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リボンワンピース・プリンス  作者: 月島
第三章 未来へ踏み出す夏
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50 音楽に想いを乗せて

 翌日夕方、(りん)は香田に連れられて黄花国立音楽ホールへとやってきた。

 今まで音楽をやってこなかった(りん)にとって、縁のない建物だ。だからか、中に入るのが少し緊張してしまう。

 (りん)はウエストギャザーの紺色のワンピースの胸の部分を握りながら、香田に続いて中に入った。

 ロビーは落ち着いた雰囲気で、木を彷彿とさせる床と、階段状になった椅子が円を描いている広場が、客にゆったりすることを許してくれそうだった。実際に、コンクールの観客が何人かくつろいでいた。

 思いの外和やかな空気のロビーを見て、(りん)は安堵のため息を吐く。


涼風(すずかぜ)様。コンクールの開始は十七時なので、お手洗いを済ませておいてください。それから、演奏中に離席したり、物音を立てたりすることも厳禁です。拍手もしないようにお気を付けくださいね」

「わ、分かりました……」

「では、準備ができたらホールの方に参りましょう」


 香田に微笑まれ、(りん)は緊張した面持ちで頷いた。

 その後、早々にトイレを済ませ、香田と共にホールへ向かおうとした時だった。


(けい)さん、こっち」


 ホールの入り口に、高そうなスーツに身を包んだ美しいツリ目の中年男性が立っていたのだ。


「あの人は……?」


 (りん)が尋ねると、香田は微笑んだまま答えてくれる。


日和透(ひよりとおる)様。坊ちゃんのお父様です」

「いと君のお父さん……!」


 (りん)に再度強い緊張が走る。

 体をガチガチにさせながら「こんにちは!」とお辞儀する(りん)を見て、(とおる)は朗らかに笑った。


「こんにちは。そんなに緊張しないでください。僕は日和透(ひよりとおる)(いと)君の父親です。あなたが、涼風鈴(すずかぜりん)さん?」

「は、はい……」

(けい)さん……香田さんから話は聞いてます。いつも(いと)君と仲良くしてくれてありがとう。今日も聴きに来てくれて嬉しいよ」


 上品に微笑む(とおる)を見て、(りん)はますます恐縮してしまう。

 このコンクール、私みたいなのが来ちゃいけない場所なんじゃないか? そんな風に思って冷や汗が出て来た。


「あ、あの……私、ただの庶民ですけど、ここに来て良かったんでしょうか……」


 (りん)に尋ねられ、(とおる)はクスリと笑った。


「ふふ。大丈夫。コンクールは誰でも観覧自由だから。それに、君はただの庶民じゃないよ」

「え……?」

(いと)君の大好きな人、でしょう」


 (とおる)に指摘され、(りん)は顔を赤くしながら腕を縮こめる。


「そうだといいなって、思います」

「ふふ、もっと自信を持って欲しいな」

「はい……」


 (りん)は照れくさそうに苦笑いした。それを見て、(とおる)は微笑んで続ける。


「音楽には、演奏者の気持ちが乗るんだ。心を込めて奏でられた音は、その人の想いを乗せて、世界中のどんな人をも幸せにする。僕はそう信じている。だから……今日の(いと)君のピアノに込められた想い、ぜひ受け止めてあげてね」

「は……はい。もちろんです」


 真剣な顔で一生懸命に頷く(りん)を見て、香田と(とおる)は顔を見合わせて微笑んだ。


「では、涼風(すずかぜ)様。ホールに参りましょうか」

「はい」


 香田に案内され、(りん)はホールの空いている席に座った。

 (りん)の席は後ろの方で、審査員の席がよく見える。その遥か遠くに、ステージが見えた。

 ここからでは、演奏者の顔は見えないかもしれない。

 しかし、それでもいい。きっと音色は、(りん)の元まで届いてくれる。


(いと君の気持ち……ピアノに乗ったいと君の気持ち、全部受け止めたい)


