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リボンワンピース・プリンス  作者: 月島
第三章 未来へ踏み出す夏
45/54

45 帰ってきてね

 週が明けて、七月最後の月曜日がやってきた。今日は一学期の終業式だ。

 午前中は授業を行い、午後一番で例年と同じ式典を終え、帰りの会が始まる。

 担任は夏休みの注意事項を伝えた後、「あと、もう一個大事な話がある」と、(いと)の方を見た。

 (いと)もそれに真剣な顔で頷く。


日和(ひより)が海外の学校に留学することになった。だから、みんなと一緒の学校生活は今日までだ。日和(ひより)、前に出て挨拶してくれないか」


 担任の言葉に、(りん)は静かに目を伏せた。

 その隣で(いと)は立ち上がって教壇の前まで歩いて行く。

 その間、教室中は一気に騒々しくなった。

 「え、もう海外に行くの?」「早くない? 卒業してからだと思ってた……」「すげー寂しくなるな……」そんな声があちこちから聞こえる。

 しかし、(いと)が教壇の前に来た瞬間、それもぴたりと止んだ。


「急な話で、ごめん。正直、本当に行こうかギリギリまで悩んだ。でも……」


 (いと)は言葉を詰まらせる。

 どんな言葉なら自分の気持ちを的確に表現できるか分からない。

 どんな気持ちならみんなに嫌な思いをさせないかも、よく分からない。

 でも、伝えないといけない。

 自分の、本気の想いを。


「俺、自分の夢を追いかけたいんだ。大事な人に、世界一美しい音色を届けるって夢……それを叶えるために、アメリカでピアノを頑張るって決めた。だから……今までありがとう」


 (いと)はそう言って、深く頭を下げた。

 教室中から拍手が巻き起こる。彼を応援する声も飛んできた。

 しかし、(りん)は心から彼を応援することができなかった。

 笑顔で拍手をしたいのに、寂しくて笑えない。

 ただ、力なく拍手をすることしかできなかった。


日和(ひより)、ありがとな。夢に向かって頑張れよ」

「はい」


 (いと)(りん)の隣の席に戻って来る。

 担任が「では、ホームルームはここまで。みんな充実した夏休みにしろよ」と帰りの会を締めた。

 号令係の「起立、礼」の号令に従って、帰りの挨拶をする。

 「さようなら」という声が教室を包んだ途端、教室が一気に賑やかになった。

 しかし、(りん)は挨拶を終えて着席したまま、動くことができない。


(ほんとに、行っちゃうんだ)


 ただショックで、自分の気持ちを伝えられないまま彼との高校生活が終わってしまったことが悲しかった。

 瞳は潤んでいて。今にも泣きだしてしまいそうだ。

 そんな彼女の目の前に、(いと)がやってきた。


(りん)


