40 背中を押す
アイドルのステージの翌週、金曜日の朝。美琴はC組の扉の前で悶々としていた。
視線の先には静かに読書する鈴と、イヤホンで音楽を聴く弦がいる。
二人の間に会話は無い。
美琴はそれがもどかしいのと同時に、鈴をステージに誘う方法も分からずに教室に入れなかったのだ。
その姿を、しらべは五日連続で後ろから目撃しているのだが、美琴が気づく様子はない。
しらべとしては、美琴が鈴と弦のことで思い悩んでいるのだろうと推察していた。ただ、彼女が教室の中を覗き込んでどうするつもりなのかは分からず、月曜日からずっと声を掛けずに見守っていた。
しかし、金曜日までずっとこの調子なのだ。教室にいる時の美琴の雰囲気も少しピリピリしていて、周囲も心配している。そろそろ声を掛けるべきだろう。
「美琴さん」
「わひゃ!? あ、ああ……京さんか。びっくりした……どうかしたの?」
振り返って尋ねる美琴に、しらべは溜息交じりに「こっちの台詞です」と答える。
「月曜日からずっとC組を覗いてますが、何をしてるんですか?」
「う……記事にするつもり?」
「本人が嫌がっているのに記事にはしません。ただ、あなたがピリついているのをクラスのみんなが気にしているので、落ち着いて欲しいだけです」
しらべの言葉に、美琴は目を丸くした。
「え、私みんなに心配かけちゃってた……?」
「はい。やっぱり気づいてなかったのですね」
「うう、そっかあ……」
美琴は申し訳なさそうに笑いながら、頬を掻く。
「ごめん、気を付けるよ。私、教室に戻ろうかな……」
美琴はそう言うと、笑顔を作りながらD組の方へ歩き出した。
しかし、彼女の雰囲気は依然としてピリピリしたままだ。笑顔もぎこちない。明らかに無理をしている。
そんな彼女が小学校高学年時代にずっと神経を尖らせていた弦の姿と重なり、しらべは放っておくなんてできなかった。
「美琴さん、待って」
「え……?」
「一時限目、一緒に抜け出しませんか? 確か今日は、化学の先生がお休みなので自習だったはずです」
「抜け出す……? サボるってこと?」
美琴は困惑した。
成績のいいしらべでもそんなことを言いだすことがあるのか、そもそもサボるなんてしていいのか……と。
しかし、しらべに迷う様子は無い。
「美琴さんが悩んでいること、私にも心当たりがあるんです。涼風鈴さんと日和弦君のことですよね?」
しらべの言葉を聞き、美琴は目を丸くした。図星だったからだ。
しらべは美琴の反応を見つつ、続ける。
「私も……恐らく、あなたと同じことが気になってます。だから、あなたと話がしたいんです。私の我が儘を聞いてくれませんか」
「しらべさん……」
しらべの表情は本気だ。彼女もまた、鈴と弦のことを真剣に考えているのだろう。もしかしたら、一緒に話すことで何か活路が見えるかもしれない。
そう思った美琴は、迷いを振り払ってしっかりと頷いた。
「分かった。朝の会終わったら抜けだそっか。どこに行く?」
「屋上はどうですか? そこでなら、人目も付かずにゆっくり話せると思います」
「そうだね。そうしよっか」
朝のホームルームの予鈴が鳴る。
美琴としらべは朝のホームルームに出席した後、こっそりと屋上へ向かった。
* * *
七月の屋上は快晴だった。
まだ九時前のため気温が上がり切っておらず、うだるような暑さは無い。
遠くから聞こえる授業の声を聞きながら、しらべは手すりの近くに歩いて行き、青い空を見上げた。
美琴も彼女の様子を窺いながら、その隣に立つ。
「……美琴さん。私ね、日和君のことが好きだったの。小学生の頃からずっと」
しらべの告白に、美琴は目を丸くした。
「そうだったの? でも、京さんってりんりんと日和君のこと応援してたよね? 二人のこと、見守ってあげようって言ってたでしょ。どうして……」
「日和君の幸せが、私の幸せだったから。だから、二人の恋をサポートすることに抵抗はありませんでした。今もそう。……でも一方で、自分が日和君の一番の理解者だったらいいなって思いも消えない」
しらべはそう言うと、目を閉じて、小さく息を吸い、吐く。
「私は、日和君が自分のピアノを好きになれなくて苦しんでいたことを昔から知っていたの。だから、彼が自分のピアノを好きになれるなら、海外に行った方がいいって思ってたわ。でも……そうすることで彼が本当に幸せになれるのか、そして、彼が本心からそれを望むのかは、今思うと分からないわね」
しらべは苦笑いする。
美琴はそれを悲しい目で見つめた後、空を見ながら口を開いた。
「相手の本心ってさ、結局、自分には分からないよね。私も、りんりんのことはすっごく大切だけど……りんりんが私のことをどう思ってるか、今はよく分からないんだ。一人にしてって言葉が、本心なのかどうかも分からないまま逃げ出しちゃったから」
夏のぬるい風が二人の髪を揺らす。
グラウンドの方から体育をする楽しそうな声が聞こえてきた。今の二人には不相応なくらい、明るい声だ。
世界では穏やかな日常が続いている。そんな中、二人のいる屋上だけはそこから切り取られたように幸せが薄かった。
美琴が胸を押さえながら黙り込むのを見て、しらべは口を開く。
