44 愛の音色
翌日、しらべは奏と約束した通り黄花中央駅にやってきた。
服装や髪型は、同級生から「京しらべだ」と分からないように、クールに整えてきている。髪はシンプルにポニーテールに、服装は普段のしらべからはおおよそ想像できないメンズライク系……グレーの半袖ポロシャツに、黒のカーゴパンツを合わせた。無論、眼鏡も外してコンタクトレンズを入れている。
可愛い服装にした方がいいのか迷ったが、奏相手に可愛い格好をすることがなんとなく悔しくて、やめたのだった。
集合時刻から二分ほど過ぎた頃、駅前に停まったバスから背の高い男性が歩いてきた。
髪の色は普段と違って茶色……恐らくウィッグだろう。服装の方は黒いナイロンジップベストに半そでシャツ、そしてしらべとよく似た黒いカーゴパンツを履いている。普段、テレビに出ている時よりもカジュアルな格好だ。
まあ、その程度の変装、他の女子は誤魔化せてもしらべにはお見通しなのだが。
「あ、しらべちゃん」
茶髪の男……奏が、にこやかに手を振りながらこちらに歩いてくる。
「ごめんね、バス、少し遅れちゃったんだ」
「大丈夫です。そんなに待ってないので」
「ふふ、そう? あ、そのカーゴパンツ、お揃いだね」
奏に指摘され、しらべの顔が真っ赤になった。
敢えて可愛い服装を避けた結果がこれだ。お揃いになるぐらいなら、別の格好にするべきだった――と、しらべは後悔する。
「不覚です……」
「ククッ、恥ずかしがらなくてもいいのに。すごく似合ってるよ。格好いい」
「う……それは本音ですか?」
しらべが尋ねる。すると、奏は柔らかく微笑みながら口元に人差し指を当てた。
「内緒。本音か嘘か、しらべちゃんなら当てられるでしょ」
「面倒な男性は嫌いです」
「ああ、ごめん。本音だよ。本音」
奏はケラケラ笑う。その軽薄な態度を見て、しらべは頬を膨らませた。
(やはり、この人にとっては私との会話も遊びなのかしら……って、こんなことにイライラしてしまうなんて、私は何を考えているのよ。落ち着きなさい、しらべ!)
しらべの表情がくるくると目まぐるしく変わる。
一瞬怒っているように見えたものの、次の瞬間には恥ずかしそうに目を見開き、その次は顔全体をぎゅっとさせて何かを堪えているような表情になる。
そんな彼女の様子が面白くて、奏は更にけしかけた。
「じゃ、お目当てのカフェに行こうか」
そう言って、しらべの手を握ったのだ。
「へ……ちょっと、手! 手を離しなさい!」
真っ赤な顔で抗議するしらべを、奏は面白そうに見て満面の笑みを浮かべた。
「本心で嫌がったらやめてあげる」
「本心で嫌がってます!」
「顔が赤いから信じられないなあ」
奏は冗談めかしく笑うと、しらべの手を引いたまま駅前のロータリーを走り出した。
「あ、ちょっと……!」
しらべも息を切らしながらそれについて行く。
心臓の音がうるさいのは、走っているからなのか、彼にときめいているからなのか……分からない自分が悔しかった。
* * *
二人は駅前通りから少し奥に入った小さな道にある、木造の外観が落ち着いた雰囲気のピアノカフェへやってきた。
奏がドアを開けると、鈴の音がカランと鳴る。
カウンター席で飲み物を提供していたマスターの初老の男性が、奏を見て微笑んだ。
「ああ、奏君。いらっしゃいませ。二名様? いつものカウンター席空いてるよ」
「ありがとうございます。しらべちゃん、あそこに座ろ」
奏に促されて、しらべは彼と共にカウンター席の一番端……店の奥に置かれたアップライトピアノの近くに座った。
(ピアノ……)
しらべが興味津々な顔でそれを見つめるのを、奏は微笑ましく見る。
そうしているうちに、マスターが二人の前にやって来てくれた。
「友達と来てくれたの?」
マスターが奏に尋ねる。
「はい。友達……というか、好きな人を連れてきました」
「へえ! 大胆なことするねえ」
マスターは目を輝かせると、しらべの方を見てニコリと笑った。
「お嬢さん、奏君、少し変わってるけど……素敵な子だから、ちゃんと知ってあげてね。振るなら、その後で」
「は、はあ……」
しらべが赤い顔で戸惑う横で、奏は「振られないように応援してくださいよ」と笑った。
「ふふ、じゃあ応援してるよ。さて、今日は何にします?」
「僕はブラックコーヒーとティラミスで。しらべちゃんは?」
「あ、えっと……チーズケーキってありますか?」
しらべが尋ねる。すると、マスターが「レアチーズケーキならありますよ」と微笑む。
「じゃあそれと、アールグレイで……」
「かしこまりました」
マスターがキッチンの方に歩いて行く。
しらべは彼がメニューを準備する姿を見つめた後、ずっと気になっていたピアノの方に視線を移した。
それを見て、奏は「ピアノが気になる?」と微笑む。
「あ、はい。……誰か弾く方がいるのでしょうか」
「うん。お客さんもマスターも、誰でも弾いていいんだよ。上手でも下手でも、静かに聴くのがこの店のルール」
「へえ……」
「ふふ、しらべちゃんも弾いてみる?」
奏に尋ねられて、しらべは慌てて首を横に振った。
「私、ピアノは弾いたことないんです。使ったことのある楽器はカスタネットとリコーダーだけなので、弾けません」
「そっか。君のピアノ、聴いてみたかったなあ」
