49 覚悟
その日の夕方、日和家にはピアノの音が響いていた。
弦の部屋から聴こえてくるベートーヴェンのピアノソナタ二十三番は、コンクール二日前というだけあってかなりの完成度だ。
しかし弦はまだ納得していないようで、昼食をとってからかれこれ五時間ほど練習を続けていた。
時刻はもう十八時。そろそろ夕食の時間だ。
香田はそのことを伝えに弦の部屋へ入ろうとして、足を止めた。
後ろから誰か歩いてくる音が聞こえたからだ。
振り返ると、そこには透が来ていた。
「透様……!」
驚く香田を見て、透は自分の口元に人差し指を当てる。
「静かに。弦君の邪魔をしたくない」
「申し訳ありません……」
香田は静かに頭を下げる。
彼女に微笑んで、透は小さな声で彼女に尋ねた。
「最後に聴いた時と比べて、驚くほど上手くなったね。どんな練習をしていたんだろう」
「練習方法は、他の人と大差ないと思います。ただ、ピアノにかける時間が大きく増えたのです。大好きな人の隣に並びたい一心で、ピアノを練習していたんですよ。坊ちゃんは」
「その人もピアノをしているの?」
「いいえ。ピアノはしていませんが、文武両道で才色兼備な同級生です。おまけに性格まで優しいのです」
「ほう。女の子?」
「そうですね」
「ああ……弦君も大人になったんだな。僕もその子に会ってみたいよ」
透が嬉しそうに微笑むと、香田は真剣な顔で頷いた。
「次のコンクールで、お連れします。坊ちゃんから、彼女がどこにいても連れて来てくれと頼まれているのです」
「そうなのか。その子は弦君のピアノを知ってるの?」
「はい。いつも放課後に聴いてくれていたそうです」
「なら、その子が自分のピアノで感動してくれたら……弦君も自信がつくかな」
「そうですね。ですが……透様。あなたは一つ大切なことをお忘れになっています」
香田に真っ直ぐに見つめられ、透は息をのむ。
自分が忘れていることが何なのか、透には見当もつかなかった。
ただ、香田の澄んだ黒い瞳が、親友の幸一にそっくりだったのだ。だから、驚いてしまった。
「忘れてることって?」
「坊ちゃんは、透様にもピアノを聴いて欲しいと思っています。あなたに認めて欲しい……その一心で、幼少期からずっとピアノを頑張ってこられた。しかし、あなたは坊ちゃんに褒め言葉を掛けることなく、海外に行ってしまわれましたね」
香田の声に、透を責める意図は感じない。ただ、淡々と事実を確認するような声色だ。
しかし透は罪悪感を強く感じ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「あ、ああ……そう、だね。なんて謝ればいいか……」
「必要なのは謝罪ではありません。坊ちゃんのピアノを聴き、心からの感想を伝えること――坊ちゃんの想いと向き合うことです」
香田の言葉に、透は目を見開いた。
驚いた様子の彼を見て、香田は静かに続ける。
「兄があなたに坊ちゃんを託した理由は、血の繋がりが無くても、あなたなら……坊ちゃんと向き合って、坊ちゃんが素敵な大人になるように導いてくれると、そう信じていたからだと思います。兄の想いに、今一度応えていただけませんか」
「圭さん……」
透は息をぐっと詰まらせ、深く、深く頭を下げた。
「君の言う通りだ。そのことを、今の今まで忘れていた。申し訳ない」
透は顔を上げ、香田に微笑む。
「僕も、弦君の音色と向き合うよ。あの子の真摯な想いを……全て、受け取ろう」
透の言葉に、香田も安心した顔で微笑んだのだった。
弦の部屋から聴こえてきていたピアノソナタの音色が止む。丁度、弾き終わったようだった。
弦は鍵盤に触れ、深く息を吐く。
(鈴に……俺の大切な人に届けるんだ。今の俺の、最高の音色を)
弦は透き通った瞳で覚悟を決め、最後にもう一度ピアノを弾き始めたのだった。
* * *
翌日の午後一時。香田との約束の時間の五分前に、鈴は芹と共に仙台駅にやってきた。
二人が到着した時には、既に駅の入り口に執事姿の香田が立っていた。二人は慌てて彼女の元へ走っていく。
「香田さん! すみません、お待たせしました……!」
「いいえ。まだ五分前です。問題ありませんよ」
香田は微笑むと、鈴のキャリーケースを手に取った。
「お持ちしますね」
「あ、大丈夫です! 自分で運びます」
