42 君のため
放課後、鈴は美琴のステージに向かうべく、早めに教室を出た。
兄に連絡したところ、案の定鈴が一人でライブハウスに行くことを心配して「俺もついていくから学校で待ってて」と言い出したため、学校で待ち合わせをして二人で行くことにした。
二人で並んで駅前のライブハウスまで歩き、受付で律の分の当日券を買う。
律が会計を済ませた後、二人が会場へ向かおうとしたその時だった。
「あれ? りっちゃんじゃん!」
軽やかな男の声がして振り返ると、黄花国立大学の軽音部のTシャツを着た赤毛の男子が笑っていた。
耳には大きな金色のピアスを、腕にはチェーンのようなブレスレットを着けている。ヤンキーのような見た目だが、人懐っこい顔と背の低さが相まって怖さは感じないな、と鈴は思った。
「あ、修介。あれ、今日って部活だった?」
「いーや、自主練でスタジオ借りただけ。てかりっちゃん、最近なかなか部活来ないけど、どうしたん?」
修介と呼ばれた男子が心配そうに律の顔を覗き込む。
「またなんか女絡みで悩んでんの? りっちゃん繊細だからさー心配」
「卒業制作と家事で忙しいだけ。てか妹の前でそんなこと言うな」
律はぴしゃりと言いきる。
しかし、鈴は少し疑問だった。
――お兄ちゃんが女絡みで悩むって?
鈴が不思議そうな顔をしているのを見て、修介は気を遣うトーンで話を続ける。
「あー、りっちゃんさ、昔から女運ないっていうか……りっちゃんは何も悪くないのに、『優しいけど一緒にいてつまんないから』って理由で振られることが多くて」
「修介!」
「ご、ごめん……」
修介は申し訳なさそうに体を縮こめる。もともと小柄な彼が、更に小さくなった。
律は修介を一睨みした後、小さく溜息を吐く。
「鈴、美琴のステージ何時からだっけ」
「あ、えっと……十七時からかな。あと十五分くらいだね」
「じゃあ会場入ろう。修介、文化祭までには、ちゃんと部活行くから」
「お、おう……」
律は修介に笑いかけることもできず、スタスタと会場に向かって歩いて行く。鈴も修介に会釈して、律の後についていった。
会場に入ると、そこには既に観客が沢山いた。年齢層も性別もバラバラで、幅広い人達がスイートレッドを応援していることが分かる。
「すごい人……やっぱり人気なんだね、美琴達って」
鈴が律に声を掛ける。すると、律は微笑みながら頷いた。
「そうだね。忙しくてなかなかステージ見る機会なかったけど……どのイベントも毎回満員だって聞くから。多分、当日券が買えたのもラッキーだったんだと思う」
「そうかも」
二人で話しているうちに、会場の照明が暗くなった。
しばらくしてギターの音が響き、ステージに照明がつく。
するとそこには、可愛らしいフリルたっぷりのアイドル衣装に身を包んだ美琴と瑠美が立っていた。
「わあ……!」
鈴が美琴の衣装に見とれていたのも束の間、イントロが始まる。
「皆さん! 今日はスートレッドに会いに来てくれてありがとうございまーす! 一緒に盛り上がりましょー!」
美琴がハツラツとした笑顔で声を掛けると、フロアから歓声が上がった。
ものすごい熱気だ。美琴の笑顔も、歌声も、観客達の盛り上がりも、鈴が今まで経験したことのないものだった。
明るくてポップな歌が会場を満たしていく。聴いているだけで背中を押されるような、そんな曲。
鈴はふと、美琴が初めて自分をカラオケに連れて行ってくれたときのことを思い出した。
あの時からずっと、美琴の歌声は変わらない。誰かを元気にするような、明るくて元気な声だ。
いや、違う。声だけじゃない。言葉も、笑顔も……昔からずっと、美琴はその全部を使って鈴を励ましてくれた。今もその時のまま、何も変わらずに美琴は鈴の傍にいてくれている。
それに気づいた途端、鈴の胸が熱くなった。
「美琴……」
涙が出かける。鈴はそれを必死に堪えながら、ステージで踊る美琴を笑顔で見つめていた。
鈴の視線に、ステージ上の美琴も気づく。
(りんりん!)
