第一話 虚飾症 1
この物語にプロローグもエピローグもない。
気が付いたら何かが起きていて、何かが終わっている。
不要、というわけではない。
物語のスピードに追いつけないから、あったところで意味がないだけだ。
いただきます。
そういって手を合わせる。
自然の恵みに感謝して、神々に礼賛する儀式。
なんと幸せなことなのだろう。この時は至福の時間だ。
食べる。すなわち、愛。あるいは愛しいものとの一体化。相手と自分が渾然と混ざり合う、その概念。それは素晴らしいことだ。
食べることは何事にも勝る。
その反面、好きでもないものと溶け合うのは、とてつもなく不快なことだ。それはひどく不格好。致命的に愚かだ。
だからだろうか。
これはおいしくない。
それもそうだろう、と納得する。今になって再発したこの症状。ひたすら食べたいとうずく肉体。増大する食欲。
手当たり次第に漁ったのがいけなかった。
こんなことではいけない。もっといいものを。もっと大好きなものを食べよう。
目の前の品を乱雑に捨て去る。
これも当然の行いだろう。
なんせ私は、赤ん坊の手足を愛していないのだから。
○○○
目覚めは最悪だった。
頭がガンガンする。バカでかいハンマーで思いっきり叩きつけられたみたいだった。
酩酊する頭に手を置いて、髪を掻き毟るように掴む。堪らなく気分が悪かった。
薄っぺらい蒲団から起き上がる。左の窓から漏れる朝日。窓外からは野鳥が囀っている。
鬱々と沈む脳髄を無理やり起動させ、意識を叩き起こす。曖昧だった世界はだんだんと色を取り戻していく。視界には朝日影が映り、全体としてはオレンジ色。それが染みついた畳を照らす。
誰もいない部屋。俺しかいない空間。何かが死んだところ。
寝ぼけ眼を覚醒させるために洗面所へと向かう。剥げた畳の上を歩き、取っ手を掴む。老朽化からかなかなか動かず、開けるのに苦労した。
脱衣所のすぐ横にある洗面所。鈍色に光る蛇口を捻って水を出す。それを洗面器が受け止めて、雑然と水が撥ねる。顔に何滴かかかった。
顔を洗ってもすっきりとはしなかった。黒いタールのようなものが燻っていた。それは倦怠感にも似ていて、全身にくすぶっていた。
鏡には不愛想な面が映っていた。釣り目の瞳に、金色に輝く髪。中学校から染め始め、今でも金髪を貫き通している。三日坊主な俺が唯一続いたことは、髪を染めることくらいだった。部活動も勉強も対人関係も長く続いたことはない。何かが欠陥した俺に、そんな高潔なものが長続きするはずがなかった。
小学校低学年の時に入籍していたクラブチームは、いじめが原因でやめた。勉強のほうも、あまり身に入らなかった。そもそも学問を修めることで自分の中の何かが変わるとは思えなかった。その何かとは友人との青春や、異性との甘酸っぱい恋で形成されるもので、両方とも不足していた。そんな人間が勉強に取り組んだところで、虚しくなるだけだった。対人関係のほうも壊滅的だった。そもそも不良たる風体の男と仲良くしたがる物好きがいるとは思えない。
札付きの不良。
いるだけ邪魔な存在。
存在自体が罪。
それが俺だった。
近頃では薬をやってるんじゃないか、といった噂が飛び交っている。それも詮方ない。不良と薬物はワンセット。一次元的に繋がっている。しかし薬物に手を出したことは一度しかない。前にヤケになってシンナーに手を出したが、気分が悪くなってやめた。こんなもので人生壊されてたまるか、と思った。けれど、空虚な俺の人生が壊れたところで誰かが悲しむとは考えづらい。そもそも薬があろうがなかろうが、俺の人生は最初から破綻していることに変わりはない。そこに薬があるかないかという差異だけだ。
「俺は」
