第十二話 〃 12
起きてみれば枕脇にジャージが置いてあった。几帳面なまでにきっちりと畳まれている。洗濯してくれたのか、仄かに品のいい香りがした。
隣には置手紙が添えられており、突然の訪問をお許しください、といった文辞とともに礼の言葉が述べられていた。
曖昧模糊とたゆたう意識。視線を壁に向ける。時計の針は午前九時を指していた。
どうやら佩刀は早朝に俺の家に来たらしい。そしてなんらかの手段を用いて自宅に侵入。昨日貸しておいたジャージを返却した。その折に誠心とした書簡を書き添えたというわけだ。
律義な奴だ、と思う。義理堅いというか、かたくなというか……。
手紙にはこう綴られていた。
折角ですから朝餉をこしらえておきました。粗肴ですが、よろしければお召し上がりください。
相も変わらず俺への敬意は不動のままだった。現に台所には手作りの朝食が用意されていた。ラップで綺麗に包装されている。調理されて随分たっているようだが、おいしそうだった。
昨日のことが気に差すのか、佩刀の姿はない。
頭の中でジャージを折り畳む佩刀の姿が想像される。
なんだか気だるくなった。もう一度寝ることにする。蒲団を肩の辺りにまでかけて、枕に頭を預けた。
目の皮がたるむ中、ぼんやりと夢想に耽る。
最近、やたらと変な人間と出会う。
佩刀歪しかり、練絹玉梓しかり、梅雨利東子しかり。
三者三様、独特だ。これまでにあったことのない人種。極端に他者との交流がすくない俺でも断言できる。
そういう意味では名伽狭霧も非凡な人間だった。
あまりに完結しすぎていて、むしろ何もないような印象すら受ける。名伽狭霧は初めから完全な人間だった。それ故か、その場にいること自体、現実味に欠ける。空想の中の人間であるかのように、卓絶で、絶無で、無敵だった。
それは佩刀歪にも当てはまる。タイプは違うが、この二人の存在感は常軌を逸している。練絹玉梓や梅雨利東子も例外ではない。
人間はどうしても他者との交わりを必要とする。しかし彼女たちには不要であるような気がした。自分一人で存在を確定できる。
矛盾や撞着。
醜悪や卑小。
そういった人間らしい不純物が、ない。
初めから不完全な俺とは対極の人間だ。受動的に生きて、幸運や楽しいことが来るのを待つ。能動的に動かない。それがかっこいいことだと思っている。自分は特別だと思っている。自分は無限の可能性を持っている、と錯覚している。
無限の裏返しが虚無だと、気づかない。
どこまでも頑迷固陋だ。
惰眠に慣れた体が沈んでいく。
ゆるやかに。
ゆるやかに。
○○○
冷蔵庫の中には大量の食品が入っていた。種類も豊富で、生鮮食品や果物などなど。昨日練絹が買ってきてくれたものだ。
なぜか気分が滅入る。近ごろ外出していないからだろうか。陰鬱なものが部屋に溜まっているのかもしれない。
ここまま懶惰とした日々を送っても差し支えはない。死活問題だった食糧難は解決されているし、出かけようにも特に行きたいところはない。
畳の上で横になる。佩刀が作ってくれた朝食は腹の中に収まっていた。電子レンジで温め直したのに、鮮度や味は落ちていなかった。
時刻は十二時。
無為自然と思索を巡らす。
ふと、練絹玉梓の言葉が想起された。
前に練絹家に行った時の話だ。練絹から俺の出生や環境などを根掘り葉掘り訊かれた。そのさい趣味の話になった。
俺には趣味がない。そういうと練絹はひどく驚いた。文化人の練絹には信じられないことだったのだろう。趣味のないことは寂しいことらしい。練絹は多種多様な音楽や書籍を勧めてくれた。それをぼんやりと受け取る。どれもこれも未知なる代物だった。
白夜君はね、一つくらい趣味を持ったほうがいいわ。そうじゃないと人生、面白くないじゃない。
俺は上体を起こした。
ハンガーにかけていたTシャツを掴み、着替える。
安っぽいジーパンを穿き終わると、洗面所に駆け寄った。なにかを振り切るように勢いよく洗顔。すっきりとした気持ちになる。
練絹の切言は一理あるような気がした。俺には何もない。一日中寝るか、喧嘩を吹っかけられるか。そのどちらか。どう見ても空虚で、実が伴わない。
ズボンに財布を突っ込み、玄関で靴に足を入れる。アパートの部屋の隙間から、昼下がりの日差しが差し込んでいた。
眼前には面白みのない田園が広がっている。物寂しい落莫とした景色。その上部では嵐気溢れる山々が見えた。
前向きになっているのかもしれない。
以前はこんなことを考えもしなかった。だが、今は違う。
篝火白夜は変わろうとしているのだろうか。
誰のおかげなのか。
憂いが晴れる。
俺は狭隘なアパートを出た。
○○○
とりあえずバスに乗ることにする。ご無沙汰だった商店街にでも行こうと考えたからだ。
杳として窓の絶勝を眺める。窓際の縁にひじをついて、取りとめのないことを考えていた。
