46 大好きな人と一緒にいるための準備
弦とまた会う約束をして、鈴は家に帰って来た。
玄関に上がり、扉を閉める。その途端に、涙がはらはらと零れ落ちていった。
――これから先も、ずっとそうだったらいいなって思ってる。俺と鈴の間に、俺のピアノの音があって……何歳年をとっても、ピアノを聴く度にそのときのことを思い出せたらいいなって。
弦の気持ちは、痛いほど分かる。鈴だって、これから先の人生に弦がいて、二人の間に彼の音楽があったらこの上なく幸せだ。そして、彼のピアノの音色を聴く度に思い出が蘇ったら、すごく素敵だとも思う。
しかし、それは裏を返せば、弦のピアノが無ければ思い出が思い出せなくなってしまうということなんじゃないか。
鈴も弦も、これからの人生で多くのことが待ち受けている。受験、進学、就職……その荒波に飲まれてしまって、弦との思い出が薄れてしまったら?
彼への想いが消えてしまったら……?
「待つって決めたのにな……」
鈴は泣きながら苦笑いする。
「忘れたくないのに、忘れちゃったらどうしよう……」
鈴は玄関にしゃがみ込み、一人で泣き始める。
すると、リビングの方から足音が聞こえて来た。
お兄ちゃんかな。また心配かけちゃったかな――鈴は涙を拭って、慌てて立ち上がる。
「ごめん、お兄ちゃん。大丈夫――」
「ああ、お兄ちゃんじゃないよ、鈴」
「え?」
鈴は目を擦って声の主を確認する。すると、そこにいたのは兄ではなく……。
「お父さん!」
涼風鼓太郎。単身赴任で家を留守にしていた鈴の父だった。
「お、おかえり……いつ帰ってきたの?」
「ただいま。さっき家に着いたんだ。これから一週間お休み。少し家でゆっくりしようと思ってね」
鼓太郎はそう言うと、美しく整った顔を気持ちよさそうに緩めながら伸びをする。
「鈴、ちょっと話さないか? ほら、リビングにおいで」
「あ、うん……」
鈴は慌てて靴を脱ぎ、手を洗ってリビングへと向かった。
リビングのテーブルには、父の京都土産の八ッ橋の箱が置かれている。
「あ、それ食べていいよ。律の分も残してくれればいいから」
「分かった。あれ、そういえばお兄ちゃんは?」
「今日は研究室に残るって。夜遅くなるかもしれないから、先に寝てて欲しいって連絡が来てた」
「そうなんだ……」
鈴はそれに頷きながら椅子に座る。
父のことは昔から大好きだった。だが、普段は殆ど顔を合わせないからか、ここ数年は会っても何を話せばいいのか迷ってしまう。
昔抱いていた「お父さん、大好き」と言う気持ちが、年を取るごとに薄れてしまっているように感じた。
いと君への気持ちもそうなっちゃったらどうしよう――鈴は怖さのあまり目を潤ませる。
今にも泣きだしそうな娘の様子を見て、鼓太郎は優しく微笑む。
「律から聞いたよ。好きな人のことで悩んでるんだって?」
「う……うん。お父さんに相談するの、ちょっと恥ずかしいけど」
「ああ、そっか。うん、じゃあ、お母さんになら相談しやすいかもしれないな」
鼓太郎はそう言うと、テーブルの上に茶色い封筒を出した。
「それは……?」
「仙台までの旅費と、新幹線のチケットだよ。……鈴、お母さんに会いに行ったらどうかな」
「え……そんな急に。それに交通費だって高いでしょ。大丈夫なの……?」
戸惑う鈴に、鼓太郎は穏やかに微笑んだまま頷く。
「ああ。実は、お母さんにはもう連絡してあるんだ。律から鈴の話を聞いた時に、鈴もお母さんに会ってみたらいいんじゃないかなと思ってね。お母さんなら鈴の悩みの答えも知ってるかもしれない」
「そうなんだ……」
「うん。お金のことは気にしなくていい。お父さんがバリバリ稼いでるの知ってるよな?」
鼓太郎は得意げに笑うのを見て、鈴は思わずクスリと笑ってしまった。
「ふふ、そうだね」
娘に笑顔が戻ったことを確認して、鼓太郎は嬉しそうに微笑んだ。
