50 音楽に想いを乗せて
翌日夕方、鈴は香田に連れられて黄花国立音楽ホールへとやってきた。
今まで音楽をやってこなかった鈴にとって、縁のない建物だ。だからか、中に入るのが少し緊張してしまう。
鈴はウエストギャザーの紺色のワンピースの胸の部分を握りながら、香田に続いて中に入った。
ロビーは落ち着いた雰囲気で、木を彷彿とさせる床と、階段状になった椅子が円を描いている広場が、客にゆったりすることを許してくれそうだった。実際に、コンクールの観客が何人かくつろいでいた。
思いの外和やかな空気のロビーを見て、鈴は安堵のため息を吐く。
「涼風様。コンクールの開始は十七時なので、お手洗いを済ませておいてください。それから、演奏中に離席したり、物音を立てたりすることも厳禁です。拍手もしないようにお気を付けくださいね」
「わ、分かりました……」
「では、準備ができたらホールの方に参りましょう」
香田に微笑まれ、鈴は緊張した面持ちで頷いた。
その後、早々にトイレを済ませ、香田と共にホールへ向かおうとした時だった。
「圭さん、こっち」
ホールの入り口に、高そうなスーツに身を包んだ美しいツリ目の中年男性が立っていたのだ。
「あの人は……?」
鈴が尋ねると、香田は微笑んだまま答えてくれる。
「日和透様。坊ちゃんのお父様です」
「いと君のお父さん……!」
鈴に再度強い緊張が走る。
体をガチガチにさせながら「こんにちは!」とお辞儀する鈴を見て、透は朗らかに笑った。
「こんにちは。そんなに緊張しないでください。僕は日和透。弦君の父親です。あなたが、涼風鈴さん?」
「は、はい……」
「圭さん……香田さんから話は聞いてます。いつも弦君と仲良くしてくれてありがとう。今日も聴きに来てくれて嬉しいよ」
上品に微笑む透を見て、鈴はますます恐縮してしまう。
このコンクール、私みたいなのが来ちゃいけない場所なんじゃないか? そんな風に思って冷や汗が出て来た。
「あ、あの……私、ただの庶民ですけど、ここに来て良かったんでしょうか……」
鈴に尋ねられ、透はクスリと笑った。
「ふふ。大丈夫。コンクールは誰でも観覧自由だから。それに、君はただの庶民じゃないよ」
「え……?」
「弦君の大好きな人、でしょう」
透に指摘され、鈴は顔を赤くしながら腕を縮こめる。
「そうだといいなって、思います」
「ふふ、もっと自信を持って欲しいな」
「はい……」
鈴は照れくさそうに苦笑いした。それを見て、透は微笑んで続ける。
「音楽には、演奏者の気持ちが乗るんだ。心を込めて奏でられた音は、その人の想いを乗せて、世界中のどんな人をも幸せにする。僕はそう信じている。だから……今日の弦君のピアノに込められた想い、ぜひ受け止めてあげてね」
「は……はい。もちろんです」
真剣な顔で一生懸命に頷く鈴を見て、香田と透は顔を見合わせて微笑んだ。
「では、涼風様。ホールに参りましょうか」
「はい」
香田に案内され、鈴はホールの空いている席に座った。
鈴の席は後ろの方で、審査員の席がよく見える。その遥か遠くに、ステージが見えた。
ここからでは、演奏者の顔は見えないかもしれない。
しかし、それでもいい。きっと音色は、鈴の元まで届いてくれる。
(いと君の気持ち……ピアノに乗ったいと君の気持ち、全部受け止めたい)
鈴は真剣な顔でステージを見ながら、コンクールの開始時間を待った。
* * *
やがて定刻となり、コンクールが開始された。
出場者は弦を合わせて四人。弦の演奏は一番最後らしく、他の三人が順番に演奏していった。
鈴が知っている曲もあれば、知らない曲もあった。しかし、どの人の演奏にも共通して言えるのは、聴いていて胸が熱くなる演奏であることだ。
ただ楽器を弾いているだけでは、こんなに迫力のある演奏にはならない。透の言う通り、心の込められた、魂の演奏だからこそ、こんなにも胸に迫る旋律が出せるのだろう。
(いと君は、こんなにハイレベルな世界にいたんだ)
鈴は興奮と同時に、弦がどうして自分の演奏を認めずに、ずっと高みを目指してきたのかを理解した。
(いと君は、こんなにすごい人達と戦っていたんだ……)
次はいよいよ弦の番だ。
彼がステージにやってきて、観客席に一礼する。
そしていつものようにピアノの前に座り、静かな表情で意識を音楽の世界へ落としていった。
(始まる……)
ベートーヴェンピアノソナタ二十三番の第三楽章、最初の音が鳴り響いた。
そのまま、せり上がるような旋律が続く。何も知らない鈴が聴いても、難しい曲であると分かってしまうほどだった。
激しく動く音を聴きながら、鈴は呼吸を忘れて弦を見つめる。
遠いから、顔は見えない。喋っていないから声も聞こえない。しかし、ピアノを弾いている彼を見ていると、こう言われているような気がした。
――俺のピアノを聴け。一音たりとも聴き逃すな。俺の本気の気持ちを、全部その記憶に留めてくれ。
鈴は彼の熱い気持ちを感じ取り、ワンピースを握りしめながら食いつくように演奏を聴いていた。
演奏中、弦は鍵盤を奏でながら、様々な想いに駆られていた。
両親が亡くなって数日後、自分を引き取ってくれた透と沙也加が、塞ぎこんでいた自分にピアノを教えてくれたこと。
その新しい両親が海外に行ってしまって、ピアノから離れてしまったこと。
その間の自分は、光を失って救いようがないぐらい落ちぶれていたこと。
しかしそれを鈴が救ってくれたこと――。
――日和君は、頑張り屋な良い人だよ。
初めて自分を認めてくれた人が鈴だったこと。
――日和君。もう大丈夫だから……私なら、大丈夫だから……。
自分が同級生に手を上げた時、鈴が、自分自身が酷い事をされた時以上に泣いていたこと。
――いと君のピアノ、私すごく好きだよ。なんていうか、すごく……綺麗なんだ。いと君の音色は、透き通って感じる。
自分のピアノをいつも心から褒めてくれたこと。
――私、君のことが大好きだよ。誰がどんなに否定しても、私が、君の価値を証明し続けるから。
――いと君が辛いときは、どこへだって駆けつけるよ。
――大好きな君が帰ってくるの、ずっと待ってるから。
彼女のくれた言葉の全てが、彼女と過ごした時間の全てが、鍵盤を弾くたびに蘇るのだ。
振り返れば、鈴と過ごした時間の全てにピアノがあった。
大切な彼女を想って奏でた音色があった。
大切な思い出は、いつだって音楽が紡いでくれていた。今までも、これからも、ピアノを弾けばきっとあの日々に帰れる。
――俺の想いは、全てピアノに込められる。だから鈴。聴いていてくれ。俺の音楽を聴いて……いつもみたいに、穏やかに笑っててくれ――。
曲の最後の音が鳴る。
弦は立ち上がり、観客席に深く礼をした。
ここから鈴の姿は見えない。
しかし、彼女もきっと、自分の演奏を聴いていつものように微笑んでくれた――弦はそう信じながら、ステージから出て行った。




