやる必要があるのだ。身を持って痛みを経験せねば、他者の痛みは分からぬ。……付言しておくが、暴力を肯定しているわけではないぞ」
名伽狭霧はそれほど暴悪的ではない。黙って首肯する。
「こういう時にこそ木刀があればよいのだが……。まあ、奴らが幸運だったというわけだ」
さらりとそんなことをいえるのも、名伽狭霧らしい。勧善懲悪を掲げる名伽狭霧にとって、あの手の一派が許せないのだろう。
しかるべき手段を持って断罪する。そこに躊躇などなく、冷徹に人を壊すことができる。
……いっておくが、名伽狭霧は過剰な正義を行使する分からず屋ではない。情状酌量の余地があれば、それなりの対応を取る。その判断に狂いはなく、臨機応変だ。名伽狭霧ほど鋭敏な慧眼を持つものはいないだろう。
聖人君子のような女だ、と思う。名伽狭霧ほど慈悲深く、生一本な人間はいない。
「どうかしたのか」と問いかけられる。
なんでもない、と呟いて頬杖をつく。
窓には不景気そうな面が映っていた。染められた金髪。切れ長の目。睡眠時間は多いはずだが、表情に生気はない。
「……大丈夫だよな」
一人言のつもりだったが、ことのほか大きく響いた。
「何がだ」
「歪のことだ。もしものことがあったら、腹を切るぞ、俺は」
今の関心事はそれだけだった。本気でするつもりはないだろうが、万が一、という場合もある。そうなったら悔やんでも悔やみきれない。絶対に阻止すべきことだ。
「……なるほど。なかなかいい奴ではないか」
「誰かが傷つくのが嫌なんだ」
「……時々お前が分からなくなるよ。ダメな奴だと思ったら、とたんに器量の広さを見せる」
「そんな高尚なもんじゃない」
「そうであってもなくても心配はいらぬ。佩刀はあの程度の奴らには屈せぬ」
「強いのか」
「強い。少なくともお前よりは強いし、実力は私とほぼ拮抗する」
それならば杞憂に終わるだろう。名伽狭霧と同等の力量を持つなら大丈夫だ。
梅雨利東子に稀代の武門と形容される名伽家。それはまんざら嘘でもなく、名伽の家系は尋常じゃなく強い。それは目の前の存在が証明している。
名伽狭霧の太鼓判ももらった。十中八九佩刀に危険が及ぶことはない。――ないとは思うが、理性とは別のところで佩刀が心配だった。
そのことを話すと笑われるだけだった。
どうやら雨が降ってきたらしい。
窓の景色は風雨で荒れていた。