 (いと)に呼ばれて、(りん)は顔を上げる。

 すると、(いと)の真剣な顔が目に飛び込んできた。


「第二音楽室、来てくれないか」

「え……」

「聴いて欲しいんだ。俺の気持ち」


 何も伝えられないまま離れ離れになるなんて、そんなの(いと)は許せなかった。

 ――伝えないといけない。

 俺がピアノの道を選んだ理由を。

 他人から見た価値も、自分から見た価値も関係なく……ただ、お前の笑顔が見たいからピアノを弾きたいということも――。


 澄んだ真っ直ぐな瞳で見つめられ、(りん)は息を詰まらせて俯く。

 しかしその時、自分の背中を押してくれた人達の笑顔が蘇った。


 ――何があっても一緒にいたいぐらいお相手さんを大切に考えてるんです。それは周りから否定されていい気持ちなのでしょうか。


 ――そうやって相手を大切に思う気持ちは、自然と伝わるものだから。(りん)の気持ちも日和(ひより)君は全部受け止めてくれると思う。


 ――自分の正直な気持ちを伝えたっていいし、日和(ひより)君の応援に徹したっていいの。でも、私はりんりんが幸せになれる方が嬉しいな。


 彼女らの言葉に勇気を貰い、(りん)はしっかりと頷いて顔を上げる。

 まだ瞳は潤んでいるが、表情は静かだった。もう、悩みに苦しんで自分のすべきことを迷っていた頃の(りん)ではない。


「分かった。行こう」


 (りん)は荷物をまとめてリュックを背負う。

 (いと)も自分の鞄を持ち、二人で並んで第二音楽室へと歩いて行った。


* * *


 第二音楽室に着いた(いと)は、荷物を床に置いてピアノの前に座った。

 ピアノの蓋を開けて、カバーを外しながら「お前もいつもんとこに座れ」と(りん)に声を掛ける。

 てっきり自分の気持ちを伝えてくれるのかと思っていた(りん)は、ピアノを弾こうとしている(いと)を見て首を傾げた。


「ピアノ、弾くの……?」

「おう。好きな曲弾いてやる」


 (いと)は微笑む。その笑顔に胸を締め付けられながらも、(いと)のピアノが聴けること自体は嬉しかった(りん)は、教室に置かれている予備の椅子をピアノの傍に持ってきて座った。


「何の曲がいい?」

「なんでもいいの?」

「おう。弾ける曲ならなんだって弾いてやる」

「じゃあ……ランゲの『花の歌』。前にショッピングモールで弾いてたよね?」

「おーそうだな。お前が可愛い格好してた時にな」


 (いと)は悪戯っぽく笑う。それを見た(りん)は恥ずかしさがぶりかえして顔を赤らめた。


「意地悪……」

「ふは、ごめん。ランゲ弾いてやるから機嫌直せ」


 (いと)はそう微笑んだ後、ゆっくりと息を吐いて集中する。

 丁寧に、最初の音が鳴らされた。

 花が咲いて、風に吹かれて揺られているような……そんな情景が、(りん)の頭に浮かぶ。

 しかし、その情景はすぐに(いと)が自分の可愛いもの好きな一面を認めてくれた時の光景に切り替わった。


 ――可愛いものが好きだからなんだ!? 俺にそんなつまんねーこと隠すなよ! どんなふーりんでも、俺は好きなんだ!!


 あの告白の瞬間、恥ずかしくて、本当に困ったはずなのに……すごく、嬉しかったのだ。

 その後、まるぺんのカフェへ連れて行こうとしてくれたことも、プレゼント交換してくれたことも、何一つ欠けることなく(りん)にとっては宝物のような思い出だった。

 ランゲの曲が弾き終わる。


「次は何がいい?」


 (いと)に尋ねられて、(りん)はすぐに答える。


「リストの『愛の夢』がいいな」

「分かった」


 (いと)がピアノを弾き始める。

 その音楽を聴き始めてすぐ、(りん)の脳裏に木崎駅でのイベントのことが蘇った。


 ――親友に戻ろう。


 あの時、いと君はどんな気持ちだったんだろう――。(りん)は、自分の気持ちを差し置いて(りん)の気持ちを優先してくれた(いと)の優しさを思い出す。

 あの時、本当は苦しくて仕方が無かったんじゃないか。そう想像するたびに胸が締め付けられた。

 (いと)の優しさはいつだって、(りん)のことを愛情を持って包んでくれようとしていた。

 ここまで一途に愛して貰えて、(りん)は本当に幸せだった。

 曲が終わり、再び(いと)(りん)の方を見る。


「次は?」

「じゃあ……ラヴェルの『泣き王女のためのパヴァーヌ』をお願いしていいかな」

「ラヴェルだな。分かった」


 (いと)が最初の旋律を奏でる。月明かりのように静かで美しい音色が、第二音楽室に広がっていった。

 (りん)の頭に、(いと)のピアノを傍で聴くしらべに嫉妬してしまったことが蘇る。

 あの時は、王子様の癖に嫉妬なんかする自分が許せなくて、苦しかった。

 しかし後日、風邪を引いた自分のお見舞いに来てくれた(いと)もまた(かなで)に嫉妬していたことを知り、(りん)は申し訳なかったと同時に嬉しかったのだ。


 ――恋人だからとか、関係ねー。俺は……誰にもお前を譲るつもりなんざねーんだ。俺にとって、お前は特別な存在で、お前にとっても俺は特別な存在……そうあり続けられるように、もっと頑張るから。


