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リボンワンピース・プリンス  作者: 月島
第三章 未来へ踏み出す夏
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49 覚悟

 その日の夕方、日和(ひより)家にはピアノの音が響いていた。

 (いと)の部屋から聴こえてくるベートーヴェンのピアノソナタ二十三番は、コンクール二日前というだけあってかなりの完成度だ。

 しかし(いと)はまだ納得していないようで、昼食をとってからかれこれ五時間ほど練習を続けていた。

 時刻はもう十八時。そろそろ夕食の時間だ。

 香田はそのことを伝えに(いと)の部屋へ入ろうとして、足を止めた。

 後ろから誰か歩いてくる音が聞こえたからだ。

 振り返ると、そこには(とおる)が来ていた。


(とおる)様……!」


 驚く香田を見て、(とおる)は自分の口元に人差し指を当てる。


「静かに。(いと)君の邪魔をしたくない」

「申し訳ありません……」


 香田は静かに頭を下げる。

 彼女に微笑んで、(とおる)は小さな声で彼女に尋ねた。


「最後に聴いた時と比べて、驚くほど上手くなったね。どんな練習をしていたんだろう」

「練習方法は、他の人と大差ないと思います。ただ、ピアノにかける時間が大きく増えたのです。大好きな人の隣に並びたい一心で、ピアノを練習していたんですよ。坊ちゃんは」

「その人もピアノをしているの?」

「いいえ。ピアノはしていませんが、文武両道で才色兼備な同級生です。おまけに性格まで優しいのです」

「ほう。女の子?」

「そうですね」

「ああ……(いと)君も大人になったんだな。僕もその子に会ってみたいよ」


 (とおる)が嬉しそうに微笑むと、香田は真剣な顔で頷いた。


「次のコンクールで、お連れします。坊ちゃんから、彼女がどこにいても連れて来てくれと頼まれているのです」

「そうなのか。その子は(いと)君のピアノを知ってるの?」

「はい。いつも放課後に聴いてくれていたそうです」

「なら、その子が自分のピアノで感動してくれたら……(いと)君も自信がつくかな」

「そうですね。ですが……(とおる)様。あなたは一つ大切なことをお忘れになっています」


 香田に真っ直ぐに見つめられ、(とおる)は息をのむ。

 自分が忘れていることが何なのか、(とおる)には見当もつかなかった。

 ただ、香田の澄んだ黒い瞳が、親友の幸一(こういち)にそっくりだったのだ。だから、驚いてしまった。


「忘れてることって?」

「坊ちゃんは、(とおる)様にもピアノを聴いて欲しいと思っています。あなたに認めて欲しい……その一心で、幼少期からずっとピアノを頑張ってこられた。しかし、あなたは坊ちゃんに褒め言葉を掛けることなく、海外に行ってしまわれましたね」


 香田の声に、(とおる)を責める意図は感じない。ただ、淡々と事実を確認するような声色だ。

 しかし(とおる)は罪悪感を強く感じ、申し訳なさそうに目を伏せた。


「あ、ああ……そう、だね。なんて謝ればいいか……」

「必要なのは謝罪ではありません。坊ちゃんのピアノを聴き、心からの感想を伝えること――坊ちゃんの想いと向き合うことです」


 香田の言葉に、(とおる)は目を見開いた。

 驚いた様子の彼を見て、香田は静かに続ける。


「兄があなたに坊ちゃんを託した理由は、血の繋がりが無くても、あなたなら……坊ちゃんと向き合って、坊ちゃんが素敵な大人になるように導いてくれると、そう信じていたからだと思います。兄の想いに、今一度応えていただけませんか」

(けい)さん……」


 (とおる)は息をぐっと詰まらせ、深く、深く頭を下げた。


「君の言う通りだ。そのことを、今の今まで忘れていた。申し訳ない」


 (とおる)は顔を上げ、香田(こうだ)に微笑む。


「僕も、(いと)君の音色と向き合うよ。あの子の真摯な想いを……全て、受け取ろう」


 (とおる)の言葉に、香田(こうだ)も安心した顔で微笑んだのだった。

 (いと)の部屋から聴こえてきていたピアノソナタの音色が止む。丁度、弾き終わったようだった。

 (いと)は鍵盤に触れ、深く息を吐く。


(りん)に……俺の大切な人に届けるんだ。今の俺の、最高の音色を)


