47 大切なものに触れた時
その日の夜遅く、鈴は仙台駅に到着した。
駅の改札から出て母らしき人物を探すが、そもそも鈴が小学校中学年になる頃には母と一緒に暮らしておらず、話しても電話だけだったような状態のため、彼女の顔がよく分からない。
念のため父から受け取っていた鈴の幼少期の家族写真のデータを見ながら、周囲を探してみる。当時の母は美しい黒髪のロングヘアで、目元は鈴に似て睫毛の長いくっきりした顔立ちだった。
しかし、その写真を撮ってからもう十一年が経つ。今は全く違う姿になっていてもおかしくないのだ。
向こうから自分に気付いてくれるとありがたいんだけど……そう思いながら、鈴が改札付近をウロウロしていた時だった。
「涼風鈴ちゃん?」
不意に、背の高い中性的な人物に声を掛けられた。黒い髪は鈴より少し短いショートヘアで、背の高さも鈴と同じくらい。睫毛の長いくっきりした顔立ちの美人だが、服装は黒いシャツとテーパードパンツ……と、いかにも男性らしい格好だ。
一体誰だ? 鈴が戸惑いつつも「そうです」と答えると、その人物は柔らかく笑ってくれた。
「やっぱり。お久しぶりです。私は涼風芹……あなたの母親です」
「え……お母さん、なの?」
「そうだよ。……驚かせちゃったかな」
芹は少し低い女性の声で笑う。彼女の声は、「声の高い男性」と言われても信じてしまいそうなものだった。
格好も、髪型も、声も、鈴が持っている家族写真の中の母の面影が無い。一体どういうことなのだろうか。
口を開けたまま固まっている鈴を見て、芹は静かに笑って歩き出した。
「父さんから、話は色々聞いてるよ。とりあえず、私の家に行こう。もう遅いから」
「う、うん……」
鈴はまだ驚きが消えないまま、芹の後をついて行った。
* * *
芹に車で連れてこられたのは、仙台の端の方にある静かな町のアパートだった。
電気を点け、中に入る。すると、寝室兼リビングになっている部屋の他に、もう一つ部屋があった。
しかし、扉は固く閉ざされており、鈴は勝手に開ける気にならなかった。
「とりあえず、お風呂入っちゃって。鈴ちゃんの家より狭いけど」
「あ、うん。じゃあ、お借りします」
鈴は荷物をリビングに置かせてもらい、着替えを取り出して風呂場へ向かった。
シャワーを浴びて、シャンプーを借りようと手を伸ばして、ふと気づく。
(これ……うちで使ってるのと同じだ)
そう思いながら、鈴はシャンプーを押し出して頭を洗い始めた。
(雰囲気とか、違うけど……やっぱりお母さんなんだ……)
それを再認識しながら、鈴はシャワーを浴びたのだった。
風呂を終え、鈴が部屋に戻って来ると、母の姿が見当たらなかった。
一体どこに行ったのだろう……そう疑問に思いながら、部屋中を歩き回る。
トイレにもリビングにもキッチンにも姿が見えず、残されたのは先ほど気になった「もう一つの部屋」だった。
(勝手に入っていいのか分からないけど……どこに寝ればいいのかとか分からないし、やっぱり聞かないと)
鈴は恐る恐るドアノブを回して、中を覗き見た。
すると、どうやらその部屋は天井まで本に埋め尽くされた書斎であることが分かった。
ゆっくりと中に入って行くと、部屋の奥の散らかった机でパソコン作業をしている芹を見つけた。
「お母さん……?」
「あ! ああ、鈴ちゃんか。ごめんね、仕事終わらなくて」
「何の仕事してるの?」
鈴が尋ねると、芹は机の上に乗っていた文庫本を手に取り、微笑む。
「作家だよ。小説を書いてるんだ」
「え……!」
鈴は目を丸くした。
彼女の持っている文庫本をまじまじと見ると、花のイラストの脇に「遠坂芹菜」と作家の名前がついている。そういえば、この作者の本を鈴も読んだことがあった。
「すごい……いつから作家してるの?」
「鈴ちゃんが生まれてしばらくしてからかなあ。君を育てながら書いてたんだ」
「そうなんだ……すごいね。小説って、書くのすごく大変でしょ? それを子育てしながらやってたなんて」