美琴は心の中で鈴に呼びかけながら、鈴に向かって指でハートを作った。
――元気になった?
鈴は美琴にそう聞かれている気がして、大きく頷いた。
その後もステージは最後まで盛り上がり続け、観客もスイートレッドの二人も、笑顔が溢れる二時間となったのだった。
* * *
ステージ終了後、美琴と瑠美はステージ裏に向かった。
そこには逢坂がいて、いつも以上に目を潤ませていたのだった。
「二人とも、すっごくすっごく輝いてたわ! アタシ、感動しちゃった……!」
すっかり感激してしまっている逢坂を見て、美琴と瑠美は顔を見合わせて微笑む。
「逢坂さん、私とルミで相談したんです。先週のスカウトのこと」
「あ……そうだったわね」
逢坂は涙を拭って、真剣な顔になる。
どんな答えでも受け止める――そんな覚悟の滲んだ表情だった。
美琴はそれに微笑んで、口を開く。
「私達、スカウトはお断りします。これからもずっと、この町で……大切な人達のこと、一番近くで笑顔にし続けます!」
美琴が答える隣で、瑠美もしっかりと頷く。
二人の答えを聞いて、逢坂の瞳から大粒の涙が次々に零れ落ちていった。
「ミコちゃん、ルミちゃん……! 二人共ー!」
逢坂は必死に涙を拭いながら、ぐちゃぐちゃになった笑顔を見せてくれる。
「二人ならそう言ってくれると思ってたわよ! これからも、うちの事務所をよろしくね」
逢坂の言葉に、美琴と瑠美は笑顔で頷いたのだった。
* * *
制服に着替えた美琴がロビーに向かうと、そこには鈴と律がいた。
「あ、りんりん! りっつん!」
美琴は笑顔で二人に駆け寄る。
「二人共、今日は見に来てくれてありがとう! お陰で、いつも以上に頑張れちゃった」
照れくさそうに笑う美琴を見て、律は微笑む。
「スイートレッド、すごく素敵だった。美琴も頑張ってて格好良かったよ」
「えへへ、りっつんに褒められると照れちゃうな」
美琴は赤い顔で頬を掻く。
それを見た鈴は、少し言葉に詰まりながらも、明るく笑って口を開いた。
「私も……! すごく、素敵だったなって思ったよ。美琴が、今までずっと私を励ましてくれたこと、思い出して……すごく、胸が熱くなった。いつもありがとう。本当に……」
「りんりん……」
美琴は目を潤ませる。でも、今は泣きたくなんてない。今は、鈴を元気にするために、誰よりも明るく笑っていたかった。
美琴は精いっぱい笑顔を作ると、口を開く。
「りんりん、元気になった?」
「……うん!」
美琴の言葉に、鈴も明るい笑顔で返事をしたのだった。
* * *
十九時。鈴が美琴のステージを見終えた頃、弦は第二音楽室でピアノを弾いていた。
夏休み中のコンクールで弾くピアノ・ソナタ二十三番第三楽章の世界に、弦は身を委ねる。
激しくせり上がるような旋律が、第二音楽室を満たしていく。
弦は集中しながら、鍵盤の上で指を動かしていた。
しかし、その時。
――いと君のピアノ、私すごく好きだよ。なんていうか、すごく……綺麗なんだ。いと君の音色は、透き通って感じる。
不意に鈴の声が聞こえた気がして、弦は目を見開いて演奏を止めた。
いつも鈴が座っていたピアノの傍を見つめる。当たり前だが、そこには椅子なんて出ていないし、鈴の姿も無い。
「……なんだよ、今の」
弦は溜息を吐き、再度ピアノに向き直る。
ピアノに集中しようと目を閉じるが、瞼の裏に自分のピアノを聴いていた鈴の姿が蘇って心が落ち着かない。
胸が締め付けられて、目の奥が熱くなる。
「はは……まじで情けねえ。あいつがいなきゃピアノも弾けねえのか、俺は」
弦は絞り出すような声で笑うと、目元を拭った。
「俺にはピアノしかないのに……それすら、鈴に頼らなきゃできねーのかよ」
弦は必死に笑顔を作って悔しさを誤魔化そうとするが、胸の痛みは消えないし、涙も止まらない。
――こんな俺が鈴の隣にいて、何ができる。あいつを幸せにできんのか? あいつの笑顔を守れんのか?