 (いと)は透き通った瞳で覚悟を決め、最後にもう一度ピアノを弾き始めたのだった。


* * *


 翌日の午後一時。香田との約束の時間の五分前に、(りん)(せり)と共に仙台駅にやってきた。

 二人が到着した時には、既に駅の入り口に執事姿の香田が立っていた。二人は慌てて彼女の元へ走っていく。


「香田さん! すみません、お待たせしました……!」

「いいえ。まだ五分前です。問題ありませんよ」


 香田は微笑むと、(りん)のキャリーケースを手に取った。


「お持ちしますね」

「あ、大丈夫です! 自分で運びます」

涼風(すずかぜ)様には真心を込めて接して欲しいと、坊ちゃんから仰せつかっているのです。私のためだと思って運ばせてください」

「ああ……そういうことなら」


 (りん)は躊躇いつつも、彼女にキャリーケースを預ける。


「では、屋上駐車場に向かいましょうか」

「は、はい! あ、すみません、少し待ってください」

「承知いたしました」


 (りん)は香田に断って、(せり)の方を振り返って微笑む。


「お母さん、ありがとう。お母さんのお陰で、私、前を向けそうだよ」

「そっか。それならよかったよ」


 (せり)は穏やかに笑うと、(りん)の肩をポンと叩く。


(りん)ちゃんなら、この先何があっても大丈夫。だって、私とお父さんの子だから。……何かあったら、またいつでもおいで」

「うん。お母さんも、いつでも帰ってきてね。私も、お父さんも、お兄ちゃんも……ずっと待ってるから!」


 (りん)に明るい笑顔を向けられて、(せり)の大きな黒い瞳が潤む。

 しかし、泣きそうになるのをグッと堪えて、(せり)は朗らかに笑った。


「うん。いつか、きっと帰るよ」


 しばらく母娘で笑い合って、(せり)(りん)の肩から手を離す。


「じゃあ、またね」

「うん。またね、お母さん」


 (りん)(せり)に笑顔を向けた後、香田と共に屋上駐車場へ向かった。

 かつて(いと)と共にショッピングモールへ行った時に乗せて貰った黒い車の、後部座席に乗り込む。


「シートベルトをお願いしますね。では安全運転で参ります」

「お願いします」


 香田が車を発進させる。

 安定した運転で仙台を出発した二人は、木崎市へと向かった。


* * *


 高速道路を走り始めて二時間。香田の申し出で、二人はサービスエリアで休憩をとることになった。

 駐車場に車を停めて、(りん)は飲み物を買うべく売店の方へ向かう。それに香田もついてきてくれた。

 ペットボトルの麦茶を購入した後、少し店内を歩いてみる。すると、お土産の置いてあるコーナーにご当地まるぺんのマスコットキーホルダーが陳列されていた。


「まるぺんさん……! あかべこ被ってる……可愛い……」


 (りん)が目を輝かせる横で、香田も優しく目を細めていた。


「本当に愛らしいですね」

「そうですよね! 丸くてコロコロしてて……お目目ウルウルなところが可愛くて……って! ごめんなさい! はしゃいじゃいました……」


 (りん)は恥ずかしそうに体を縮こめる。それを見た香田はクスリと笑って微笑む。


「いえ。私もまるぺんが好きなので、お気持ちはよく分かります」

「ほ、ほんとですか……?」

「はい。それに加えて、自分の好きなものを素直に好きと言える涼風(すずかぜ)様も、とても素敵だと思います。坊ちゃんがどうしてあなたの笑顔が見たかったのか、今、よく分かりました」

「あ……えへへ」


 (りん)は照れくさそうに頬をかく。

 香田はそんな彼女にニコリと微笑んで続けた。


「その笑顔、ぜひ明日、坊ちゃんにも見せてあげてください」

「は、はい……」

「では、お手洗いを済ませたら出発しましょうか」

「分かりました」


 (りん)は頷く。

 二人はトイレを済ませて、再度木崎市へ向けて出発したのだった。


* * *


 その日の夜十九時頃、二人は無事に(りん)の家へ到着した。

 香田がドアを開けてくれ、(りん)も降車する。


涼風(すずかぜ)様、お荷物です」

「ありがとうございます」


 (りん)は香田が下ろしてくれたキャリーケースを受け取り、頭を下げた。


「あ、そうだ。お土産があるんです! 長い距離を運転して下さったので、お礼に……」


 (りん)は手に持っていたお土産の入った袋を香田に手渡す。


「もし良ければ、日和(ひより)家の皆さんと一緒に食べてください」

「これはご丁寧に……ありがとうございます。きっと皆喜びます」


 香田は嬉しそうに微笑みながら、お土産を受け取る。


「では、明日の夕方十六時にこちらにお迎えに上がりますので、よろしくお願いいたします」

「はい! こちらこそ、よろしくお願いします……!」

「では、失礼いたします」


 香田はニコリと微笑んで、車に戻っていった。

 彼女の車が日和(ひより)家へと帰っていく。それをぼんやりと見送った後、(りん)はショルダーバックからラッピングされたピアスを取り出して見つめた。


「喜んでくれるといいな……」


 (りん)は小さく呟く。

 自分の気持ちが、少しでも(いと)に伝わったら嬉しかった。

 

 ――私が、もう迷いなく君を応援してること。君の帰りを信じて待ってるんだってこと……伝えなきゃ。

 

 (りん)は覚悟を決めて、ピアスを鞄に仕舞ったのだった。

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