30 本当のあなた
文化祭二日目の朝。奏は自室のベッドから起き上がり、身支度を始めた。
制服に着替え、洗面所で髪を整える。朝食はトーストにジャムを塗って済ませた。
母が起きてくる様子はない。昨日も夜遅くまで飲酒していたようだし、仕方ないだろう。念のため寝室に足を運んで、彼女の呼吸を確認する。
……大丈夫だ。生きている。
今まで、彼女は奏の学校行事に来てくれたことがない。彼女が足を運んでくれたのは、奏のピアノコンクールのみだ。それも、父が一緒に来てくれるときだけだったが。
奏は小さく息を吐いて、憂鬱な気持ちを誤魔化す。
今日は大事な文化祭で、弦との決着の日だ。最高のコンディションで臨まなくてはならない。
「……大丈夫。気持ちを殺すのは得意だろう」
奏は自分にそう言い聞かせて、いつも通りの笑顔を作った。
「行ってきます」
小さな声で呟き、玄関を出て行った。
* * *
文化祭二日目もいよいよ大詰めだ。
ステージ演目の一番最後、二年C組の木崎城一夜物語は、この次だ。
C組の生徒達も、続々と舞台袖に向かっていた。
奏も月彦の衣装に着替えて、暗幕が下ろされた体育館の中を歩いて行く。
舞台袖の扉までもう少し、といった時。奏の背中が不意に叩かれた。
「周防君」
奏が振り返ると、そこにはしらべが立っていた。
「ああ、しらべちゃん。クラス演劇、見に来てくれたの?」
「ええ。それもありますが……っと、失礼」
しらべは眼鏡の下の大きな目を擦る。
それを見た奏は、柔らかく微笑みながら彼女の顔を覗き込んだ。
「ふふ、疲れ目?」
「はい。昨日、夜遅くまで調べ物をしていましたから」
「そうなんだ。何調べてたの?」
奏はしらべとの会話を続けるために、なんとなく尋ねた。言わずもがな、表情は優しいアイドルスマイルだ。
しかし、その表情は一瞬で崩れることになる。
「あなたのお父様のことです。周防秀平……ピアニストの」
奏の目が見開かれた。
心臓がバクバクと音を立てる。呼吸が乱れる。
「な……なんでさ」
平静を保とうとしているのに、声色すら取り繕えない。
「なんで、あいつの……僕の父親について調べたの」
「それがあなたの闇だと思ったからです。……涼風さんと友達になったことで、あなたは大切な人の死を乗り越えたように見えた。ですが……好意があるはずの私への笑顔と言葉は、常に作り物でしたね。まるで、自分の「嫌な部分」を必死に隠そうとしているようでした」
しらべは真剣な表情のまま、続ける。
「あなたは、日和君に対抗心があるようでしたね。彼とはピアノを競い合っていたのだとか。そして、彼には一度も負けなかった」
「……そうだよ」
「ですよね。そのはずなのに、あなたの言動からは「日和君への劣等感」が滲み出ていましたよ」
「何言ってるのさ。何を根拠にそんなこと……」
「昨日、言っていましたよね。「君も僕より弦を選ぶの」と。涼風さんへの恋は乗り越えたにも関わらずです。そうなると、彼女の他に、あなたよりも日和君のことを選んだ人がいることになります。それが、周防秀平……あなたの父親なんじゃないですか?」
しらべの瞳に迷いはない。確信を持って、奏のことを見つめている。
「……どうやって、そこまで突き止めたの。昔からのファンにも、芸能記者にも、まだ勘づかれてないのに」
「日和君とあなたがピアノのライバルだったことから、あなたの劣等感の始まりはピアノだったと推測しました。運任せでしたが……あなたのピアノの経歴を遡った結果、周防秀平に辿り着いた。そして、彼の黒い噂も知りましたよ。ゴシップ記事の情報なので真偽は分かりかねますが、浮気と再婚を繰り返しているそうですね。目的は「才能ある子どもを授かるため」だとか」
奏は沈黙した。表情は無く。ただ絶望に沈んだ瞳でしらべを見下ろしていた。
「その反応、全て事実なのですね」
「……あはは。君には、知られたくなかったな。幻滅したでしょ。僕がそんなクズの息子だって」
奏は力なく笑って俯く。
「君にだけは、本当の僕は無価値なこと、知られたくなかった」
胸が苦しくて、氷漬けになったように冷たい。涙すら出そうになかった。
しかし、その時。
「……いいえ。あなたは無価値ではありません」
絶望する奏の手を、しらべがそっと握った。
「どんなに辛い過去も、どんなに暗い感情も……その人間の価値を傷つけることはありません。それらは全て、今の自分の糧となり、魅力となるもの……その人の、明るい未来への軌跡です」
しらべの言葉を聞き、奏は目を丸くする。
「明るい未来への、軌跡……?」
「はい。苦しみや悩み、絶望……それらを経験したからこそ、得られるものもある。他の誰でもない、あなただからこそ出せる魅力があると、私は信じています。だから——」
しらべは奏の手を強く握り、自信ありげに微笑んだ。
「見せてください。本当の周防奏の魅力を」
奏の息がグッと詰まる。目頭が熱くなり、涙で視界がぼやけた。
今まで、奏には多くのファンがついていた。彼らはみんな奏に期待し、精いっぱいの応援をしてくれていた。
しかし、彼らが求めていたのは「フローラ・フローラの周防奏」だ。だから、奏に悪い噂が流れた途端、迷いなく彼を見限るだろう。
しかし、しらべは違う。奏の暗い過去を知った上で、彼を見捨てることなく信じてくれている。
本当の奏を知ろうとしてくれている。
奏にとって、こんな人は初めてだった。
「……しらべちゃん」
奏は深呼吸をして、しらべのことを真っ直ぐに見つめる。
その瞳には、絶望も冷たさも浮かんでいない。
ただ、強い覚悟が滲んでいた。
「見せてあげるよ。君が期待する以上の僕を」
「ええ。あなたならきっと、私の期待を上回ってくれると信じています」
しらべは微笑みながら手を離す。
彼女の力強い笑顔を目に焼き付けて、奏は舞台袖へと歩いて行った。
——僕を信じてくれたしらべちゃんのためにも、弦には負けない。絶対に。
しらべもまた、確かな足取りで歩いて行く奏の背中を見つめ、満足げに微笑む。
(本当のあなたの心……教えてくれると信じてますよ)