弦は自分に問う。
もちろん、答えはノーだ。何もかも中途半端で、他人に頼りきりな俺に大切な人を幸せにする力なんかない――弦はそう思っていたのだ。
自分にあるのは「ピアノ」だけだ。そうなるとやはり、ピアノだけでも価値のあるものにして、鈴の傍に胸を張っていられるように努力するしかない。そのためには、アメリカに行った方がいい――弦はそう、強く思っていた。
――鈴に相応しい人になりたい。その気持ちが、今までの弦の原動力だった。
彼女に相応しくなるためなら、何だって頑張れた。
今回のことも、彼女に相応しくなるために必要なことなのだ。
だからやっぱり、アメリカに行くべきなのだ。
しかし、ここ数日の鈴の態度は、自分に「アメリカに行かないで欲しい」と言いたくて仕方ないようにも見える。弦だって、誰に言われるまでも無くそんなこと分かっていた。
彼女に相応しい人になりたい。一方で、彼女を泣かせたくない。彼女の笑顔を守りたい。
どちらを優先すべきか分からず、弦はまだ自分の気持ちに答えが出せなかった。
最終下校時刻十分前のチャイムが鳴る。戸締りがあるし、もう帰らなくてはいけない。
弦は心の中の葛藤を晴らせないまま、ピアノの蓋を閉じて第二音楽室を出て行った。
* * *
弦が学校を出た時、グラウンドの方から風を切る音が聞こえてきた。
まるで何かを振っているような音だ。弦が気になってグラウンドを覗くと、野球部のTシャツを着た生徒が一人、居残りをしてバットを振っていたのだ。
誰だ? と疑問に思ったのも一瞬のこと。弦はすぐにその生徒の顔を思い出した。
「響!」
弦に名前を呼ばれて、響はバットを振るのを止めて彼の方を見た。
「え、日和先輩!? 何してんすか、こんなところで」
響は目を丸くしながら、弦の方に走ってくる。
「グラウンドに何か用ですか?」
「いや、帰ろうとしたらお前が残ってたから、気になって声掛けただけだ。最終下校時刻までもう五分も無いぞ」
「あ、そういやチャイム鳴ってたかも……教えてくれてありがとうございます! 荷物持ってきます!」
響は勢いよく頭を下げると、部室に向かって走っていった。
弦の方はそのまま帰ることもできたのだが、響の口ぶりから一緒に帰るつもりなのだろうと思い、正門前で待つことにした。
* * *
最終下校のチャイムが鳴るのと同時に、響が荷物を持って正門前へ走って来た。
「日和先輩、お待たせしました!」
「おー。締め出されなくて良かったな」
「はい! 日和先輩のお陰っすよ。じゃ、帰りましょう!」
響は笑うと、帰り道を歩こうとして立ち止まった。弦が正門前から動かなかったからだ。
「帰んないんすか?」
「迎えが来る」
「あー、なるほど。じゃあ、俺も少し待ちます」
響は弦の隣に立って、野球部の鞄を地面に下ろした。
「日和先輩、今日もピアノ弾いてましたよね」
「ああ、弾いてた。全然ダメだったけどな」
「そんなことないっすよ! めちゃくちゃ格好良かったっす!」
響はニカっと笑う。その笑顔に裏なんて無さそうだ。心の底から、弦のピアノを格好良かったと思っているに違いない。
その素直な感想、普段なら嬉しいはずなのに、今の弦は喜べなかった。
「……別に、格好良くなんてない。全然ダメだ。俺は俺のピアノ、好きじゃない」
深刻な顔で吐き出す弦を見て、響は目をパチパチさせる。
