第十話 〃 10
眼前には木目の荒い天井が見えた。
おもむろに起き上がる。脚部は蒲団にかかったままだった。
「おはようございます、白夜様」
佩刀が台所からひょっこりと顔を出した。割烹着を着衣し、包丁を握っている。それには野菜の屑がついていた。
ああといって、のっそりと立つ。今は何時だろうか。時間が気になる。
「七時四十分です」と佩刀がいった。俺の思いを感得したらしい。
今日は土曜日だ。休日なので遅刻する心配はない。
佩刀は何をしているのだろうか、と思って台所に向かう。そのさい食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
背中越しに覗く。佩刀は大皿に料理を盛りつけているところだった。
「……うまそうだな」
「勝手に使ってしまいましたが、よろしかったでしょうか」
「別にいい」と答えて、蒲団のほうに戻る。節々の痛む体で蒲団を畳み、押し入れにしまっておく。倒していた卓袱台を元の位置に戻した。
昨夜から何も食べてないからか、ひどく空腹だった。
佩刀が大皿を抱えてやってきた。「お召し上がりください」といって、卓袱台の上に置く。箸や取り皿も同様に。
いただきます、と呟いて箸を握る。佩刀の野菜炒めは俺の作るものより何十倍も美味だった。「おまえ、なんでもできるな」
「そうでもございません。しいていうなら厳格な家風からくるものでしょう。私の家では家事洗濯から礼儀作法に至るまで、徹底的に叩きこまれていましたから」
佩刀の家はかなり厳しいものらしい。珍しく佩刀が複雑そうな表情を浮かべている。
ただそれだけに、佩刀は実に洗練されている。所作も容貌も何もかも。
佩刀歪。
何か特別な訓練を受けているのか、動きに全く無駄がなかった。一挙手一投足が刃のように研ぎ澄まされている。
それは日本舞踊に通じた動きだった。例えるなら能楽のそれに近い。
佩刀と向き合っていると、なんとなく威圧される。存在感が尋常でない。仮に俺と佩刀が干戈を交えたのなら、即効でやられる。その実感はある。説明しずらいが、この女は何かを隠し持っていそうだった。
この女もまた、練絹玉梓と同様に武芸者だ。直感で分かる。きっと梅雨利東子も同じだ。
頭脳は犀利。容姿は濃艶。
「どうかなされましたか」
箸が止まってることに気づいたのか、声をかけられる。
よく見てるよな、と思う。常に俺の挙動に気を配っている。
「これ、おいしいな」と誤魔化すようにいった。
「そういっていただけると幸甚の限りです」と嬉しそうに笑んだ。「作った甲斐がありました」
「そうか」
キャベツを口に含む。
窓外には朝焼けの空。爽快で縹渺としている。
二人での食事は新鮮だった。いつも孤食。その反動だろうか。今はいい。この雰囲気は幸せだ。
顔を突き合わせて飯を食べる。
何の変哲のない行為で、こんなにも朝が楽しくなる。
自分の存在を肯定されたようだった。いつも一人だったからだろうか。よく分からない。この時間が終わってほしくない、とは思う。
篝火白夜はずっと一人だった。けど二人でいると安心する。そしてなんだか強くなれたような気さえするのだ。
佩刀は力強いエネルギーに溢れていた。佩刀に触れ続ければ自分もかっこいい奴になれるように思えた。
まあ、幻覚だが。
自分を甘やかしてくれる相手といると軟弱になる。
自分の価値観や存在を他者に依存して、生きる。それで立派に生きたつもりになってる。そんなの傲慢だ。砂上の楼閣に等しい。
朝食を食べ終わり、食器を流しに放り込む。皿が冷たい水に沈んでいった。
「食器は私が洗っておきますね」
「……そういえばおまえ」と前置きを置く。いおうかどうか迷ったが、いうことにする。「家に帰らなくていいのか。厳しい家なんだろ。朝帰りなんてご法度じゃないのか」
納得した風に首肯する。佩刀はにこやかな笑みを浮かべた。「ご安心ください。父は私と白夜様の関係を容認しています。むしろ奨励しているといっても過言ではありません」
何とも不可解な話だった。
奨励。
なぜ。
「そういえば申し上げておりませんでしたね。なぜ私が白夜様の許嫁になったのか、その経緯を」
それは俺のあずかり知らぬところである。
そもそも本人の知らぬ間に結婚を取り決められてたなんて聞いたことがない。
早く帰ったほうがいいのでは、と思っていたが、そのことも気になる。佩刀歪の謎が解けるかもしれない。
