6 君が教えてくれた「好き」
駅前広場から出た先の歩道で、鈴はしゃがみ込んだ。両腕の中に顔を埋める。
――いと君はずるい。あんなに堂々と私のこと「好き」って言えて、私に何かあると迷わずに駆けつけてくれる。私がそれでどんなに悩んでるのかも知らないで……。私には何もできないのに、ずるい。
「りんりーん?」
不意に名前を呼ばれ、鈴は真っ赤な目で声の主を見上げた。すると、青と白のリボンで茶色い髪を2つお団子にした少女……美琴と目が合った。鈴の従姉妹というだけあって顔立ちは綺麗に整っているが、鈴とは違って可愛らしい雰囲気だ。服装もリボンのついた青いジャンパースカートとガーリーだ。
美琴はジトッとした目で鈴を見た後、ふっと妹に向けるような優しい表情になり、しゃがみこんで鈴と目を合わせた。
「そろそろ、日和君が演奏するよ。行かなくていいの?」
小さな子どもを諭すように尋ねられる。しかし、鈴は「行けないよ」と小さく返すことしかできなかった。美琴はそれに嫌な顔を見せずに、優しく彼女の手に触れる。
「でも、日和君はりんりんに聴いてほしいんじゃないかな。さっき日和君が司会の人と相談してる声が聞こえたんだけど、弾く曲を変えるって言ってたよ」
「え?」
「リストの「愛の夢」に曲を変えたい。この曲が好きな親友が来てるんだって言ってた。その親友って、りんりんのことじゃない?」
鈴は目を丸くした。弦が、自分のためだけに曲を変えてくれようとしている。何か下心があるんじゃないか、なんて思う訳もなかった。弦は、ピアノを鈴にアピールしたり、好きになって貰ったりするための道具になんて絶対にしない。きっと、ただ鈴を元気づけたいと思っているに違いない。だって、彼はピアノに対して真摯で誠実なのだから。
「りんりん、このまま逃げちゃっていいの?」
美琴に問われ、鈴は涙を堪えながら首を横に振った。
「私、いと君のピアノが聴きたい」
「うん」
「いと君に、ありがとうって言いたい」
「うん、そうだね」
「言いに行ってもいいのかな?」
鈴が伏し目がちに尋ねるのに、美琴は明るい笑顔で頷いた。
「いいに決まってるでしょ! 王子だからとか、好きになっちゃダメとか、関係ないよ。大切な人に『ありがとう』って言うことの何が悪いのよ」
「……そうかも」
「ね? そうと決まれば行くよ!」
美琴に手を引かれて、鈴は立ち上がった。広場に歩いて行く足が重い。でも、このまま逃げてしまったらこの先ずっと後悔するだろう。
――行かなくちゃ。聴かなくちゃ。大切ないと君の、大好きな音楽を。
* * *
「プログラム六番。私立木崎学園高等学校二年、日和弦君によるピアノ演奏です。演奏してくれる曲は、リストの『愛の夢』。では、お願いします」
そのアナウンスが聞こえてすぐ、鈴は広場の隅でステージを見つめた。
そこには普段は駅の待合室前にあるストリートピアノがステージ上に設置されていて、その前に弦が静かな表情で座っている。あの表情は、彼が演奏を始める前の集中しているときのものだ。現実世界から、音楽が創り上げる世界に意識を飛ばす、その直前の表情だ。
昔と何も変わらない。鈴にはそれが神聖で美しいものに見える。
最初の旋律が奏でられた。その音色を聴いた瞬間、駅前の空気が一気に変わる。誰もが彼の音楽に心を奪われたのだ。
前の方に待機していた軽音部の女子生徒が「綺麗……」とうっとりとした溜息をもらす。――ああ、そうだな。本当に美しい。
(やっぱり、好きだな。いと君の音楽)
彼の奏でる音色を聴いているだけで、さっきまで荒れていた鈴の心が落ち着いていく。不思議だ。あんなに彼の魅力に触れるのが怖かったのに、今は全部受け入れられる。ただ「好きだな」と思える。
思えば、昔からそうだった。中学生の頃、鈴はファンからの遊びの誘いには目もくれず、弦がいる第二音楽室に直行し、日が暮れるまで彼の音楽に耳を傾けていた。あの時間が、鈴にとって他の何にも代えがたいぐらい大好きな時間だった。弦がピアノを弾くという日は、可愛いもの巡りも我慢して彼の音楽を聴くことを優先していた。
——好きなんだ。いと君との時間が。私が王子じゃなくて、みんなが認めてくれるんだったら、私は何も迷わずいと君の隣にいることを選ぶ。
曲が二番から三番に移る。甘やかなメロディーが、駅前広場を満たしていく。
鈴は、真剣にピアノを奏でていく弦の横顔を見つめていた。
――この表情は君の全てではないけれど、私は君のその真剣な顔が、昔からずっと大好きだったんだよ。
いつか、言えるだろうか。
言えるといいな。