「そうなんすか? うーん……まあ、自分の良さって気づかないもんすよね」
「ああ? どういう意味だ、それ」
「誰にだって、『他の誰にも負けないもの』ってあると思うんすよ。日和先輩にも、俺にも。でも、それって自分じゃ気付かないなって」
響は上手く説明しようと言葉を選びつつ、晴れた夜空を見上げながら続ける。
「俺、この前美琴先輩と話した時に思ったんです。俺にも『誰にも負けないもの』があって、それが『|美琴<美琴>先輩を応援し続けてきた時間』なんだなーって。美琴先輩と話さなかったら気づけなかったと思うんですけどね。日和先輩のピアノも、俺にはそう見えます」
響の言葉を聞き、弦は目を丸くした。
「俺のピアノが、『誰にも負けないもの』だって言いたいのか?」
「そうっすね。日和先輩がピアノを弾くことで、色んな人が俺みたいに笑顔になったと思うんすよ。そうやって人を感動させられる音色って、誰にも負けない長所になりませんか?」
「俺の音色が長所?」
弦は表情を曇らせる。全く納得いっていないといった様子だ。
そんな彼のことをどうにか納得させたくて、響は唸りながら言葉を絞り出す。
「じゃあ、大切な人のためにピアノを弾いた時間とか! ほら、よくある話じゃないっすか! 大切な人に想いを伝えるためにピアノ弾いたとか、作曲したとか……誰かいませんか? そういう人……」
「……!」
弦の目が見開かれる。
脳裏に、いつも自分のピアノを傍で聞いてくれていた鈴の微笑みが蘇った。
そして、ガーデンパーティーの直前。保健室で進路の話をしたとき、自分が彼女に伝えたことも鮮明に思い出した。
――俺は、ふーりんのためにピアノを弾いてんだ。こんな俺でも、完璧なふーりんの隣に胸を張って立っていたかったから、唯一の特技だったピアノを再開した。でも……今はそれだけじゃないんだ。俺のピアノを聴いて、喜ぶふーりんの顔が見たいよ。誰よりも、近くで。
そうだ。そうだったじゃないか。
弦は自分がピアノを弾く理由を再度心に刻み、目を閉じる。
――俺は、鈴のためにずっとピアノを続けてきた。あいつが俺のピアノを聴いて喜んでる顔が見たいから、俺はずっとピアノ弾いてたんだ。価値に囚われて、そんなに大事なことを忘れてたなんて……ほんと、馬鹿だ。
弦は拳を握りしめる。
――これからも……鈴のために、ピアノを続けたい。そのためなら、なんだってする。誰よりも美しい音色を、あいつに届けるためなら。あいつがこれからも、俺の音楽を聴いて笑っていられるようにするためなら……。
心から、迷いが消えていく。
表情からも、憂いが吹き飛んで行った。
――誰に気を遣っている訳でもない。この思いが、俺の本当の気持ちだ。俺が、人生をかけて「本当にしたいこと」だ。
「響」
「はい!」
「ありがとな」
弦が微笑んだその時、香田の車が二人の前に停まった。
彼女が降りて来て、車のドアを開ける。
弦は響のことを振り返って、「乗ってくか?」と尋ねる。
「あ、いえ! 走って帰りたいんで大丈夫です!」
「ふは、そっか。頑張れよ」
弦は久しぶりの明るい笑顔を覗かせると、車に乗り込んだ。
そのまま、香田の車は発進する。それを見送って、響は頬を緩ませた。
「日和先輩の力になれたのかな……へへ、俺も頑張るぞ」
響は両頬をパシッと叩いて、荷物を背負い帰り道を走っていった。