言葉は続かなかった。何かを言いたかったはずなのだが、これ以上の言葉が出なかった。
みんなから苛められない子になりたい。
みんなから好かれるいい子になりたい。
幼いころからの夢。外界からの揶揄や嘲罵で打ちのめされた俺の最優先事項だったもの。
絶対にしなければならないこと。
なしとげなければならないこと。
幼少期のいじめの反動からか、俺は周囲の気色を窺う、阿諛追従な人間になっていた。媚びへつらい、追従笑いを絶やさない。その軽薄さから爪弾きにあったのは言わずもがなだろう。主体性を持たない人間が人に愛されるはずがない。
ではどうやって意思表示をするか。自分の感情を表現するか。
それは髪の色が証明している。
あれ以来俺には進歩の跡が見られない。差し伸べてくれる手を振り払って、全てを拒絶した。自分を受け入れてもらえるかどうか不安だった。そうならないために拒絶した。拒絶すれば自分が傷つくことはない。そうやって過剰に自分を守っていくことで、自分という存在を確保した。それは星霜を経るごとに淀んでいき、弱くなった。あたりまえの結果。抗いがたい。
誰も愛してくれない、と嘆いたところで好転すると思ったら大間違い。社会は面倒見のいいお母さんではない。
なんだか惨めだった。自分では誰も愛するつもりはないのに、誰かの愛を求める。それは愚かだ。一方的に相手を求めるだけ。それなりの天寿を全うして、誰にも看取られずに死んでいくだけだ。
適当に生きて、適当に老いて、適当に死んでいく。嫌なことがあったら考えない。思考することを放棄する。解決策や対抗策を練らずに、ただただ堕ちていく。そのほうが楽だから。考えないほうが生きる分には楽だから。
得るものもない。
失うものもない。
そもそも俺に価値のあるものはない。だから関係ない。
紛らわすようにテレビを点ける。社会から遮断された日和見村では、テレビくらいしか外の情報を知ることが出来ない。伝統主義を掲げる家が多いこの村では、一昔前の自然がそのまま現存している。情報化社会から取り残された村といっても過言ではない。
番組はローカルニュースだった。神隠しに関するニュースで、近ごろその動きが顕著になっているらしい。
何の前触れもなく消失する村民。神隠しに遭った人々に関連性はなく、捜査は難航しているようだ。
また神隠しにもこれまでの傾向から背反した“新種”が登場したと放送されている。
……新種?
元来の神隠しは、人そのものが消える。しかし新種の場合、体の一部が消えるのだそうだ。それは指であったり足であったりして、その対象は乳幼児に多い。また被害に遭った幼児には例外なく口に布が詰められていた。声を出させないためにこしらえたものだろう。母親が気を逸らしている隙に幼児の手足を切断したのだ。
今のところそれが神の仕業なのか、人間の仕業なのかは不明。後者であることは明確であるが、神隠しの言い伝えが神秘性を加味していた。
新種の神隠しは今年に入って三件起きている。犯行は一様に同じで、同一犯の可能性が高いそうだ。しかしその手口は巧妙で、一度も目撃されていない。当然凶器や指紋も残っていない。手がかりはゼロなのだ。
テレビを消す。朝から嫌なニュースを聞いてしまった、と後悔。
四月八日。
さすがに始業式くらいは行ったほうがいいかもしれない。
面倒だが行くことにする。あるのかどうか分からない良心がそうさせたのだろう。こういった式典にはちゃんと出席しないと先生に睨まれる。最近は薬の醜聞もある。ここで欠席すればますます仄聞に尾びれがつくだろう。篝火白夜はやくざと関係があるとか、不良たちを何人も血祭りに上げたとか。そういった悪評に拡大していくだろう。痛くもない腹を探られるのはごめんだった。