奏が悪戯っぽく微笑むので、しらべはまた頬を膨らませた。
「意地悪な人ですね……」
「ああ、ごめん。じゃ、僕がピアノ聴かせてあげるから許して」
「え……弾いてくれるんですか?」
しらべの目が分かりやすく輝く。
元々は弦のためにピアノの知識を蓄えていたしらべだったが、そうやって勉強しているうちにピアノ曲そのものが好きになっていた。
だから、ここでピアノが聴けることは、彼女にとって想定外に喜ばしいことだったのだ。
彼女の嬉しそうな顔を見て、奏は優しく微笑む。
「勿論。君のためなら、何回ピアノを弾いたっていい」
奏は静かに立ち上がり、ピアノの前の椅子に腰を下ろした。
小さく息を吐いて、鍵盤の上に指を置く。
ポロロン……と、最初の旋律が店内に甘く響いた。
ゆったりと展開されていく優しく愛に満ちたメロディ。この曲をしらべも聴いたことがあった。
(フォーレだわ……)
フォーレの「三つの無言歌」の三番。
美しく、それでいて甘やかな曲調が、奏の甘く切ない音色と調和している。
弦の音色とは違う。弦の音色は透き通っていて、どんな曲のどんな世界をも繊細に表現してくれる音色だ。
しかし、奏の音色もまた素敵だった。愛情深くて甘いのに、一方で、自分から離れないで欲しいと切に願うような、胸を締め付けられる音色。同じピアノの音なのにどうしてそんな風に感じるのか、しらべには何となく察しがついた。
きっと、彼が生きてきた人生が、彼自身の心が、そうさせるのだ。
この甘く切ない音色こそが、周防奏の積み重ねてきた時間の結晶なのだろう。
彼の人生の全ては分からない。でも、彼がどんなに愛されたかったのかは、音色を聴けば分かる。
自分の存在が彼の願いを叶えてやれるのかは、しらべには分からなかった。
今はただ、彼の音色に身を委ねていたかった。
「奏君の音、本当に綺麗だよね」
マスターがチーズケーキをしらべの前に置きながら、小さく微笑む。
「彼、昔はピアノなんか好きじゃないって顔だったんだけど……最近この店でピアノを弾いてる時は、すごくいい顔してるな。君のお陰かも」
マスターに笑いかけられ、しらべは顔を赤くして俯く。
彼に絆されてはいけないと思っていた。
しかし、彼の音色の全てが、音楽と大切な人への真摯な気持ちを証明しているように感じられた。
――周防君が創る音楽を、これからもずっと聴き続けていたい……。
しらべはそう思いながら、彼の演奏を静かに聴き続けていた。
* * *
カフェでケーキを食べ終え、二人は日の暮れる前に帰るべく黄花中央駅に向かった。
お互いに変な噂が立たないように、帰りは別行動ということになっている。奏がバスで、しらべが電車で帰る予定だ。
黄花中央駅に着き、二人はバス停の時刻表を確認する。次、木崎市に向かうバスは七分後だ。
「しらべちゃん、電車は何時?」
「十六時二十分なので、十五分後ですね」
「そっか。じゃあいい時間だし、ここで解散にしよう」
奏は微笑みながら提案する。しかし、しらべは首を横に振った。
「解散する前に少し話したいことがあるんです」
しらべはポロシャツの裾を握りしめながら、赤らんだ顔で口を開く。
「素敵でした。あなたのピアノ……あの音色、あなたにしか出せないと思います」
しらべの言葉を聞き、奏は目を丸くした。
今まで、自分のピアノは「楽譜通り」にしかならない、無機質な音の塊だと思っていたからだ。
ありふれた、誰でも奏でることができる音色。奏は自分の音色をそう評価していた。
無論、彼の父親も奏のことをそう評価していた。
だからこそ、しらべの言葉が信じられなかった。
「僕にしか出せない音色……?」
思わず、そう聞き返す。
すると、しらべは一生懸命に頷いた。
「私は、あなたの全てを知らないけれど……あの音色に、あなたの生きてきた時間の全てが詰まっているように感じたわ。あなたの想いの全てが、今日の演奏を形作っていた……そう思ってるの」
しらべはそう言うと、はにかみながら奏を見つめる。
「また聴かせて。周防君の音楽」
「あ……」
思いもよらないしらべの態度に、奏の心臓がドキリと跳ねる。
今までに感じたことがないぐらい頬が熱くて口元が緩みそうになった。
頭では必死に取り繕わなければと思うのに、幸せで浮足立ってしまう心がそれを邪魔する。
丁度その時、奏が乗る予定のバスが来た。
「じゃあ、私帰るわね。周防君、また学校でね」
「あ、う、うん……」
奏は駅の方に歩いて行くしらべを惚けた顔で見つめた。
しかしすぐに我に返って、彼女を呼び止めた。
「しらべちゃん!」
しらべが驚いた顔で振り返る。
彼女のポニーテールが、風に揺られてゆったりと踊った。
その一瞬すら、奏は愛おしかった。
彼女と過ごす時間なら、どんな刹那も愛していたい……そしてそこに、彼女が大好きな音楽も添えたかった。
「僕の音楽、また聴いてよ」
奏はそう言って、太陽のように明るく笑った。
しらべもまた、それに花開くような笑顔で頷く。
それを見た奏の心は、暖かく溶けていった。
――生きていて、よかった。
奏は優しく染まった頬を緩ませて、静かに微笑む。
父から受けていた冷たい仕打ちも、母が自分に興味を持ってくれなかったことも、大好きな葵衣の死も……自分が抱えていた闇の全てをやっと許せて、新しい未来へ進めた。奏は、そんな気がしたのだった。