「さて、準備ができたら駅まで送ってあげるから。支度しておいで」
「分かった」
鈴は自室に戻り、修学旅行で使う予定だった水色のキャリーケースを開ける。
もしかしたら、このキャリーケースを持って弦と一緒に修学旅行へ行ける未来もあったかもしれない。そう思うと、やはり少し寂しい。
しかし、彼を待つと決めたのだ。どんなに寂しくても、思い出を忘れることが怖くても、一度言ったことを違えることはしたくない。弦が自分にそうしてくれたように、鈴も弦に誠実でありたかった。
そのために、母と会って話を聞くのだ。
もしかしたら、今よりも前向きに弦のことを待てるようになるかもしれない。
鈴はそう思いながら、着替えをキャリーケースに詰めていった。
* * *
その日の夜、同期三人と共に研究室で卒業研究のゲームのプログラミングをしていた律は途中何度も手を止めて溜息を吐いていた。
彼の憂鬱そうな様子が気になり、同じ研究室の明日川と藤沢は顔を見合わせる。
「律、今日の溜息三十回超えてるかも」
「なんかあった?」
二人に質問されて、律は慌てて我に返った。
「ああ、ごめん。ちょっと心配事があって……溜息気を付ける」
律は深呼吸をして、作業に戻っていく。その表情は険しく、明らかに何かを思い詰めているようだった。
しかし、明日川と藤沢に心当たりは無い。よって、本人が打ち明けてくれない以上、上手く励ますこともできなかった。
一方の歌香は律の考えていることに何となく察しがついていた。
(お話、聞いた方が良さそうですね)
歌香は立ち上がると、律の席に歩いて行って彼の肩をぽんぽんと叩く。
「律君、ちょっとついてきてもらってもいいですか?」
「え? どこに……」
「大学のカフェテリアです。食事の提供は終わってますけど、まだ売店の方は営業中ですよね?」
「ああ、そうだね……うん、分かった。ちょっと行ってこようか」
このままここで作業しても憂鬱な気持ちは晴れないだろう。それだと明日川と藤沢にも不快な思いをさせてしまう。少し気分転換した方がいい……律はそう思い、歌香と並んで研究室を出た。
歌香は研究室をドアを閉めようとして、慌てて明日川達の方に顔を出す。
「二人にも差し入れ買ってきますね」
歌香の笑顔を見て、明日川と藤沢は不思議そうな顔で頷いたのだった。
* * *
大学のカフェテリアは、食事の提供が十九時までで、購買が二十一時までだ。
そのため、二十一時までは電気も点いており、ロッジ風の建物内の雰囲気は温かみがある。ほっと一息つくには丁度いい空間だ。
律は購買でアイスコーヒーを買い、カフェテリアのテーブル席に座る。ミルクティーを買った歌香も向かい側に座った。彼女の方のテーブルにはチョコレートの箱菓子が四つ入ったエコバックも置いてある。律と歌香の他に、明日川と藤沢の分も買ったようだった。
現在、二十時三十分。二人の他には購買の店員しかいない。静かだ。
「ちょっと強引に連れ出しちゃってごめんなさいね。律君が思い詰めていたようなので、話を聞いた方がいいのかなって」
歌香が柔らかく微笑みながら話す。それに対して、律は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん。気を遣わせちゃったかな」
「あ、いえいえ! 私が勝手に律君を助けたかっただけなんです。いつも助けてもらってばかりなので」
「そっか……じゃあ、ありがとう、かな?」
「ふふ、そっちの方が嬉しいです」
歌香はニコニコと笑う。彼女の可愛らしい笑顔につられて、律の表情も和らいでいった。
「なんていうか、俺って思ったより態度に出ちゃうみたいだな……歌香さんから見ても、俺、辛そうだったんだね」
「そうですねえ。きっと鈴さんのことで悩んでるのかなーとは思っていたんですけど、あんまり人前じゃ話しづらいと思ったので場所を変えさせてもらったんです」