 あの時の(いと)の優しい微笑みが、今も脳裏に焼き付いている。

 思えば、この頃から……いや、もっと前。それこそ出会った時から(いと)(りん)に見合う人になろうと頑張ってくれていた。


 ――そんなことしなくたって、私にとっていと君は特別だったんだけどな。 (りん)は心の中で呟く。


 曲が終わった。先ほどと同様に、(いと)(りん)に「次は何がいい?」と尋ねる。


「じゃあ、教会で弾いてた曲……バッハの『コラール一番』、だったかな」

「ああ、それか。いいよ」


 (いと)が最初の和音を鳴らした。

 神聖な調べが第二音楽室に響くのと同時に、あの教会でのことが蘇る。


 ――可愛いものが好きな所も、王子みたいに優しい所も、全部俺が好きな(りん)の一部だ。


 あの時、自分の全てを受け入れてもらえたことが、本当に嬉しかった。

 あの時の(いと)の言葉のお陰で、王子のような一面も自分の一部だったのだということを、(りん)はやっと受け入れられたのだ。

 可愛いものが好きでもいい。王子みたいな自分もいていい。すべて、自分であることに変わりはない。(いと)のお陰でそれに気が付き、自分のことをやっと好きになれた。

 

 ――(りん)、ありがとな。


 そう言って握ってくれた手の温かさ。

 重ねてくれた唇の柔らかさ。

 全てが愛おしくて、忘れたくなくて……かけがえのない思い出だった。

 いや、思い出にしてしまって、もう二度帰れない時間にするのすら、嫌だった――。


 最後の一音が、弾き終わる。それと同時に、(りん)の瞳から、大粒の涙が零れ落ちていった。

 第二音楽室の大きな窓から差し込んでくる昼と夕方の間の日の光が、その透明な涙を優しく照らした。

 それを見た(いと)は、静かに微笑む。


「俺とお前の時間には、いつもピアノの音があったな」

「……うん」

「ピアノを弾く度に愛しくなるんだ。(りん)と過ごした時間の全てが」


 (いと)はそう言うと、(りん)の方に歩いて行って、涙を流す彼女を自分の胸に抱き寄せた。


「これから先も、ずっとそうだったらいいなって思ってる。俺と(りん)の間に、俺のピアノの音があって……何歳年をとっても、ピアノを聴く度にそのときのことを思い出せたらいいなって。そんでその時、(りん)の記憶に蘇る俺のピアノは、世界で一番綺麗な音色でありたいんだ」

「いと君……」

「価値とか、評価とか、関係なく……俺は(りん)のためにピアノを極める。(りん)に世界一の音色を聴いてもらうために、俺はこれからもピアノを弾くよ」


 (いと)の誠意が、(りん)の胸を優しく締め付ける。

 自分のためにピアノを弾いてくれることも、自分との将来を考えてくれていることも、この上なく幸せなことだった。

 そんな彼の決意を邪魔するなんて、(りん)は心の底から嫌だった。

 だから、「行かないで」なんて言いたくない。もっと……もっと伝えるべき言葉がある。


「帰ってきてね」


 (りん)は潤んだ声でそう言いながら、(いと)の体に腕を回した。


「私、ずっと待ってるから」


 胸が苦しい。痛い。涙も溢れて止まらない。だが……。


「大好きな君が帰ってくるの、ずっと待ってるから」


 やっと、胸の奥につかえていた本心が吐き出せたような気がした。

 (いと)(りん)を抱き寄せていた腕を離し、彼女の顔を真っ直ぐに見る。

 (りん)は涙で目元を濡らしながらも、穏やかに微笑んでいた。

 そんな彼女が、(いと)はどうしようもなく愛おしかった。

 ――(りん)がどんな表情をしていても、年月が経って(りん)との関係が変わっても、(りん)が見せてくれる表情が変わっても……きっと俺は、(りん)のことが好きなんだろう。

 この先の人生、ずっと――。


(りん)


 (いと)は、愛おしさのあまり泣いてしまいそうになるのを堪えながら、彼女に微笑む。


「何年経とうが、世界中のどこにいようが……俺の帰る場所は、お前の隣だ」

「うん」

「だから……いつかただいまって言いに来るの、待っててくれ」

「私も、君におかえりって言える日をずっと待ってる」


 二人は微笑み合い、そっと唇を重ねた。

 第二音楽室。いつも二人で一緒にいた放課後の、少し傾いた日の光の下。二人は、お互いが傍にいることを確かめ合って穏やかに笑っていた。

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