午前八時。
久しぶりに着る制服は新鮮だった。
○○○
学校の正門に近づくにつれ、周囲の視線が厳しくなっていくのを感じた。不躾な視線が俺を貫き、辺りからはヒソヒソ声が鳴りやまない。
新入生だろうか。物珍しそうに俺を見ている。俺が睨むと急いで目を逸らした。滑稽だった。また校舎裏からは制服を着崩した男たちが俺を見ていた。きっと何週間か前に夜討ちを仕掛けてきた連中だろう。腕に包帯を巻いた不良たちは歯軋りして俺を見た。復讐してやる。そういっているような気がした。
正門には挨拶をする先生がいた。スーツを端正に着こなし、柔和な笑みを浮かべている。その笑みが俺を見たとたん、面白いように崩れていった。嫌悪。恐怖。そういった感情が見て取れた。
門を潜り抜ける。そのさい先生が低い声で唸った。お前はここに来てはならない。お前は存在してはならない。その瞳は苦虫を潰したような嫌悪感がこもっているだろう。
奇異なものを見るような目を向けられるのは日常茶飯事だった。俺を中心に不可侵の輪が広がる。半径二メートル以内には誰も寄りつかない。
慣れてるから、いい。
学校指定の鞄。それを肩にかけて悠然と歩く。まるでモーゼの十戒のように道が出来ていく。濛々と土煙が舞いあがった。
静まり返る。下駄箱を目指した。
誰にも挨拶されず、誰にも声をかけられず、歩いていく。
自分の足で歩く。
聞こえはいいが、ただの孤独なのだと気づく。
使い古された靴を脱ぎ、上履きを履く。その折に太い胴間声が聞こえてきた。振り返ると柔道着姿の男がいた。その男はやけに体格がよかった。体育の先生だろうか。名前は忘れた。
「篝火白夜だな」と確認を取られる。
凄みのある濁った声。居丈高な口調。無条件で俺が悪だと決めつけるような態度。俺は一発でこの先生のことが嫌いになった。
俺が首肯すると、いきなり髪の毛を掴まれた。手荒な動作で俺を引き寄せ、獣のように凄んで見せる。「なんなんだ、この髪の色は」
答えない。俺は黙した。
「なんなんだといってるだろ! 先生の声が聞こえなかったのか!」
高飛車にいい放つ。顔は憤然としていて、眉間には皺が寄っていた。どこか嗜虐的な表情だった。
正義感に酔ってるんだろうな、と他人事のように考える。
「この金髪! 明らかに校則違反だ。早急に染め直してこい!」
髪の一房を掴み、荒々しく引っ張る。
ふと視線を巡らすと大半の人が注目していた。何かを期待するような目。
生意気な不良を懲らしめてくれ。
先生、殴ってください。
なんたってそいつは不良ですから。
不良だから何してもいいんですよ。
いっそのこと殺してください。
いるだけで社会に害をなします。
代替行為。生徒たちは普段たまった俺への鬱憤を、この先生を媒体にして発散させたいのだろう。
いい気味だ。
これだから頭の悪い不良は。
いきがってるだけのクソだよ。
あんな奴退学すればいいのに。
死ねよ、もう。
その考えがあまりにもバカバカしいので、鼻で笑ってしまった。
それが癪に触ったか、男が鼻息を荒くして俺の腹に拳を入れた。くの字に折れ曲がる体。腹部から熱い痛みが生じる。ドロドロとした塊。それは激しい嘔吐感となってせり上がってきた。
「社会のクズが。調子に乗りやがって」
男は愉悦の籠った拳をぶつけた。頬に重厚な拳骨が襲う。強烈な一撃に吹っ飛ばされ、壁に頭を打った。頭蓋骨を砕くような衝撃。呼吸は一旦止まり、酸欠に陥る。唇を切ったのか口内は鉄の味がした。嫌な味だった。
「和田先生」
腫れた瞼が隻影を捉える。視線を伸ばしてみると白髪の老人がいた。穏やかそうな顔つきは険しくなっている。
拳を振り上げようとした男は老人に気づくと、拳を下げた。バツが悪そうに顔を伏せる。