 (りん)は真剣な顔でステージを見ながら、コンクールの開始時間を待った。


* * *


 やがて定刻となり、コンクールが開始された。

 出場者は(いと)を合わせて四人。(いと)の演奏は一番最後らしく、他の三人が順番に演奏していった。

 (りん)が知っている曲もあれば、知らない曲もあった。しかし、どの人の演奏にも共通して言えるのは、聴いていて胸が熱くなる演奏であることだ。

 ただ楽器を弾いているだけでは、こんなに迫力のある演奏にはならない。(とおる)の言う通り、心の込められた、魂の演奏だからこそ、こんなにも胸に迫る旋律が出せるのだろう。


(いと君は、こんなにハイレベルな世界にいたんだ)


 (りん)は興奮と同時に、(いと)がどうして自分の演奏を認めずに、ずっと高みを目指してきたのかを理解した。


(いと君は、こんなにすごい人達と戦っていたんだ……)


 次はいよいよ(いと)の番だ。

 彼がステージにやってきて、観客席に一礼する。

 そしていつものようにピアノの前に座り、静かな表情で意識を音楽の世界へ落としていった。


(始まる……)


 ベートーヴェンピアノソナタ二十三番の第三楽章、最初の音が鳴り響いた。

 そのまま、せり上がるような旋律が続く。何も知らない(りん)が聴いても、難しい曲であると分かってしまうほどだった。

 激しく動く音を聴きながら、(りん)は呼吸を忘れて(いと)を見つめる。

 遠いから、顔は見えない。喋っていないから声も聞こえない。しかし、ピアノを弾いている彼を見ていると、こう言われているような気がした。


 ――俺のピアノを聴け。一音たりとも聴き逃すな。俺の本気の気持ちを、全部その記憶に留めてくれ。


 (りん)は彼の熱い気持ちを感じ取り、ワンピースを握りしめながら食いつくように演奏を聴いていた。





 演奏中、(いと)は鍵盤を奏でながら、様々な想いに駆られていた。

 両親が亡くなって数日後、自分を引き取ってくれた(とおる)沙也加(さやか)が、塞ぎこんでいた自分にピアノを教えてくれたこと。

 その新しい両親が海外に行ってしまって、ピアノから離れてしまったこと。

 その間の自分は、光を失って救いようがないぐらい落ちぶれていたこと。

 しかしそれを(りん)が救ってくれたこと――。


 ――日和(ひより)君は、頑張り屋な良い人だよ。


 初めて自分を認めてくれた人が(りん)だったこと。


 ――日和(ひより)君。もう大丈夫だから……私なら、大丈夫だから……。


 自分が同級生に手を上げた時、(りん)が、自分自身が酷い事をされた時以上に泣いていたこと。


 ――いと君のピアノ、私すごく好きだよ。なんていうか、すごく……綺麗なんだ。いと君の音色は、透き通って感じる。


 自分のピアノをいつも心から褒めてくれたこと。


 ――私、君のことが大好きだよ。誰がどんなに否定しても、私が、君の価値を証明し続けるから。


 ――いと君が辛いときは、どこへだって駆けつけるよ。


 ――大好きな君が帰ってくるの、ずっと待ってるから。


 彼女のくれた言葉の全てが、彼女と過ごした時間の全てが、鍵盤を弾くたびに蘇るのだ。

 振り返れば、(りん)と過ごした時間の全てにピアノがあった。

 大切な彼女を想って奏でた音色があった。

 大切な思い出は、いつだって音楽が紡いでくれていた。今までも、これからも、ピアノを弾けばきっとあの日々に帰れる。

 ――俺の想いは、全てピアノに込められる。だから(りん)。聴いていてくれ。俺の音楽を聴いて……いつもみたいに、穏やかに笑っててくれ――。


 曲の最後の音が鳴る。

 (いと)は立ち上がり、観客席に深く礼をした。

 ここから(りん)の姿は見えない。

 しかし、彼女もきっと、自分の演奏を聴いていつものように微笑んでくれた――(いと)はそう信じながら、ステージから出て行った。

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