演奏が終わり、しんとした静寂が訪れる。弦はその美しい静寂を観客に届けた後、静かに立ち上がって、ピアノの前で頭を下げた。
すぐに拍手喝采が巻き起こる。「綺麗だった」「かっこよかった」そんな興奮した声が拍手の音に混じって聞こえてきた。
弦はゆっくりと顔を上げた後、広場の隅にいる鈴を見つけて、頬を赤らめた。必死に照れ隠ししようと眉間に皺を寄せて目を伏せる。
「ありがとうございました! 日和弦君でした!」
司会の台詞を聞き、弦は静かにステージを降りた。
舞台裏に回ると、次の順番を待つフローラ・フローラの三人が待機していた。その中にいた奏は、弦を見るなりニコリと笑う。
「リストの『愛の夢』を弾いたんだね。君には似合わないロマンチックな曲だ」
「うっせーな。似合わなくてもいいんだよ。この曲が好きなヤツがいるんだ」
弦は奏を睨みつける。それにクスリと笑った後、奏は静かに微笑んだ。柔らかい笑みなのに、どこか冷たく、張り詰めている。彼の仲間たちは緊張のあまり息をのんだ。
「鈴ちゃんが好きなんだ」
「おー、分かってんじゃねーか。そうだよ。今の曲はふーりんに届きさえすればいいんだ。お前の嫌味ったらしい感想なんざいらねーんだよ」
弦は奏の冷たい笑顔に怯まず、ハッキリと言い返す。二人の間の空気がピリピリと張り詰める中、司会の前口上が終わり「では、本日最後のゲストになります! フローラ・フローラの皆さんです!」という興奮した声が広場に響いた。
奏はふっと笑い、舞台裏からステージに向かって歩いて行く。もちろん、弦の刺すような視線にも気が付いていた。
「……ほんっとうに、腹立たしい」
奏は笑顔を崩さないまま、ぼそりと呟いた。
* * *
フローラ・フローラの登場に沸き立つ会場内から、鈴はこっそりと離れた。
もちろん、美琴には「みんなが私に気づく前に帰るね」と断りを入れてある。
ただ、「日和君と会ってから帰りなさい!」と釘を刺されてしまったので、鈴は広場から出た歩道で弦にメッセージを送っていた。
——さっきは逃げてごめん。ピアノ、綺麗だった。もう帰ろうと思ってるんだけど、その前に会えるかな?
そう送ってすぐ、「どこにいる?」と返ってきたので、「広場から出たところ」と答える。すると、フローラ・フローラの歌に混ざって地面を走る音が聞こえてきたのだ。振り返ると、案の定息を切らした弦がいた。
「はー……待たせたな」
「そんなに待ってないよ。ごめんね、急かしちゃったかな」
「お前は早く帰りたいだろうなって思ってたから急いで来たんだ。急かされたとは思ってねーよ」
弦は深く息を吐き、呼吸を整えると、小さく口を開いた。
「悪かったな。色々」
「え?」
「俺の都合で、お前のこと困らせちまってた。お前は王子のままでいたいのに、それを無理やり変えようとしちまった」
弦の脳裏に、先ほどの鈴の涙目が蘇る。
──いと君のせいで、私が私じゃなくなる……。
――ふーりんのことは好きだ。大好きだ。親友じゃなくて、恋人になりたいぐらい好きだ。そのためのアプローチは惜しみたくなかった。でも、それはふーりんを泣かせてまですることなのか?
そんな疑問を、弦は彼女が逃げ出してからずっと考えていた。
そして出た答えは、ノーだ。彼女を泣かせたら本末転倒だ。なぜなら、弦は鈴の笑顔が好きだったからだ。
だからこそ、今回の演奏で弦はリストを弾いたのだ。
二人で、親友とし、仲が良かった頃に聞いていた、リストの「愛の夢」を。あの頃に戻ろう。だから、笑ってくれ、という気持ちを伝えたかったから──。
弦は頭を掻くと、「だから」と続ける。
「親友に戻ろう」
「え……?」
「もう、ふーりんには迷惑かけねー。奏は勝負だとか言ってるけど、あいつのことは俺が止めとくから。だから……お互い王子のままで、一緒にリスト聴いてた時に戻ろう」
そう言ってカラリと笑う弦を見て、鈴は呆然としてしまった。何と言葉を掛ければ良いのか分からなかった。
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
弦はそれだけ言って、広場の方に戻ってしまった。
それをただ見つめることしかできない自分が、そして、それが何故か苦しくて堪らない自分が、ただ情けなかった。
「私は……」
胸の痛みが証明している。
私は、いと君が、好きなのだと。
今さら認めるなんて、遅すぎた。
後悔と苦しさが、立ち尽くす鈴の内に渦巻いていた。
この時、鈴は自分のことでいっぱいいっぱいだったから、気がつかなかった。
「……いいのが撮れましたね。ふふ」
黒い三つ編みのメガネを掛けた生徒に、自分と弦が一緒にいるところを撮られていた、ということに。