佩刀は深閑と話し始めた。
「私の家は代々験者の家系です。験者とは加持祈祷を行う行者のことを指します。佩刀家の出生は平安時代にまで遡ります。蔵の古文書によれば、我々は陰陽道の一派であり、不祥事を起こしてこの村に逐電したのだとか。それでここ日和見村に住み着いたというわけです。佩刀家はこの村で隆盛を誇りました。また武門の名伽家、能楽の転寝家が数世紀後に居を構えた。この御三家を枢要に、日和見村という隠れ里のようなものを築きあげたのです」
……一気にややこしくなった。
この村の変遷と何か関係があるのだろうか。
粛々と佩刀は先を進める。俺の疑問など気にもしないで。
「佩刀家は霊験や神事、その一切を取り仕切る。それは今も変わらぬならわしです。名伽家も同様に、この村一帯の道場は名伽家が管轄しております。確か現代の当主は名伽高嵐でございましょうか。佩刀、名伽。両家とも徹底した尚古主義です。ただ転寝家は例外で、転寝の棟梁である転寝隆寛は現役の警察官を勤めています。現代社会との融和ですね。あるいは見解の相違。まあ、そんなことはどうでもよいことです。重要なのはここから。佩刀家にはとある掟があります」
「……掟? なんだそれ」
「掟。すなわち――婚姻に関するものです」
やっと本筋らしい。
佩刀は背筋を伸ばして整容した。
「佩刀家では裳着の折に、生涯の夫が決まります。断っておきますが、離婚は許されておりません。両者とも結婚年齢に達すれば、即入籍でございます。そしてその相手は‘夢視”という儀式で決定いたします。夢視とは読んで字のごとく、夢を視ることでございます。視るのは私ではなく、家の主たる実父なのですが。そして数十年後の我が子の姿を視るのです。――己の夢の中で。そのさいに隣にいた男性こそが、のちに結ばれる相手、という寸法なのです。正直私も半信半疑でした。しかし父上は夢視が成功したらしいのです。で、その相手が――」
「俺だった、というわけだ」
「左様でございます。これは奕世から続く格式高い儀礼。勿論例外などありません。掟は絶対です」
メチャクチャな話だ、と思った。夢の中に出てきた男と結婚する。意味が分からない。大時代的過ぎる。
なんという、浅ましさ。夢で見た。そんな不確定極まりないことで、結婚の自由を奪うのか。それでは選ぶ自由を侵害している。
「……んな、アホらしい」
「しかし佩刀の一家郎党は真剣です。本気で私と白夜様を結婚させるつもりなのでしょう」
嘘をついてる口調ではない。いっている内容は荒唐無稽だが、確然たる真実なのだろう。
「……おまえはそれでいいのか。見ず知らずの男と結婚式を上げるなんてバカバカしい、とは思わなかったのか」
「私も少なからず腑に落ちないものは感じました。いくら掟とはいえそれはおかしいでしょう。しかし、掟は絶対。やむを得ず、その相手とやらの顔を視ることにしました。ちょうど三年前のことです。そこで私は――」
佩刀の口ぶりが急にしぼむ。
何事かと気色を窺う。佩刀は頬を仄かに染めていた。
「その、なんでしょう。吹っ飛びました。掟やらなんやら、頭から飛びました。真っ白になる、といえばよいのでしょうか。まさに無我の境地。私は打ちのめされました。私は……、篝火白夜様の堂々たる威容に惚れてしまったのです」
顔を下げる。佩刀は恥じらう乙女のように体を縮こまらせた。
んなバカな。
俺の思考は冷えていた。理性がありえないと一蹴している。佩刀家の珍妙な因習もだが、佩刀の披瀝によって、ますます現実味がなくなった。
「おまえ、冗談がうまいな」
「じょ、冗談ではありません!」
はっと顔を上げて、また下げる。そして蚊の泣くような声で言った。「そ、その……。別に白夜様が金髪であるとか、不良であるとか。それ以前の問題です。本能がこのお方と一つになりたいと、このお方の子供を授かりたいと、そう囁いているのです」
「歪」と肩に手を置く。
「白夜様……」
「一回精神科を受診したほうがいい」
俺は一笑に付して、腰を上げた。「そんな与太話はいいから、さっさと帰れ。家の人が心配してる」
「ち、違います! 本気なんです。私、本気なんです!」
「とりあえず電話で安否を伝えておけ。電話は玄関の近くにあるから」
「白夜様ぁ!」
抱きつかれた。押し倒された衝撃で後ろに転倒する。
背中が痛い。壁で骨を打ったようだ。みしみしと鳴る。