「大切な人に笑顔でいて欲しいだけなのにね」
「……うん」
「結局、幸せを見つけるのは本人で、幸せを選び取るのも本人次第なのかしら。もしそうだとしたら……私達にできることは、大切な人が心からの幸せを選び取れるように、背中を押してあげることだけね」
――背中を押す。その言葉が、美琴の胸にストンと落ちた。
「私、りんりんのこと全力で支えなきゃって思ってた。りんりんのためなら、百パーセントのサポートをしても惜しくないぐらいだったから。……でも、京さんが言うように、そっと背中を押してあげる優しさもあるんだね」
美琴はそう言うと、しらべに向かって微笑む。
「ありがとう。私、りんりんを無理やり元気にするんじゃなくて、そっと背中を押してみる」
美琴の笑顔に、しらべも表情を和らげたのだった。
* * *
昼休みがやってきた。
美琴はC組の教室に入ると、勇気を出して教科書を片づける鈴の元へ向かう。
「りんりん」
美琴が声を掛けると、鈴は体をびくりと竦めて顔を上げた。
すると、優しく微笑む美琴と目が合った。
「お昼、一緒に食べよう」
「あ……いい、けど。私今日お弁当だから、学食じゃなくてここで……」
鈴はそう言いつつ周囲を見渡す。
二人で食べるためにはもう一つ椅子が必要だが、あいにくどこの席も空いていない。
鈴の隣の席の弦が、困った様子の鈴と美琴に気付いて立ち上がった。
「俺の席貸してやるから使え」
「日和君、いいの? ありがとう」
「おう……」
弦は美琴に返事をした後、ちらりと鈴の方を見て何か言いたげに口ごもった。
先日の打ち上げでは言えなかったことを伝えたい――そう思ったのだが、この場で言ってもいいものか。
弦がそう悩んでいるうちに、鈴の方が視線を逸らしてしまい、会話は始まらなかった。弦は鞄から弁当を取り出すと、静かに教室を出ていく。
二人の様子がもどかしくて、美琴は励ましの言葉が喉まで出かかった。
しかし、無理やり励ましても鈴に辛い思いをさせるだけだと思いぐっと堪える。
「りんりん、お昼食べよ」
「う、うん……」
美琴は弦の席を鈴の席にくっつけ、弁当の入ったバッグを開ける。
鈴も弁当を取り出し、弁当箱の蓋を開けた。
「……え?」
弁当の中身を見て固まる鈴を見て、美琴は首を傾げた。
「りんりん、どうかした?」
「あ、いや……中身、すごくて」
「中身? お弁当の?」
美琴は鈴の弁当箱を覗き込んで、鈴が驚いた理由を理解した。
なんと、鈴の今日の弁当は可愛らしいまるぺんのキャラ弁だったのだ。
「わー! すご! これ、りっつんが作ったの?」
「うん。お兄ちゃん、今日やけに早起きだなって思ったらこれ作ってたんだ……」
鈴が苦笑いする。それを見て、美琴は「りんりんに笑って欲しかったんだろうね」と笑った。
「りっつんはすごいなあ。今度私も作ってもらおっかな。頼んだら作ってくれるかな?」
「ふふ、どうだろ。弁当箱持っていったら作ってくれると思うよ」
「ほんと? じゃあ、チュチュメさんのキャラ弁作ってもらおうっと」
調子のいい美琴を見て、鈴はクスリと笑った。
やっと、鈴の自然な笑顔が見られた――美琴は安心して微笑む。
「私、りんりんがそうやって笑ってくれるの好きだなあ」
「え?」
「なんか元気出るんだよね。りんりんが笑顔だと」
美琴はそう言って、弁当箱のたこさんウインナーを一口で食べる。
普段通り明るく優しい美琴を見て、鈴の胸に罪悪感が湧き上がった。
「……ごめん。この前は、突き放しちゃって」
鈴は小さな声で謝った。
「自分でも、どうしたらいいのか分からないんだ。いと君に、自分の正直な気持ちを伝えるのが正しいとは思えなくて、でも……このままでいるのは苦しくて」
鈴は目を伏せる。
彼女の辛そうな顔を見た美琴は、大きな声で励ましそうになるのを堪えつつ、なんとか微笑んで口を開いた。
「りんりんのしたいようにしていいんだよ」
「え……?」
「自分の正直な気持ちを伝えたっていいし、日和君の応援に徹したっていいの。でも、私はりんりんが幸せになれる方が嬉しいな」
「私が、幸せになれる方……」
「そう。りんりんがいっぱい考えて出した答えが、きっとそれなんだと思う。だから、私は……りんりんが自分の納得できる答えを出せるように、背中を押したいんだ」
美琴はそう言うと、制服のスカートから小さな封筒を取り出して、鈴に差し出した。
「これは?」
「今日ね、スイートレッドのライブがあるの。それのチケット。木崎駅近くのライブハウスでやるんだけどさ、もし良かったらりんりんも来てくれないかな? お金は私が払っておいたから」
「そんな……いいの?」
「いいのいいの! 私のステージを見て、りんりんに元気になって欲しいだけだから」
美琴は屈託のない笑顔を見せた。
こんなに裏表のない笑顔に逆らおうなんて、鈴にはそんな勇気無かった。
だって、これを断ったら美琴は悲しむ。彼女の悲しそうな顔を、これ以上見たくなかった。
「ありがとう。……放課後、楽しみにしてるね」
「……! うん! 絶対来てね! 私、超頑張っちゃうから!」
美琴の満面の笑みにつられて、鈴も微笑む。
二人はそのまま、昔のように笑い合いながら昼食をとったのだった。




