43 帰る場所は、ここに
響と別れて車に乗った弦は、夜の町の景色を眺めながら、運転席に向かって声を掛ける。
「なあ、香田」
「何ですか?」
「俺……アメリカに行くよ。父さんと母さんと一緒に」
弦の言葉を聞き、香田はしばらく間を置いて答える。
「それがあなたの本当の気持ちなら、私はいくらでも応援しますよ」
「ああ。俺、一生をかけてピアノと向き合いたいんだ。俺が世界一綺麗な音色を奏でて、それを聴いた鈴に笑って欲しい。そのための努力は、もう惜しみたくない」
「そうですか。坊ちゃんが、自分自身で納得できる答えを出すことができて、私は嬉しいです」
香田が微笑んでくれたのを感じ取り、弦も表情を和らげた。
そうしているうちに、車が自宅に到着する。
家に帰った弦は、いつも通り手を洗って食卓に着いた。
弦が座ってから数分も経たないうちに、香田が鮭のムニエルの乗った皿を持ってきた。
他にも、野菜たっぷりのコンソメスープや、皿に盛られたご飯が食卓に並ぶ。
他の家でも出るようなメニューではあるのだが、白いテーブルクロスのせいか、豪華で高級な食事に見えてしまう。
「坊ちゃん、どうぞお召し上がりください」
香田は弦の傍に寄ると、小さく礼をして微笑む。
テーブルの上には弦以外の食事は並んでいない。会社付き合いで出掛けている両親の食事はもちろんのこと、香田の分の食事も、だ。彼女はいつも別室で食事をとっている。
「なあ、香田」
「何です?」
「なんで、いつも一緒にご飯食べないんだ?」
弦が尋ねると、香田は静かな微笑みを浮かべたまま答える。
「執事ですから」
「なんで執事だと一緒に食べちゃダメなんだよ」
「主と使用人はともに食事をしない。そういうものなのです」
香田の平然とした態度を見て、弦は寂しそうに目を伏せる。
両親がいなくなってから、弦は一人で食事をとってばかりだった。香田は別室で食事をとるし、姉と兄は弦の幼少期こそ一緒にいてくれたものの、現在は基本、仕事で不在。必然的に、弦は一人だった。
今日の昼は奏に羨まれたものの、弦も最後に温かな食卓を囲んだのはうんと前だ。
そのため、そういった食事の場は少し……憧れてしまう。
「たまには一緒に食べたって良くないか」
「良くないのです」
「主命令でもか」
弦が不服そうに唇を尖らせるのを見て、香田は小さく息を吐いた。
「承知いたしました。後で透様にバレたら庇ってください」
「香田……じゃあ」
「今日だけですよ。私も、まだクビにはなりたくないので」
香田はそう苦笑いすると、キッチンから自分の食事をとってきて、弦の向かい側に座る。
彼女が向かい側に座ってくれたのを見て、弦は顔を綻ばせた。
そんな彼の嬉しそうな顔が可愛くて、香田も微笑む。
「では、いただきましょう」
「ああ。いただきます」
二人は手を合わせて、食事に手を付けた。
弦は鮭のムニエルを一口食べ、口を開く。
「香田って、俺の面倒見てくれる前から日和家にいたのか?」
「おや、面白い質問ですね」
「面白いか……?」
「執事の経歴を気にする主は経験上はじめてです」
香田は微笑んでスープを飲む。
「せっかくなので、お答えしましょうか。私は、坊ちゃんがこの家に来るのとほぼ同時に日和家に来たのです。以前は、日和家と物凄く仲の悪い家で使用人をしていましたよ」
「え……仲が悪い家からうちに来たのか? よく大丈夫だったな」
弦が少し引き気味な顔を香田に向ける。香田はそれにクスリと笑って続けた。
「きっかけは……坊ちゃん、あなたですよ」
香田――香田圭の旧姓は凪鳥だ。彼女は弦の実父、凪鳥幸一の妹だった。
凪鳥家は古くから文月家と呼ばれる家の使用人の家系で、圭も例外なくそこで働いていた。
しかし幸一の方は自由奔放な性格で、使用人の仕事をすることもなく、バイトで稼いだ金で海外旅行をしては現地で自分の曲をギターと歌で奏でるといった生活を繰り返していたようだった。
そんな兄との兄妹関係は、常にぎくしゃくしていた。なぜなら、圭は彼のせいで肩身の狭い生活をしていたからだ。
更に言うと、彼の分の仕事も圭は肩代わりしていたのに、彼から礼を言われることなど一度も無かった。
そんな兄のことが、圭はあまり好きではなかった。
しかし、日和透は違ったのだ。彼と幸一は小学生時代からの幼なじみで、物凄く仲が良かった。彼の歌声を透は高く評価し、彼の歌を世界に届けるべくアーティストプロデュースの会社を起業してしまったほどだった。
文月家と日和家は仲が悪い。そのこともあり、幸一は文月家とも凪鳥家とも縁を切った。それが、圭の二十五歳の時だ。
縁を切られてしまった以上、幸一の情報を手にすることはできない。