「涼風様には真心を込めて接して欲しいと、坊ちゃんから仰せつかっているのです。私のためだと思って運ばせてください」
「ああ……そういうことなら」
鈴は躊躇いつつも、彼女にキャリーケースを預ける。
「では、屋上駐車場に向かいましょうか」
「は、はい! あ、すみません、少し待ってください」
「承知いたしました」
鈴は香田に断って、芹の方を振り返って微笑む。
「お母さん、ありがとう。お母さんのお陰で、私、前を向けそうだよ」
「そっか。それならよかったよ」
芹は穏やかに笑うと、鈴の肩をポンと叩く。
「鈴ちゃんなら、この先何があっても大丈夫。だって、私とお父さんの子だから。……何かあったら、またいつでもおいで」
「うん。お母さんも、いつでも帰ってきてね。私も、お父さんも、お兄ちゃんも……ずっと待ってるから!」
鈴に明るい笑顔を向けられて、芹の大きな黒い瞳が潤む。
しかし、泣きそうになるのをグッと堪えて、芹は朗らかに笑った。
「うん。いつか、きっと帰るよ」
しばらく母娘で笑い合って、芹は鈴の肩から手を離す。
「じゃあ、またね」
「うん。またね、お母さん」
鈴は芹に笑顔を向けた後、香田と共に屋上駐車場へ向かった。
かつて弦と共にショッピングモールへ行った時に乗せて貰った黒い車の、後部座席に乗り込む。
「シートベルトをお願いしますね。では安全運転で参ります」
「お願いします」
香田が車を発進させる。
安定した運転で仙台を出発した二人は、木崎市へと向かった。
* * *
高速道路を走り始めて二時間。香田の申し出で、二人はサービスエリアで休憩をとることになった。
駐車場に車を停めて、鈴は飲み物を買うべく売店の方へ向かう。それに香田もついてきてくれた。
ペットボトルの麦茶を購入した後、少し店内を歩いてみる。すると、お土産の置いてあるコーナーにご当地まるぺんのマスコットキーホルダーが陳列されていた。
「まるぺんさん……! あかべこ被ってる……可愛い……」
鈴が目を輝かせる横で、香田も優しく目を細めていた。
「本当に愛らしいですね」
「そうですよね! 丸くてコロコロしてて……お目目ウルウルなところが可愛くて……って! ごめんなさい! はしゃいじゃいました……」
鈴は恥ずかしそうに体を縮こめる。それを見た香田はクスリと笑って微笑む。
「いえ。私もまるぺんが好きなので、お気持ちはよく分かります」
「ほ、ほんとですか……?」
「はい。それに加えて、自分の好きなものを素直に好きと言える涼風様も、とても素敵だと思います。坊ちゃんがどうしてあなたの笑顔が見たかったのか、今、よく分かりました」
「あ……えへへ」
鈴は照れくさそうに頬をかく。
香田はそんな彼女にニコリと微笑んで続けた。
「その笑顔、ぜひ明日、坊ちゃんにも見せてあげてください」
「は、はい……」
「では、お手洗いを済ませたら出発しましょうか」
「分かりました」
鈴は頷く。
二人はトイレを済ませて、再度木崎市へ向けて出発したのだった。
* * *
その日の夜十九時頃、二人は無事に鈴の家へ到着した。
香田がドアを開けてくれ、鈴も降車する。
「涼風様、お荷物です」
「ありがとうございます」
鈴は香田が下ろしてくれたキャリーケースを受け取り、頭を下げた。
「あ、そうだ。お土産があるんです! 長い距離を運転して下さったので、お礼に……」
鈴は手に持っていたお土産の入った袋を香田に手渡す。
「もし良ければ、日和家の皆さんと一緒に食べてください」
「これはご丁寧に……ありがとうございます。きっと皆喜びます」
香田は嬉しそうに微笑みながら、お土産を受け取る。
「では、明日の夕方十六時にこちらにお迎えに上がりますので、よろしくお願いいたします」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします……!」
「では、失礼いたします」
香田はニコリと微笑んで、車に戻っていった。
彼女の車が日和家へと帰っていく。それをぼんやりと見送った後、鈴はショルダーバックからラッピングされたピアスを取り出して見つめた。
「喜んでくれるといいな……」
鈴は小さく呟く。
自分の気持ちが、少しでも弦に伝わったら嬉しかった。
――私が、もう迷いなく君を応援してること。君の帰りを信じて待ってるんだってこと……伝えなきゃ。
鈴は覚悟を決めて、ピアスを鞄に仕舞ったのだった。