目を輝かせる鈴を見て、芹は「そんなことないよ」と笑った。
「小説は、自分の気持ちを記録するために書いてたんだ。物語に乗せて、自分の想いを形にしてたの。あの頃は特に、色々悩んでた時期だったから」
「悩んでた時期?」
「そう。自分の性別について、とかね」
その言葉を聞いて、鈴は目を見開いた。
その娘の様子を見て芹は静かに笑う。
「私ね、自分は女の人じゃないと思ってたんだ。父さんのことは好きだったし、律君と鈴ちゃんのことも愛してた。だけど、『母親』って肩書が苦しくて……段々子ども達に上手く愛情を注げなくなっていった。だからね、お父さんに頼んで別居することにしたんだ。何か間違いが起きる前に、ね」
「そうだったんだ……」
鈴は何と言葉を掛ければ良いか迷った。
そもそも、彼女を「お母さん」と呼んでいいのかすら、分からなかった。
「えっと……じゃあ、お父さんって呼んだ方がいいのかな?」
鈴の言葉に、芹はクスリと笑って首を横に振る。
「ううん。お母さんでいいよ。私、自分のことを男の人とも思えないから。クエスチョニングって言うんだ。自分の性別が分からない人のこと。私はそれなんだよ」
「そっか……でも、『母親』って肩書は苦しいんだよね?」
「昔はそうだったけど……今はそれほど気にしてないよ。距離を置いて冷静になれたのかな。鈴ちゃんのことも、律君のことも、今は一人の親として大事に思ってる」
芹はそう言うと、目を閉じて微笑んだ。
「時間が経つにつれて、変わるものってあるよね。人との関係とか、想いとか」
「……そうだね」
鈴の頭に弦のことが思い出される。
時間が経って、彼との関係や、彼への想いが希薄になったら……そう考えるだけで、胸が苦しくて泣きそうになってしまう。
「お母さんは、時間が経って忘れてしまった想いってある……?」
鈴は震える声で尋ねた。
「大好きな人……たとえば、お父さんと過ごした日々とか、その時感じてた想いとか、今も忘れずに覚えてる……?」
鈴の質問に、芹は少し間を置いて天井を見上げながら答えた。
「覚えてるつもりだよ。でも、私が気づかないだけで、忘れてることは沢山あると思う」
「じゃあ、忘れちゃったら……その想いは、無くなっちゃう?」
「鈴ちゃんは、思い出をすべて覚えていたいの?」
芹が尋ねる。それに鈴は必死に頷いた。
「忘れたくない人がいるんだ。その人と過ごした思い出も、感じていた気持ちも、好きって気持ちも……何もかも、今のまま覚えておきたいんだ。何年経っても、その人が帰ってくるまで、ずっと……!」
鈴は涙を零しながら、一生懸命に芹へ訴えた。
「失くしたくないんだ! いと君がくれた気持ち、全部……! でも、いつか忘れちゃったらどうしようって、不安で……怖くて堪らなくて……!」
鈴はその場で泣きじゃくりながらへたりこむ。
「お母さん、私、どうしたらいいのかな……?」
芹には、涙で顔を濡らしながら自分を見つめてくる鈴の姿が、十一年前、仕事へ出かける自分を必死に引き留めていた幼少期の鈴の姿に重なって見えた。
――おかあさん、いかないで!
あの時の胸を切られるような鋭い痛みを、芹は今、鮮明に思い出した。
「鈴ちゃん」
芹は優しく微笑みながら、彼女の前に座って、抱きしめた。
「思い出を全部完璧に覚えておくのは難しいんだ。でもね、その思い出を忘れたとしても、私達の心は全て覚えてるんだよ」
鈴の頭をそっと撫でながら、芹は続ける。
「たとえ忘れてしまっても、積み重ねてきた時間は無にはならない。二人にとって大切なものに触れた時、思い出は必ず蘇ってくれる。私が今、小さかった頃の君の泣き顔を思い出したようにね」
「お母さん……」
鈴は泣きじゃくりながら、芹の体に腕を回した。
「私にも……思い出せるかな? いと君と過ごした時間」
「いと君が大切なら、きっと思い出せるよ」
「うん……そうだといいな……」
その日の夜は、鈴が落ち着くまで、二人は抱きしめ合っていた。