しかし、幸一が歌手としてデビューし、にわかに話題に上り始めるようになったからは、彼の生活が耳に入って来た。
結婚して子どもが生まれたことも、風の噂で聞いた。それが、圭が二十七歳の時だ。
彼が幸せに生活をし、自分の好きなことで評価されるたびに、圭は彼が嫌いになっていった。
そんな生活が続く中、圭も結婚し、「香田」という苗字になった。
しかし子どもはできること無く、ただ冷めた結婚生活を送っていた。
そういう生活をしていく中、やはり幸一への憎しみは増していったのだった。
そして、五年後。圭が夫と離婚した一週間後のことだ。
幸一が交通事故に遭った。車で、文月家に向かっている時のことだったらしい。
夫婦が亡くなり、子どもだけ助かった。
この時の圭は、ただ衝撃で……悲しいとか、辛いとか、そんなことすら考えられなかった。かといって、ざまあみろとも思えなかった。
それから数日後……彼が亡くなってしばらくして、圭が買い物をしに外を歩いていた時。日和透が、彼女に話しかけてきたのだ。
「香田圭さん、ですね?」
「え……は、はい。あなたは?」
「僕は日和透。文月家の方ならご存じかもしれませんが……あなたのお兄さんの友人です」
「あ……!」
透の言葉を聞き、圭は身構えた。
自分の主が目の敵にしている人物で、かつ自分が憎んでやまなかった兄の、親友だったからだ。
圭が警戒する様子を見て、透は慌てて両手を振って彼女を宥めた。
「ああ、大丈夫です。僕にあなたをどうこうするつもりは無いし、文月家の弱みを握ろうとか、そういうつもりも無い。ただ、あなたに幸一君の話をしたかっただけです」
「兄の話を……?」
「はい。少しで良い。お時間をいただけませんか」
透は穏やかに微笑んでおり、敵意も悪意も感じなかった。
しかし、今は主に申しつけられた買い物の途中だ。こっそりお茶なんてしたら圭も無事では済まない。
圭は少し逡巡した後、週末に彼の話を聞くことに決めた。
そして、その当日。木崎駅近くのカフェで、圭は彼と再び会った。
その日は雨で、窓際の席には繊細な雨音が鳴り響いていた。
「あの、兄の話、とは」
圭が緊張した面持ちで尋ねると、透は柔らかく微笑んで自身のスマートフォンに新品の黒いイヤホンを繋ぎ始めた。
「幸一君が事故に遭った日、彼は縁を切ったはずの文月家に向かっていたんですよ。文月家の前の道で事故に遭ったと聞いた時、あなたも不思議に思いませんでしたか」
「……少し、気になった程度です。たまたまだと思っていました」
「ふふ。じゃあ、幸一君は本当に何も言わずに君に会うつもりだったのか」
「え……?」
――兄さんは私に会いに来た?
透の言っていることが理解できず、圭は戸惑いの表情を浮かべた。
そんな彼女に微笑んで、透は彼女にイヤホンを差し出す。
「もしもの時、君に言いたいことを伝えられなかったら困るからって、幸一君が僕にデータを持たせてくれたんだ。本当に使うことになるとは思わなかったけど……あの日、彼が言いたかったことを聞いてあげてくれないかな」
透の表情は穏やかなままだ。しかし、瞳に強い意志を感じる。
――どうか聞いてくれ。そう言っているように感じた。
「……分かりました」
圭は恐る恐るイヤホンを耳に着ける。
それを確認した透は、スマートフォンで音声ファイルを再生した。
『――圭。聞こえてるかな』
お調子者だった兄の、優しい声が聞こえてくる。
その声を聞くことすら数年ぶりで、圭は思わず息をのんだ。
『久しぶり。えっと、幸一だよ。思い出すのも嫌かもしんないけど、君の兄の幸一です。きっと、俺の声聞くのも嫌だよな。分かってる。でも、とりあえず最後まで聞いて欲しい』
幸一は言葉を選ぶように、少し間を置く。
『……まず、家のことほったらかしにしてごめん。歌手になるって夢を追いかけるために、俺……圭にすごく迷惑掛けたよな。ダメな兄貴でごめん。謝ってどうにかなることじゃないけど、生きてるうちに、ちゃんと伝えたかったんだ。圭、ありがとう』
圭の胸に熱いものがせり上がって来る。
彼の言葉で嗚咽を洩らすなんてしたくなかったのに、痛い空気の塊が喉の奥まで出かかった。
『あのさ、俺、ちゃんと歌手になれたんだ。小さい頃から抱えてた音楽で人を幸せにしたいって夢、ちゃんと叶えられた。これから、もっといろんな人を幸せにしたいと思ってる。今度、ライブでアメリカに行くんだけどさ、それも勿論頑張るけど……まずは圭を笑顔にしたい。だから、圭のために作った曲、今歌わせて欲しい』
その言葉の後に、ギターの音が鳴った。
ゆっくりと、穏やかな弦を奏でる音が聞こえてくる。