「そっか。あはは、図星だ」
律は照れくさそうに頬を掻いて続ける。
「鈴が好きな人のことで悩んでること、父さんに相談したんだ。そしたら、父さんが『母さんに会って貰ったらいいかもな』なんて言い出して……母さん、仙台で別居してるんだけど、そこまで鈴を一人で行かせるのが不安でね。自分でも、妹離れできてないなーって笑っちゃうけど」
律は少し寂しそうに目を伏せながら笑う。
「鈴のこと、いつまでも小さい妹みたいな扱いしちゃってるなって自分でも分かってるんだ。鈴ももう高校生で……少しずつ大人になってて、悩みながらも自分の足で前に進んでる。それは分かってるけど、この前みたいに泣いてる鈴を見ると、まだ少し心配で」
「ふむふむ……律君は鈴さんのことが本当に大事なんですねえ」
歌香は真剣な顔で彼の話を聞いた後、顎に手を当てて微笑んだ。
「不安定な部分があるのを見て、心配になる気持ちも分かっちゃいます。でも、私は思うんですよ。鈴さんはきっと、大好きな人と一緒に生きる準備をしてるんだなって」
「大好きな人と、生きる準備……?」
「はい! 私や律君だって、恋をしたり、誰かを想って笑ったり傷ついたりしながら、ここまで大人になったでしょう。だから、鈴さんも大丈夫。きっと、今感じている壁を乗り越えられると思います」
歌香は自信ありげに微笑む。そんな彼女の笑顔に背中を押され、律も少し安心できた。
「……そうだね。きっと、鈴なら大丈夫だね」
律が落ち着いた笑顔で笑うのを見て、歌香も嬉しそうに笑う。
「ふふ、律君の笑顔が見られてなによりです」
歌香はそう言うと、荷物を持って立ち上がった。
「遅くならないうちに、戻りましょうか」
「うん。そうだね」
二人で並んで、カフェテリアを後にする。
カフェテリアの建物を出て、研究室に戻る外の道を歩き出した。
大学の敷地内……それぞれの教室棟に続く道に植えられた向日葵は、頭を垂れて眠っている。
昼も、夜も、この花壇のある道を何度も歩いた。この四年間、二人で。
そんな日々も、あと半年で終わってしまう。
あと何回、律と二人で歩くことができるのだろうか。そんな思いが、歌香の歩みを止めさせた。
「歌香さん?」
律が歌香の顔を覗き見る。
街灯に照らされた彼女の顔がほのかに赤くて、律は一瞬息をのんだ。
彼が自分の様子に驚いていることに気付きながらも、歌香は赤い顔を上げて微笑む。
「私もね、今までずっと、大好きな人と一緒にいる準備をしてきたんです。好きな人に恋人ができたって知る度に泣いて、好きな人が自分の前で笑ってくれる度に、幸せを噛みしめていたの。そうやって色んなことを感じながら、ずっと温めてきたんです。この、「好き」って気持ち」
歌香はそう言うと、律のことを優しく見つめて口を開いた。
「律君、あなたが好きです」
夏のぬるい夜風が、二人の髪を揺らす。
たった一言。一瞬の告白だった。
なのに、律にはもっと長く感じられた。
もっと……言葉を尽くして、いかに自分のことを好きでいてくれているのか、説明してくれているように感じた。
それはきっと、高校時代からずっと、歌香が自分と楽しそうに関わってくれていたことを知っているからだ。
彼女と過ごした六年間が、鮮明に記憶に焼き付いているからだ――。
「俺……そんなに、面白い男じゃないよ。だから、君に退屈させるかもしれない」
律は首の後ろを押さえながら、赤い顔で俯く。
そんな彼に向かって、歌香はいつものように明るく笑っていた。
「ふふ、それでもいいです。面白くなくたっていい。優しい律君と、ずっと一緒にいたいです」
「……そっか」
律は照れくさそうに笑うと、ゆっくりと顔を上げて歌香を見つめた。
「じゃあ、これからも一緒にいよう」
「……! はい!」
律の言葉に、歌香は目を輝かせながら頷いたのだった。