俺の住む場末の地から、どんどん離れていくのが分かった。風景も田畑から住宅地へと変貌しつつある。人のいる気配が濃厚になっていった。
プシューと間抜けな音。どうやら着いたらしい。所要時間は三十分。俺は財布の中を確認しながら、不躾な視線をねめつけて黙らせた。
降車すると無数の雑踏があった。清掃されたアスファルト。斉一と活気立つ商店街。シャッターを下ろしている店は一つとしてない。
日和見商店街名物の一つに、巨大な噴水がある。何年か前の村長が竣工したモニュメントのような奴だ。
その一角に腰を下ろし、どことなく遠望する。
さて、どうしようか。
俺は早くも、考えあぐねていた。
思案に思案を重ね、考えを纏める。その結果、当てもなく彷徨うことに決めた。
腰を上げて、後白波と歩く。
気がつけば路地裏に来ていることに気づく。両端の建造物に日光を遮られているせいか、かなり薄暗かった。表通りとは違ってビニール袋やゴミが散在している。どことなく汚らしい。汚泥が溜まっている。
頭上ではカラスが鳴いていた。黒い影が空を滑空する。
路地裏は迷路のように入り組んでいた。むやみやたらに曲がり道が多い。
なるようになれ、と後ろを振り向くことなく歩を進める。
『柚子原堂』なる店とすれ違ったのは、その折のことである。
初めて振り返る。左側には不気味な筆致で描かれた看板があった。ペンキで塗ったらしく、『柚子原堂』と記されている。年端のいかない子供が描いたような、稚拙でいて恐怖をあおる筆意だった。
店名から判断するに、何かを売買する店なのだろう。推測するに骨董店。それも眉唾物のアンティーク辺りが陳列されていそうな雰囲気だ。
一瞬、こんな路傍に店があるのだろうか、といった根本的な疑問が出る。
外から遮蔽された空間。光は届かず、人も来ない。こんなところで商売して利益が出るのだろうか、と心配。
逡巡するも、暖簾をくぐることにする。
怖いもの見たさ。それが背中を後押しした。
入店する。
店内は路地裏以上に暗黒だった。塗りつぶすような漆黒がわだかまっている。天井には裸電球が点いているものの、意味をなしているようには思えない。むしろ不規則に明滅しているので、一層不安をあおる。
形の見えないものは前から嫌いだった。オバケやら妖怪やら、そういったものは形而上的なものである。有形でないということは、存在を知覚できないということだ。それが幼心に暗然とした影を落とした。それは今も変わらない。恥ずかしい話、いまだにホラー映画が見れない。
経常と続く闇。目を凝らしてみれば、棚の上には奇妙なものが並べてあった。
羽の生えた豚や、頭が三つある犬の模型。頭のない人体模型。肉がそげ落ちた天使の彫像。逆十字を抱える神父の絵画。断頭台に登る女神。
その中で目に留まったのは、一冊の書物だった。埃のかぶった表紙を手で払い、パラパラとめくる。どうやら小説か何かであるらしい。古めかしい文字で文章が書されていた。
「お気に召したかね」
ぞおっと背筋が凍った。急いで本を閉じ、声のしたほうに視線を向ける。
カウンターの奥、そこには老婆がいた。
どんよりと淀んだ瞳。白内障なのか、眼球は虚ろだ。
「それはね、『壺中の天』という曰くの本だよ」
しわがれた声で老婆はいった。それは寂々とした店内を撹拌した。
「なんでもそれを書き上げた何某が、雷鳴に打たれて死んだって話でねえ。くしくも作中に登場する主人公と同じ死に方だったのさ。面白い話じゃろ。まさに運命のイタズラ」
ひっひと笑う。唇が醜く裂け、顔面がくしゃくしゃになった。それは齢傾いた魔女を連想させるものだった。
急にこの本が怖くなった。『壺中の天』が音を立てて落下する。それが空しい音を立てた。
「恐怖に駆られたのかな。無理もない。それには妖気が充満しておるからのお」
黄ばんだ歯が唇の隙間から見える。そしていった。「持って行け。それをおまえさんにくれてやろう」
「……代金はいいのか」
老婆は意味深に笑って見せた。「いらん。それに学術的な価値はない。よって代金は無用じゃ」
おずおずとその本を拾う。塵芥にまみれた背表紙。無機質に描かれた文様。そいつは淫靡に輝いていた。
「……本当に、いいんだな」と再度確認。後から代金を要求されては困る。
「いいさ。これもまた巡り合わせ。その本がおまえさんを選んだにすぎぬ」
「やたらと詩的なババアだな」
「だが当意即妙」
電球がちかちかと点滅する。
「私の言がなんであろうが、ここでは些細なことじゃ。それよりもその本、貰ってゆけ。客のニーズに応えるのが商魂というものじゃろう」といって、老婆は俯いた。
……寝ているのか?
寝息を立てた老婆はそれきり動かなくなった。まるでネジの切れたぜんまい人形のようだった。
食えないババアだったな、と思う。結局何がいいたいのか、あまり分からなかった。
俺は例の本を抱えて、店を出た。