その音色は、優しくて、暖かかった。
傷ついた圭の心を癒すような旋律が耳に心地よく広がっていった。
そして、兄の歌声も。
感謝と、愛情を紡いだ二分三十六秒の歌が、スマートフォンから静かに紡がれた。
――離れ離れの大切な人。どうか幸せで、笑っていて。懐かしい声を思い出して、どうか幸せでいて。
最後の歌詞が優しく紡がれた後、ギターの演奏が終わり、静寂が訪れる。
圭の瞳から、涙がポロポロと零れ落ちていった。
「兄さん……ごめんね。恨んで、憎んで……兄さんの気持ちに気付けなくて、ごめんね……」
圭は涙を流れるままにした。
外の雨が止む。
彼女の涙が、窓から入って来る日の光に照らされて、美しく輝く。
『……喜んでくれてるといいな。もし何かあった時は、今の曲を思い出してよ。俺、圭のことずっと見守ってるから』
「……うん」
『……あのさ、あと一つだけ。圭にお願いしたいことがあるんだ。俺の息子の……弦のこと。もし、俺とエレンに何かあったら、透に弦のこと頼んでる。でも、血の繋がった家族の圭にも、弦の傍にいて欲しいんだ。弦に、自分は一人じゃないってことを教えてあげて欲しい。頼む』
圭は目を見開いた。
自分は文月家の人間だ。しかし、弦の傍にいるためには、日和家の人間になる必要がある。
音声が終わった。圭はゆっくりとイヤホンを外し、驚いた表情のまま透を見つめる。
「……あなたは、この音声の中身を知ってたんですか」
「はい。全て承知の上で、あなたに聞いていただきました」
「兄の息子の話も?」
「勿論です。……僕も、幸一君と同じ気持ちです」
透はそう言うと、静かに頭を下げた。
「お願いします。どうか、弦君の傍にいてあげてください。文月家のことは、僕が何とかします。だから、どうか……」
日和家の人間が、仲の悪い文月家の使用人に頭を下げてまで頼み込んでいる。
そして、兄の遺言。
――弦に、自分は一人じゃないってことを教えてあげて欲しい。
もしかしたら、弦という少年は、一人で寂しい思いをしているのかもしれない。
家族と離れ離れになって、親戚でもない日和家に引き取られることになって、苦しんでいるかもしれない。
そんな彼を放っておいていいのか?
そんなはず無い。何より、唯一の血の繋がった家族を、放っておくなんてできない。
圭は覚悟を決めて頷く。
「分かりました。私が、弦君の傍にいます」
圭の答えを聞いて、透は心の底から嬉しそうに笑ったのだった。
「……と、そういうことがあって、私は日和家に来たのです」
香田はスープを一口飲み、弦を見て微笑む。
「なんで泣いてるんですか、坊ちゃん」
香田の言う通り、彼女の向かい側の席で、弦は服の袖で溢れる涙を拭っていた。
「……お前こそ、なんで何も言ってくれなかったんだよ」
「執事は私情を持ち込まないものですから」
「じゃあなんで、今、全部言ったんだよ」
潤んだ声で尋ねる弦を見て、香田は穏やかな笑顔のまま続けた。
「あなたがアメリカに行く前に、伝えておきたかったのです。あなたは一人ではないということを。……あなたが渡り鳥のように世界を飛び回るピアニストになっても、帰る場所は必ずあるのです。その一つが、私の隣です」
「香田……」
「勿論、あなたの大切な人はみんな同じことを考えていると思います。……大切な人がみんな、あなたの帰りを待ち続けている。だから、あなたも……何を迷うことなく、自分の信じた道を進んでください。それが、執事として、叔母としての願いです」
その言葉を聞いて、弦は涙が溢れて止まらなかった。
先日、連絡も寄越さず帰りが遅くなってしまった時に、どうして彼女があんなに怒ったのか。
そして、「家族」という言葉に、どうしてあんなに嬉しそうだったのか。
今まで彼女が、どんな気持ちで自分を見守ってくれていたのかを知り……弦の胸が、温かいものでいっぱいになっていく。
心が満たされて、溢れたものが涙となって零れ落ちていた。
泣きじゃくる彼を見て、香田は微笑む。
穏やかに笑ってくれている香田に向かって、弦は必死に頷きながら自分の「本当の気持ち」を告げた。
「俺……大切な人に、世界一綺麗な音色を届けたいんだ」
「はい。承知しております」
「ああ。俺……俺、この気持ちを伝えなきゃいけない人がいる」
「そうですね」
香田は微笑みながら頷く。
弦もまた、涙を止めて真剣な顔で口を開いた。
「鈴に伝えたいんだ。俺の気持ち、全部」
「ええ。それが良いと思います。私に何か手伝えることはありますか?」
「ああ。一個だけ頼まれてくれないか――」
弦の言葉を聞き、香田はいつも通りの落ち着いた笑顔で頷いたのだった。