「生徒に体罰は禁止されています。それくらい承知なさっていると思いますが」
「高松先生。こ、こいつが悪いんです。髪を染めたり、教師に反抗したりするから」
高松先生と呼ばれた老人は責めるように男を見た。凛冽とした双眸には非難の色が混じっていた。
観念したらしい。和田と呼ばれた男は、俺を一睨みしてから踵を返した。
壁に背を預け、情けなく呻く。高松先生はそんな俺を心苦しそうに見た。助けるようなことはしなかった。構うなと視線で訴えかけたからだ。それを汲み取ったのか、何も言わず去っていった。その表情は痛々しげで、俺のことを心配してくれているのだろう。
心の中で礼を言って、のっそりと立ち上がる。腹と頬が痛い。ジンジンと痛みを蓄える肉体。動きが鈍くなっている。俺との意思疎通を拒んでいるようだった。
高松先生が去ったのと同時に、生徒たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。傍観者気取りの輩はあっという間に姿を消した。
辺りは閑散としている。それは篝火白夜の内面を投影しているようだった。
○○○
長いだけの始業式は終わり、新学年のホームルームが始まる。
俺は2-2組だった。席は窓際。一人でぼんやりと座る。
サボり気味だった俺はあまり学校に立ち寄ったことがない。そのせいか顔見知りの人間はいなかった。
担任は熱血漢っぽい中年の男だった。眉村とかいう教員で、俺を目の仇にしている先生の一人だ。和田とかいう先生もその一人なのだろう。腐った蜜柑が周りを腐らせる前に排除しよう。単純だが効果的な方法だ。それが一番いい。俺もそう思う。
担任は開口一番、俺について言及してきた。髪をどうにかしろ。素行をどうにかしろ。内申をどうにかしろ。出席日数をどうにかしろ。そんなことばかりだった。
同じクラスになった生徒は男女問わず不快な顔をした。俺を軽蔑するもの。俺を恐怖するもの。俺を無視するもの。色々な奴がいた。共通項は俺にいい感情を持っていないということだ。
担任の眉村は学生時代の体験談を話しているようだった。閧を作る生徒たち。男の小話に耳を傾けて、どっと笑った。俺だけ笑わなかった。
ホームルームが終わると、部活着を取り出すものや、帰宅する人がいた。俺は後者。俺は万年帰宅部なので、放課後になれば学校に居残る理由はない。暇を潰す友人も、一緒に遊ぶ友人も特にいない。
部活動はいいとは思うが、面倒。集団行動が苦手な俺が部活動をする姿なんて想像できないのが本音だった。仮に部活をすれば先生たちは更生したと考えるだろうか。青春の汗を流し、仲間と切磋琢磨する篝火白夜。そんな俺が一秒でも存在できるはずがない。それ以前に俺を入部させてくれる部活動があるとは思えない。門前払いがオチだ。
大して重くもない鞄。黒塗りの表面は落剥していた。
ざわめく校舎。騒然と色めく生徒たち。歓談や閑談が嫌でも耳から入っていき、通り過ぎていく。その喧騒はどこか遠い。
痛覚はいつの間にか収まっていた。生まれつき頑健だったからか治りが早い。その頑丈さが唯一の取り柄だった。
今年の四月は結構肌寒かった。学ランを着ていても風が染み渡り、冷気が体の奥まで浸透してくる。
寒さで目を細めていたからか、すれ違った人はみな顔を背けていた。関わりたくない。そういった感情が如実に表れている。
この村で俺の名を知らぬものは多分いない。あいつは性質の悪い不良だ。そういった酷評が隅まで轟いている。
反面俺はみんなを知らない。関わったことも話したこともない。寂しいとは思わない。それでいい。
一人でいることは楽だ。負担がない。
筋肉は負荷をかけることで強力になる。それは対人関係にもいえる。
俺は帰路についた。