目の前には佩刀の顔があった。漆黒の目。濡れた唇。篝火白夜と書かれたジャージの透き影から見える鎖骨。その奥には胸の谷間が絶妙な位置で姿を覗かせていた。首筋の雪肌は紅潮している。
すぐ近くまで接近してくる。佩刀は足同士を絡ませ、体をこすりつけた。熱を帯びた手が服の隙間に入り込む。肌と肌が触れ合う。ゾクッとする。
「私……もう、ダメです。こんなこと初めてです。こんな想いになったの初めてです」
佩刀の息は荒い。はあはあと肩で呼吸をしている。それが頬にかかる。吐息は甘い。
体は硬直して動けなかった。体の神経が死んでいるようである。
「……逃げないでください。私を遠ざけないでください。ずっと傍にいたいです。分かってくれますよね。白夜様なら分かってくれますよね」
何を。何を何を何を。
何を分かれというんだ。
佩刀の体が胸板に乗っている。重いだろ。いくら女でも重いに決まってるだろ。
けどなんだろうな。口が動かない。
「昨日誰といたのですか。知人によれば、女だったそうじゃないですか。どこに行ったんですか。どこまで行ったんですか」
佩刀は獣性のこもった瞳で睨む。唾液が滴っている。それに気づかない佩刀。
「別に白夜様が誰とお遊びになろうと勝手です。私に飽きたのならほかの女と遊びたくもなるでしょう。けれど、それはあんまりじゃないですか。ひどいじゃないですか」
悲痛な叫び。佩刀は信じられないくらい弱々しかった。けど目は、目は……。
ねっとりとした視線。
舐めるような視線。
這いずるような視線。
味わうような視線。
「さっきもいいましたよね。私、本気なんです。理性の力じゃどうにもならいくらいのレベルなんです。どうしたらいいんですか。私はどうしたらいいんですか」
ゆっくりと縮まる距離。佩刀の顔がだんだんと肉薄していく。それに準じて愛部も激しくなった。俺の腰と胸を撫でまわす。表面で円を描くように手が動いていた。
「白夜様と初めて口を吸った時、嬉しかったです。三年前からずっと夢見ていました。白夜様。私のどこがダメなんですか。足りないところがありますか。遠慮なさらずに申し上げてください。改善します。矯正します。白夜様好みの女になります。何でもお申しつけください。好きに扱ってください。なんでもします。白夜様のためならなんだってします」
うわごとのように呟く。
酩酊していく頭。なぜか動かせない。口も手も足も。全部が全部動かせない。
佩刀は熱っぽい目を向けた。ごくんと唾を飲み込む。
「私は、その……、せっ、せ――」
ピンポーン。
「おはよう白夜君。あれ、いないのかしら。白夜君、いるなら返事してね。ねえ、東子から聞いたよ。あなたってご両親がいらっしゃらないそうじゃない。だから朝ご飯、作りに来てあげたわよ。男の一人暮らしなんて、ろくなもの食べてないでしょう。けど大丈夫。ちゃんと栄養のつくもの食べさせてあげるから。それと……、昨日は本当にごめんね。いくらなんでもあれはやり過ぎたわ。けど、けどけどけど、だってあなた、いかにもロックが好きそうな顔してたから……。ほら、金髪の人ってロックとかパンクとか好きそうじゃない。……ええ、弁解よ、けど悪いとは思ってるわ。いきなり家から出られても仕方ないとは思う。だからそのお礼に朝食を作ってあげるわ。感謝してよ、調理には自信あるんだから!」
扉の開場音。
門扉の向こう側。ビニール袋を抱えた練絹玉梓が入ろうとしていた。鼻歌交じりに玄関に上がる。
開口できない。篝火白夜の網膜は練絹の歩みを無気力に映していた。
「……何これ」
茫然とした声。フローリングにビニール袋が落ちる音。袋から、ニンジンやトマトがこぼれ落ち、床に転がっていく。
「……そういうこと? あなたたちってそういう関係だったの? こんな朝からそういうことをする関係だったの? ……えっ? 白夜君と佩刀さんは……、やっぱり、そそ、そういう関係だったの?」
音が消えた空間。音も何もない。どいつもこいつも彫像になっちまった。
篝火白夜も。
佩刀歪も。
練絹玉梓も。
「……ごめんね。お楽しみ中にお邪魔しちゃって。私、お邪魔虫だわ。うん、お邪魔虫。……というか、その、佩刀さん主体なんだね。いきなり襲っちゃったのかな。その、女の子のほうからそういうことをするのはどうかと思うよ……」
練絹の独白だけが残響した。
後ろを振り向く。そして走っていった。廊下には一滴だけの水溜りが出来ていた。
取り残される。
あらゆるものが。
取り残される。